【木下朱里(きのしたあかり)①】

 中学に進学したあと続いていた無味乾燥な日々は、こうして終わりを告げる。

 水瀬と再び同じクラスになったことは、間違いなく僕にとって転機となった。とはいえ、直ちに劇的な変化が生じたわけじゃない。生活のリズムは少しずつ、しかし確実に変貌を始めた。

 最初に起こった変化は、僕が、水瀬の姿を目で追う機会が増えたことだろうか。いや、小学生の頃とあんまり変わっていないような気もするが。


 水瀬は今も変わることなく、小さくて可愛い。

 小さいとはいっても、小学生のころと比べたら当然背も伸びた。

 大きくなったのは、身長だけじゃなくて、胸も。

 控えめながらも自己主張をする二つの膨らみは、否が応でも僕の視線を集めた。

 水瀬は小学生時代と変わらず無口なので、男子の友だちなんて全然居なかったけれど、いや、居ない方がいいけれど、それでも、僕のような地味系大人しい男子からそこそこ人気があった。

 肩口までの長さだった髪は背中まで伸び、毛先にまで生命が宿っていそうな艶のある髪は、より天然のウェーブが強くなった。

 ウエストから腰にかけてのラインはしなやかになり、元来、均整のとれた体付きであった彼女は、より一層女性らしい色香と魅力を漂わせていた。


「はあ」


 何を考えているんだろうな、僕は。これじゃあまるで、水瀬に興味があるみたい。

 いや、唯一顔を認識できる女子生徒なのだから、そりゃあもちろん興味はある。女の子の顔を見分けられない僕とて、生涯独身を貫くつもりはないのだから。

 今はまだ想像することもできないが、いつかは女の子と交際をし、愛を育み、結婚を意識する日がくればいいなと思っている。もし、そんな段階に至った時、顔がわからない相手とわかる相手、どちらがパートナーとして相応しいか、なんて、いうまでもない。

 人生という名の荒波を乗り越えていく上で、パートナーを選ぶ権利がもし僕にあるとしたら、その時僕が選ぶ相手は──。


 ──やめろ、やめろ。


 こうして同じクラスになって初めて気づく変化すらあったくせに、疎遠になった関係を、改善しようという努力すら放棄していたくせに、なんという妄想をしているんだ僕は。思い上がりも甚だしい。

 馬鹿げた思考を切り上げると、黒板の方に注意を向けた。


◇◇◇


 さて。

 変化の大きかった容姿とは対照的に、水瀬の学校での様子には、目だった変化がない。

 授業中は、真剣に黒板の文字を追いかけノートをしっかり取る。予習、復習も欠かしてはいないのだろう。学業成績は概ね上位だ。

 だが、周囲と上手く馴染めないところは相変わらずで、休み時間になっても積極的にクラスメイトと交流を図ることもなく、物憂げに窓の外を眺め続ける。学業以外の面で浮きがちな点は、小学生時代と大差なかった。

 ところが、そんな彼女にもたった一人、普通に会話をする女子生徒がいた。


 その女子生徒の名は──木下朱里きのしたあかり

 女子にしては長身で、背中まで伸ばされた茶褐色の髪と、どこか他人を射抜くような力強い瞳が印象的な女の子。

 もっとも僕は、女の子の顔を上手く識別できないのだから、『目つきが怖くなければ、美人顔なんだけどな』というのも含めて徹の受け売り。

 今年になるまで、僕は木下朱里の存在を知らなかった。元々女の子に興味がないのだから、それも自明の理、なのだが。

 これも徹から聞いた情報なのだが、中学に進学する直前に、隣の串間市から引っ越してきたらしい。早い話が、僕たちが在籍していた小学校に水瀬が転校してくる前は、木下と同じ学校に居たというそんな話。

 なるほど、二人が普通に会話をしていることも頷けるというもの。


 休み時間。

 今日も僕は、視界の隅に水瀬の横顔を捉え続ける。それはまるで、誰にも勘付かれてはならぬ極秘ミッションのようで。相変わらずのストーカー気質に、自分でも流石に笑えないと思う。

 だがここ最近、僕は一つの異変に気がついていた。

 端的に言って、視線が合う。水瀬の方をチラ見する過程で、木下朱里と目が合うのだ。

 僕は相貌失認なのに何故木下だと特定できるのか、と思うかもしれないが、幾つか情報を加味することで、どの女子生徒が木下なのか当たりをつけることは可能なのだ。

 たとえば、常時、水瀬の傍らにいるという状況。

 たとえば、髪が長くて長身、という身体的特徴。

 その他にも、独特の低い声質だったり、何かと僕を睨んでくることであったり等々。

 そう。どういう了見なのか全くわからないが、特有の射貫くような眼差しを度々向けられることに僕は大いに戸惑っていたわけで。むしろ特定する気がなくとも、木下だとわかる状況だった。

 視線が合う。こっち見んなよ、とでも言いたげな彼女の視線から逃げるように僕の方から顔を逸らす。そんなやり取りが、幾度となく交わされていた。

 木下朱里と関わり合ってはならない。断じて。僕の心が、強く警鐘けいしょうを打ち鳴らす。


 ……それなのに。

 それなのに、である。

 とある日の昼休み。給食を食べ終えた僕が、机の上に突っ伏して微睡んでいたとき、木下朱里がやって来た。


 彼女特有の、射抜くような眼差しをこちらに向けて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る