花言葉と悲恋伝説

 図書館につけば、彼はわたしを席に座らせ、そのままどこかへ行ってしまった。


 しばらくして戻ってきた彼の手には、一冊の本が。


 彼は隣の席に腰かけると、状況を理解できないでいるわたしに、あるページを開いて見せた。


「これは、花言葉に関する本……?」


「そうです。花言葉と、その言い伝えを書かれた本です。優瑠うるに知って欲しい」


勿忘草わすれなぐさ……」


 彼が開いて見せたページに目を落とせば、愛らしい青い花の写真が。


 その写真に、わたしの胸はドキリと鳴った。


 何か思い入れがあるわけでもなく、特に好きな花でもないけれど、勿忘草わすれなぐさはわたしにとって特別な花だった。


 なぜと聞かれても、答えようがない。


 わたしも知れない何かが、きっとあるのだ。


 花の写真から視線を少しずらせば、そこには挿し絵がある。


 手を伸ばし合う悲痛な表情の男女と舞い散る花弁の描かれた絵は、とてもではないが小さく可憐な勿忘草わすれなぐさのイメージと結び付かない。


 けれど何故か、その絵がひどく懐かしいものに思えて、わたしはそのページに手を伸べた。


 花や花言葉に興味を持っていた少女時代にでも、この本を読んだことがあったのかもしれない。


 そういえば勿忘草の花言葉は『私を忘れないで』というどこか悲哀に満ちた言葉だったと、今思い出した。


「この絵は……」


 思わずこぼれていた言葉に、アーベルはどこか思い詰めた様子でこたえた。


「……ドナウ川の悲恋伝説です」


「悲恋伝説?」


「はい。わたしの国、ドイツの言い伝えですね。中世の時代です。若い騎士ルドルフは、恋人のベルタのためにドナウ川の岸に咲いた花を摘みに行きますけれど、川に落ちてしまいます。その時にルドルフはベルタに、私を忘れないでと言いのこしその花を投げ、流されて死んでしまいます」


「だから今ではその花を、勿忘草わすれなぐさと呼んでいるのね……」


 悲しすぎる恋人たちの別れにやるせない溜め息がもれる。


 彼はそっと頷いて、わたしを見た。


「そうです。そしてベルタは、ルドルフの言う通りにしました。ルドルフを忘れないように、毎日毎日その花を身に付けて過ごしました。晴れた日にも、嵐の日にも、死んで生まれかわっても、ベルタは勿忘草わすれなぐさを身に付け続けます」


「え、生まれ変わってもって……」


 どういう意味かと聞くよりも前に、アーベルは有無を言わせない表情で、鮮やかに笑った。


 けれど、細められた青い瞳は、しずくを溜めて揺らめいている。


「アーベル……」


優瑠うる


 彼はわたしの名を呼ぶと、おもむろに襟元からネックレスを引き出して見せた。


 出会ったときから彼の身に付けていたネックレスだけれど、たまに覗くチェーンの部分しか目にしたことがない。


 だからわたしは、チェーンと同じシルバーのペンダントトップの揺れるさまに、息が止まるのを感じた。


 それが、小さな花を模していたから――。


「……勿忘草わすれなぐさ?」


 思わずつぶやいたわたしに、アーベルはゆっくりと顔を上げた。


 彼の瞳がわたしをとらえる。


 ただただわたしを見詰めてくる瞳に、その場に縫いとめられたように体が動かなくなる。


 どこか哀しみのにじむその瞳の色を、わたしは遠い昔から知っている気がした。


 勿忘草わすれなぐさによく似た、淡い青色の瞳を。


「アーベル、貴方……」


 鼓動が速くなっていく。


 全身が脈打つように、心臓の音が大きく聞こえる。


 意味深いみしんな言葉と、勿忘草のペンダントトップ。


 彼の言わんとしていることを予想して、わたしは時が止まったような感覚に襲われた。


「この伝説が、わたしが水が苦手な理由だって、そういうことなの……?」


 アーベルは肯定するように、ひとつ頷いて目を伏せた。


 つまりそれは、アーベルが伝説上の女性ベルタの生まれ変わりで、今でも勿忘草わすれなぐさを身に付け続けていると言うこと。


 そしてわたしは、ドナウ川で溺れ死んだというルドルフの生まれ変わりで、だから水が苦手だと言うことなのだろう。


 そんな話を、誰が信じるのだろうと、頭の隅で揶揄やゆする。


 けれど、彼の表情はとても冗談を言っているようには見えない。


 その瞳は、真に迫るように真摯しんしな光を宿している。


 そして何故か、そんな彼の言動に、困惑や不気味さを抱くより先に、ひたすらにそれが事実であると受け止めてしまう自分が、何よりも恐ろしかった。


 まるで、それが事実であるとどこかで知っていたような感覚さえしてくる。


 水面みなも波紋はもんが広がるように、穏やかにゆっくりと、『前世』というものがごく自然にわたしの中に馴染なじんで行く。


 何かを思い出したわけでもなく、けれど水への恐怖と勿忘草わすれなぐさを特別視する不思議が、当たり前のようにあの頃のトラウマとノスタルジーであると、理解してしまったのだ。

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