拝啓 名もなき人よ

槻木 友

拝啓 名もなき人よ

少し窓の外が白んできたな。

午前5時、早くに目が覚めてしまった僕はそう思った。

冬が終わりを告げ、少し春の陽気が包み始めた3月中旬。

まだ、夜は寒いだろうと思い、冬用の布団を被って眠りについたのだが、起きると布団を蹴っていた。


静かな春初の朝。

仰向けになって、真っ白で無垢な天井をじっと見つめる。

今日はこの家で彼女と僕だけで過ごす最後の日だ。


体をほとんど起こさず、もぞもぞと右にゆっくり移動し、隣で寝ている彼女の布団の中に、起こさないようそっと入る。

そして右側に寝返りを打っている彼女の背後からそっと腕を回し、抱く。

そして、彼女の短い髪に鼻を近づけ、大きく息を吸い込む。

彼女の放つ、甘く柑橘系の匂いを感じ、安堵する。


今日で、この家で彼女との2人きりの日々が終わる。

彼女の柔らかな二の腕や臀部。

そして、乳房は僕だけのものではなくなる。

彼女の繊細で滑らかな唇は僕だけのものではなくなる。


僕は彼女を全身で感じるように、お腹に手を回し、もう一度大きく髪の匂いを嗅いだ。

春の陽気と彼女の優しく包む温もりに抱擁されながら、僕はまた眠りに落ちた。


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忙しなく動く彼女が立てる物音で目が覚めた。

隣を見ると僕の布団は綺麗にたたまれていて、彼女の布団の上に僕だけが残されていた。

「朝ごはんできたよー。起きてー。」

彼女の声がダイニングから聞こえてきたのを号令に、僕は彼女の布団をたたみ、ダイニングテーブルに座る。

「おはよう。お義母さん達何時に来るんだっけ?」

「なんか道が空いてて、10時半くらいには着くみたい。」

「やば。あと1時間しかない。」

僕は急いで朝食を取り、洗面所に向かう。

歯を磨き、顔を洗ったあと2日伸ばしっぱなしだった青くなった顎髭を、シェーバーで整える。


洗面所から戻り、足早に着替えて、最後に彼女が持っていく荷物を確認する。

「肌着、おむつ、あと哺乳瓶・・・。」

彼女が昨日の夜までにリビングの隅にまとめておいた荷物を運搬用のクリアケースに詰めていく。

「あとは何がいるかなー。ベビーバスっていると思う?」

「どうなんだろうね。」

「まあでもあったほうが便利だし持っていったほうがいいよね。持っていこう。」

彼女はそういい、ベビーバスを持っていくものの方に仕分けた。

悩む度に聞いてきては僕が結論を出す前に、自ら解決していく。

そうならば、なぜ色々と聞いてくるのだろうといつも思う。


荷物の最終確認が終わり、持っていくものを玄関にまとめ、しばし待機の時間となった。

僕は一人暮らしの時から愛用している、カリモクの黒革張りの2人掛けのソファに寝そべり、昨日途中まで見た好きなお笑い芸人の動画の続きを見る。

しばらくすると、彼女が

「お母さん達、下まで着いたみたい。ちょっと駐車場まで案内してくる。」

と言い、家を出ていった。


僕は手に持っていたスマホを置き、窓をじっと見つめる。

4階の部屋からはベランダの外には空しか映らない。

外に干している洗濯物は僕のものだけ。

そして、部屋の方を振り返る。

12帖のリビングダイニングは1人では広すぎて、物憂げな景観をしていた。


今日、妻は家を出ていく。

お腹にいる子供を産むために、地元に帰るのだ。


妻が里帰り出産をしたいと言った時、特に反対しなかった。

僕の仕事は時間や休みが不規則で、専業主婦のお義母さんのいる実家に滞在したほうが良いと思う、と言われ

「そうだね。」

と一言だけ返した気がする。


今になってそのことに後悔する。

別に1人暮らしが初めてなわけではない。

なんなら6年も1人で暮らしていた。

しかし、一度家で待つ人がいる感覚を味わうと、そのことに無性に耐えられなくなってしまう。


そして、二ヶ月間1人で暮らした末に待っているのは、今まで通りの2人の暮らしではない。

妻の愛を享受するのは僕だけではなくなるのだ。

妻の愛は分配することになる。

お腹の中のあいつと。

名もなきあいつと。

五分五分なら御の字だろう。

おそらくほとんどの愛はあいつに向けられて、僕にはほぼ残されないのだろう。

妊娠を知った時は素直に嬉しかったが、今更ながらあいつに嫉妬している。

名もなきあいつに嫉妬している。

妻の柔らかな二の腕や臀部、乳房。

そして優しい抱擁も僕だけのものではなくなるのだから。

さらにあいつは、妻の血を分けてもらえるのだから。


しばらくして、妻が義父母を連れて家に戻ってきた。

機械に詳しい義父は調子の悪いテレビの修理、義母と妻は一緒に荷物の最終確認と、事前に示し合わせていたかのように手早く作業を始める。

1人取り残された僕は、3人が作業している姿をカリモクのソファでコーヒーを啜りながら、呆然とみている。

しばらくして荷物の最終確認が終わったのか、義母だけ僕に話しかけ、花粉の季節だから洗濯物は外に干すようにと言ってくれたり、栄養が偏るといけないからと大玉のレタスをくれたりと、1人で暮らすことになる僕を気遣ってくれる。

その間、妻は確認を終えたベビー用品を、鼻歌を歌いながら再度クリアケースに詰めていた。

一通り作業が終わると、義父は車を取りに行き、僕は義母とマンションの4階からエントランスに荷物を下ろす。

荷物を全て下ろし終えたタイミングで義父が車に乗ってやってきて、トランクに荷物を詰め込む。

予想外に多くなった荷物はフリードのトランクと三列目の座席ではおさまらず、二列目の一席を埋めた。

そして見計らったかのように妻が降りてきて、3人は車に乗り込む。

義母が、

「4人で車に乗ってお昼でも食べにいこうと思ってたけど、乗れなくなっちゃったわね。」

と言う。

僕は、

「大丈夫ですよ。昨日の残りのカレーもありますし、何より身重の人を連れ回すのもよくないので。」

と言う。

あら、そう?と義母が言ったタイミングで後部座席の窓が開き、妻が顔をのぞかせ、

「じゃあ、またね。すぐ帰ってくるから。」

と言った。

エンジンがかかり、3人が僕に手を振ったので、僕も振り返す。

そうすると車は発進し、しばらくすると一時停止の交差点で律儀に止まり右折していく。

そして、気がついた時にはいつものコンクリート舗装のT字路の突き当たりの木造アパートが見えていた。

空虚な街角の景観が佇んでいた。


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4階の部屋に戻り、キッチンでカレーに火をつけて、温まるのを待っている間にカリモクのソファに腰掛け、残ったコーヒーを啜りながら、リビングに開けられたベランダを望む窓から差し込む陽の光を見つめる。

陽光に照らされ可視化した埃が、舞うことで不規則に動き、乱反射した光がチカチカとしている。


お腹の中のあいつは、名もなきあいつは光をまだ知らないのか。

隔壁に遮られ、羊水に包まれたあいつは、唯一の接点である臍の緒以外は外界と繋がっていないのだから。

目を瞑り、揚水を漂いながら、世界の入り口から俗世と相対し、生を受けるのをじっと堪えながら待っているのだ。


光をお前はまだ知らないのか。

全身を突く鋭い光の中で、しばしば見ることができる、温かく包む優しい光もお前はまだ浴びたことはないのか。


義母にいらないと言われ、置いていかれたベビーバスが、目の前にポツンと所在なさげにしているのを見て、僕はそいつを手繰り寄せギュッと抱きしめる。


お前はまだ愛を知らないのか。

それならば、僕が愛を教えよう。

母がお前を愛するのと同じくらい、お前をうんと愛そう。

そうすればお前も、僕に愛を与えてくれるだろうか。

お前はしばらく与えられることしかできないけれど。

人に愛を与えられるようになるその時まで、お前を照らす優しい光に僕はなろう。

強く突く俗世の光に、お前が挫けそうになった時、手を添えて優しく包んでやろう。

お前が自分の足で歩けるように、支えよう。

妻がお前に血を分けたように、僕もお前に血を分けたのだから。


名もなき人よ。

生を受けていない娘よ。

光は世界の入り口。

強く突いてくる俗世の光を、僕とお前で逆に照り返してやろう。


そろそろカレーが温まっただろうか。

僕は手に持ったコーヒーカップを置いてキッチンに向かった。


長い冬を終えて、植物は芽吹く。

生命の源の春陽を浴びて。

窓からさす温かな光が、リビングのガラステーブルに反射して、部屋を柔らかく照らしていた。



敬具

 



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拝啓 名もなき人よ 槻木 友 @kimuni9698

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