青い瞳の留学生
「おはよう。
通いなれた、大学のキャンパス内。
わたしを見付け、微笑みながらこちらへ歩いてくる彼の顔の造形は、日本人のそれとは大きく異なっていた。
彫りの深い目鼻立ちと、栗色の猫毛、柔らかな青の瞳は、彼が外国人留学生であることを主張している。
「おはようアーベル。今日は一限から?」
「違います。
日系の親戚の影響から、日本への留学を夢見ていたのだという彼は、日本語を話すのが本当に上手だ。
たった三ヶ月の留学期間の間に多くのことを吸収しようとしている姿勢が、とても好ましい。
「日本の文化は面白いです。また教えてくれますか?」
「
二人連れ立って、キャンパス内を歩く。
彼が来てから、既に二ヶ月以上の時が流れた。
もとより留学生の多い大学。
日本語での授業も難なくこなす彼は、明るい性格も手伝って、同じ学部の生徒たちとすぐに打ち解けて馴染んでいった。
だのに、何故か彼はわたしと居ることを好んだ。
わたしに日本について教えて欲しいと頼んできた時は、何故わたしなのかと驚いたが、それも日常となりつつある。
今では、周りからすっかりペアと認識される程には、仲良くなっていた。
けれど、彼の帰国はもう目前まで迫っている。
大切な人からの贈り物だというネックレスを肌身離さず持っているような人物だ。
わたしたちを焚き付けようとする友人は多く居たが、わたしには端から可能性すらない。
今日もシルバーのチェーンが、襟元から覗いてキラリと光っている。
「アーベルはわたしと違って人気者なのだから、もっと沢山の人と交流すべきよ。日本に居られるのも、あと少しでしょう?わたしにこだわらなくたって、日本について教えてくれる人は、多く居るわ」
少し憎らしい気持ちで横目に彼を見れば、長身の彼はやや身を屈めてわたしを見た。
「
「んふふ。お呼びじゃないの?」
「はい。お呼びじゃないです」
どこで覚えたのか、真剣な顔でそんなことを言う彼に、思わず笑みがもれる。
本当に、ずるい人だ。
そこまで言われると、もっと沢山のことを彼が学べるようにしてあげようと、そう思ってしまう。
そして期待してしまうのだって、きっと仕方のないことで。
「ありがとう。人に教えるのって、はじめてだったけれど、上手だと言ってもらえたなら及第点かしら。でもね、お呼びじゃないって言葉は、あまり使わない方がいいわ。とても綺麗な言葉とは言えないもの」
「?」
解らないといった様子できょとんとしている彼の表情に、また口角が上がる。
日本のアニメやマンガに興味津々の彼のことだから、何かの作品に出てきた言葉を使ったのだろう。
日本語には細やかな言い回しが多く、少しの差異が相手に与える印象を大きく変えてしまうのだと説明をしながら歩いていると、ふとアーベルが足を止めた。
「どうかしたの?」
「こちらは違います。図書館、あっちですよ?それとも、違う場所、目指してますか?」
「あぁ……」
わたしは立ち止まって、アーベルの指さす方を見る。
確かに図書館へ行くには、アーベルの指さす通り真っ直ぐに進み、噴水を通りすぎて行く方が早い。
けれど、その道をわたしは通れなかった。
「いいえ。図書館へ行くわよ。でも、あなたが良ければ、少し遠回りをしてもいいかしら?」
彼は眉をひそめたが、それは一瞬のこと。
ごく自然な素振りで頷くと、そのまま何もなかったように別の話題を話しはじめた。
彼の気づかいだということは、言われずともわかる。
楽しそうに話すその横顔を見ると、何かが喉に詰まったようにすっきりとしない感覚をおぼえ、わたしはそっと息を吐き出した。
「苦手なの……」
「うん?」
こちらを振り返った彼が、不思議そうに首を傾ぐ。
「わたし、水が苦手なの。何故だかわからないけれど、幼い頃から。特に、川や噴水のように流れている水は駄目なのよ。見ているだけで怖くって。だから、噴水を避けて、遠回りをして図書館に行きたかったの。ごめんなさい」
彼に、謝る。
遠回りをさせたこと、そして、変に気を遣わせてしまったことを。
水が怖いだなんて、子供みたいで恥ずかしい。
自分でもわかってはいるのだが、怖いものは仕方がなくて。
気まずさから伏せようとしたわたしの目に、ふと彼の表情が飛び込んできた。
彼は、驚きと戸惑いの入りまじったような、どこか哀しそうな表情で、呆然と立ち尽くしている。
何とも言い表すことも出来ないその表情に、わたしは困惑を隠せなかった。
あの花の色に似た淡い青の瞳がわたしを――否、わたしに重ねた誰かを見て、ひどく心許なげに揺れている。
「アーベル?」
名前を呼ぶと、彼は
「……
「いいえ。特段、トラウマになるような出来事は何もないの。ただ、幼い頃から水が流れる様子を見ると、息ができなくなるほどの恐怖を感じてしまうのよ。おかしいでしょう?」
沈黙がおりる。
何も言えないでいるわたしたちを嘲笑うように、肌寒い風が吹き抜けて行った。
「そんなこと、ないです」
「え?」
「おかしく、ないです。僕にだって、怖いものあります。みんな同じ。それに君は……」
言い淀んだ彼が、ふいにわたしの手を取って見詰めた。
「と、図書館!行きましょう!」
「え?」
「
「それ、どういう意味なの……?」
訳もわからないまま、わたしは彼に手をひかれて図書館へと向かう。
彼の言いかけた言葉、あの言葉の続きは何だったのだろうか。
それはわたしには分かりようもないことで。
考えることを早々に諦めたわたしは、彼の顔を盗み見る。
そういえば、はじめて彼に出会った時も、彼は何かを言いかけて止めたのだ。
今も、そしてあの時も、彼の本音は瞳の青に閉じ込められて、こちらは少しも探ることが叶わない。
その青の深さすら、わたしには推しはかりようもないのだ。
だからきっと、この心に芽吹いた淡い想いも、彼に届くことない。
その事実がどこか哀しくて、わたしはそっと繋がれた手を握った。
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