第9話 筋肉の女神 [婚約者視点]
「はっ!?」
目が覚める。身体を起こそうとして、びきりと体内から音がした。あばらが数本折れている。頭が割れるように痛い。
濃厚な血の臭いがした。
生臭い魚をヘドロまみれにしたような、魔物の血の臭い。地獄めいた吐き気をもよおす臭い。
その悪臭によって、レティシアは思い出した。
意識を失う前、自分が何をしていたか。
突然、竜が現れたのだ。
竜が空からものすごいスピードで近づいてきた。
嘘だろう……と、誰かがつぶやいた。
歴戦の騎士たちが呆然とする中で、限界に近いはずのケヴィンが雷撃の魔法を連発した。
「呆けるな!」
無理を推して戦う指揮官の怒号に、皆が気を取り戻して戦闘態勢をとった。
竜は、とてつもなく強かった。
空を飛んでいるために、剣も槍も当たらない。たまに近づいてきたら、牙や尾による強烈な攻撃を加えてくるので防ぐのが精いっぱいだ。
しかも、硬かった。
ケヴィンが唱えた魔法のほぼすべてが当たったが、あまり効果はなかった。
鱗の表皮に雷光が走って煌めいたのは覚えている。
みるみるうちに竜が彼に近づいてきて、尾の一撃が馬上にいるケヴィンに当たりそうになり……とっさに身を挺してかばって、強烈な衝撃に気を失った。
あれから、どれだけ経ったのか?
ケヴィンは、自分の婚約者は無事なのか。
「ケヴィン!? ごほっ、げほっ!」
大声を張り上げようとして、レティシアは盛大にむせこんだ。痰に血が絡んでいる。口の中には鉄の味が広がる。口の中が切れているようだ。もしかしたら内臓も傷ついているかもしれない。
「気が付いたわね。ああ、そのまま。だいたいの魔物は片付けたから、無理はしちゃ駄目」
「あなた、は……」
おそろしく目鼻立ちの整った女から、戦場に似つかわしくない優しい声をかけられた。
同性の彼女からしても、天使か何かと思えるほどの絶世の美女だ。
オレンジジュースを宝石のように鮮やかにしたような艶がかった髪。トパーズのように綺麗な瞳。女性としての柔らかみを帯びつつも、意志の強さをうかがわせる凛とした目鼻立ち。可憐な唇と、劇場の主演女優のようにメリハリのついたプロポーション。
レティシアは感嘆した。
(なんて鍛え抜かれた身体……)
すぐに分かった。
彼女が、筋肉の女神であることに。
例えるならそう、肉の千年王国・マッスルミレニアム。
その身体は、狂気とでも呼べるほどの鍛錬の果てにようやく到達できる、至高の肉の顕現。
その肉体は、およそ人間に到達できるとは思えない神の領域。
強く、美しく、あらゆる困難を力で突破する超越者。
レティシアがずっと思い描いた理想がそこにあった。
「ど、どなたですか?」
「女伯爵のアンヌと申します。法王猊下直属の援軍の一員ですわ」
「えん、ぐん……」
よく見れば、レティシア達を襲った大きな、屋敷ほどの大きさのある竜がアンヌの足元にうずくまり、こと切れていた。
「ケヴィン殿下はあちらに。疲労しておりますが命に別状はありません」
アンヌが指さした先に、ケヴィンはいた。
地面に敷かれた大きな布の上に座り、包帯が巻かれ治癒術師らしき少女から回復魔法をかけられている。
どこからか、いい匂いがした。魔物の血ではあり得ない臭いだ。
見れば、大きな鍋に火がかけられて、さっきまで一緒に戦っていた騎士と兵たちが器をもって並んでいる。炊き出しをしているらしい。
匂いからして、とうもろこしのスープだろう。
「助かった、の……? みんな、無事で?」
女の声が脳に染みるにつれて、レティシアの張りつめていた精神が緩んできた。
何度も死にかけた。
何度も駄目だと思った。
自分が魔物を呼び寄せるのに気づいてすぐ、誰もいない場所へ移動して一人だけでずっと戦って耐えてきた。
ケヴィンが現れて安心したのもつかの間、次第に強くなり、数を増す魔物たちに心身ともにぼろぼろになっていた。
生きて帰ることができるなんて希望は、とうに捨てていた。
状況を打開できない弱い自分がいたたまれなかった。そんな自分を励まし、肩を並べて戦う婚約者の姿に惚れ直した。
彼が決して、自分を見捨てないのは知っていた。
だから頑張った。それこそ、死に物狂いで。
けれども、もうだめだと思った。竜が現れて心が折れた。せめて彼だけでも救いたい。
そう思ったら勝手に身体が動いて、ケヴィンをかばっていた。何の解決にもならないと分かっていても、身体が動いた。
彼にだけは、死んでほしくなかった。
一人だけでも逃げて欲しかった。
自分を見捨てて、どこか遠くへ。生きていて欲しかった。
魔物を呼びよせる呪いをかけられてからすぐに、死ぬことは覚悟した。けれども、婚約者の死は受け入れられなかった。だから、死ぬ気であらがった。
そんな中、援軍が現れた。
「よかった。良かった。良かったぁ……」
レティシアは脱力し、その場にへたり込んだ。
一カ月にわたる戦闘の日々で張りつめた糸が、ぷつんと切れる。
身体じゅうがズキズキと痛んでいなければ、そのまま気絶してしまっていただろう。
「助かった……」
「治療します。そのまま楽にしていてください」
聖女見習いだろう。教会のシスターの格好をした少女が近寄ると、レティシアの傷へ回復魔法をかけていった。
周りを見れば、治癒術の使い手が傷つき消耗した兵たちの手当てをしている。
「よく頑張ったわね。後はつよーいみんなに任せて、ご飯を食べてぐっすり眠りなさいな」
「う、ううう……ひっく……、ありがとう。ありがとうございます。綺麗なお姉さん……」
レティシアは、大声で泣いた。
安心した途端に、無理やり押しとどめていた感情が堰を切って溢れたようだった。
190センチの長身の、しかも何日も風呂に入れず魔物の返り血を浴びまくった筋肉ダルマとでも呼ぶべきいかつい女が泣きじゃくる姿は、異様に映ったことだろう。
ところがアンヌは、笑うことなく、小さな子をあやすようにねぎらってくれた。
「よしよし。よく頑張った」
肩をぽんと叩かれた。
「あれ? あれれ? おかしいわ。姉さま、何かした?」
遠くから、声がした。しわがれた老婆の声だ。
レティシアは老婆の顔を見て、ぎょっとした。
「ティアージュ……様……?」
見間違いでなければ、生ける伝説と化した大聖女様だ。
去年の感謝祭で法王猊下の隣にいた姿をレティシアは覚えていた。
何故ここに、と疲れた頭で思った瞬間に、魔物を呼び寄せる呪いを解除するためにわざわざお越しくださったんだと思い至る。
「どうしたの、ティア?」
アンヌと名乗った目の前にいる絶世の美女が、気安く大聖女様に話しかける。
「たった今、禁呪で作られた穴が塞がったの。一瞬で。姉さまの仕業ですか?」
「いいえ。わたくし何もしておりませんわ。だいたい、そんな事が出来るなら老齢のティアをわざわざこんなところにまで呼んだりしません」
「それもそうですわね。では、誰が……?」
ティアージュが首をかしげる。
「訳が分からないわね。本当に塞がっているの? 勘違いじゃなく?」
「姉様。私が勘違いをするなんてありえないわ。もう結界を貼る必要もないし修復も要らない。魔界に繋がる穴そのものが消えた。それこそ、正攻法で解呪の条件を達成したみたいにきれいさっぱりと」
「解呪の、条件……」
アンヌが復唱し、そしてぶつぶつと呟き始めた。
何か考え事をしているらしい。
疲れ切ったレティシアは呆然とそんな彼女を見上げていた。
「まさかとは思うけど」
不意に、アンヌがレティシアを見下ろして、視線を合わせた。
「私、あなたを泣かせてほしいってとある人から依頼されたのよ。魔物を呼びよせる呪いの中心となったあなたを。何か心当たりはあるかしら?」
「わ、分かりません」
本当に分からないので、レティシアは正直にそう答えた。
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