第4話
窓を叩く雨の音で目が覚める、病み上がりの朝は薄暗く寒々しかった。一時限目から講義に出て、夕方からはそのまま家庭教師のバイトへ行った。今日の生徒の家はよく夕飯をご馳走してくれるからいつも感謝しているのだが、中でもおいしいはずのビーフカレーが病み上がりの胃袋には少々辛かった。ようやく帰宅した部屋はここ数日ですっかり荒れ果てており、掛け布団の絡み合った万年床、かろうじて運んだ容器や食器に溢れた流し台、ゴミ出しの日を一回スキップしたゴミ袋にはもう何も入らないし、洗面所の片隅には洗濯物が積み上がっている。さて、どこから片づけたらいいのだろうか。映はひとつ深呼吸をして、まずは洗濯物を一番大きなバッグに詰め込み始めた。
寝込んでいる間に何度か汗を掻いて着替えたせいもあり、いよいよ着る物がない。下着だけは手洗いして履いていたが、それも限界だ。天気予報は無情にも、明日も明後日も傘マークが続いているのだし。
苦心しながら傘を差し、大量の洗濯物を担いで赴いたコインランドリーには、何人かの先客がいた。家族のぶんなのだろう大量の服やタオルをテーブルに広げてたたんでいる女性、ベンチの真ん中に座る中年男は新聞片手に缶ビールを傾け、端に座ったやや年若いほうの男はそれを迷惑そうに時折横目に見ている。他の機械もほとんど使用中で、なるほど、雨の日の夜のコインランドリーはこんなにも混雑しているのかと、少し面食らった気分でいる。
空いていたのは容量の大きなやや割高の機械だけだったが、背に腹は代えられない思いでそこへ洗濯物を突っ込む。千円札を滑り込ませ、洗濯と乾燥のボタンを押し、ドラムが準備運転を始めてしまえばもう諦めがつくというもので、先客に並んでベンチに座るのは憚られ、壁際に寄りかかって待つことにした。
副島からは、あれから連絡がない。弾みで交わした――いや、交わしたなんて言うにはあんまり濃厚な行為が気まずい自分からも、連絡できないでいる。彼の買ってきてくれた食事と薬と、何より彼の親切に、きっと自分はろくに礼も言えなかったろうと思うと、心苦しいし後ろめたい。
このまま会うこともなく忘れるのは簡単だと思う。曜日を、時間を、少し変えるだけで風景はこんなに違うのだ。たとえばこのコインランドリーではなく少し遠いが別の店に変えるだけで、たぶん、簡単に、二度と会わなくなる。彼にとっては、戯れに構った貧乏学生なんて、白昼夢みたいな存在だろう。
壁に寄りかかりながら、ポケットの中のスマートフォンを取り出す。
書いては消してを何回か繰り返して、結局送ったのは、今日の自分のひどくつまらないスケジュールだった。
『この間はありがとうございました。おかげさまで、今日から大学とバイトに行けました』
しばらく手のひらで弄んでいても、既読の文字は浮かばない。もしかしたら、それに安心してしまったのかもしれない。
『今、コインランドリーです。明日も雨なので、乾燥までにしてみました』
余計な一文を送信して、スマートフォンをポケットに戻した。
しばらくして若いほうの男が去り、空いたベンチの端に腰かけた。いつの間にかうとうとしていたらしく、はっと目を開けて見回すが、見知らぬ中年男と離れて並んで座っている状況に変わりはなく、残り時間は十分減ったくらいだ。終了まで、まだたっぷり一時間ある。
その時、店の外が明るくなった。ガラスの向こうを見ると、まっすぐこちらを照らしていた車のヘッドライトが消える。駐車スペースに前向きに滑り込んだのは黒い高級車で、フロントのエンブレムは確か副島の物と同じだったが、どこにでも走っている国産の高級車だから大した偶然ではないだろうと思いなおす。どんな人物が降りるのか下世話な好奇心から眺めていると、暗がりの中で傘も差さずに飛び出したのは、副島だった。
「はーちゃん」
自動ドアが開き、店内に彼の声が朗々と響く。ボタンを二つ外したワイシャツ、折り目のついたスラックスに、こんな時間に色の濃いサングラス。ベンチの中年男がぎょっとしたように副島を見るのがわかり、映は慌てて腰を浮かせた。
「副島さん」
「来る前に言えって」
副島は映の鼻先に顔を近づけ、にやりと唇の端で笑った。
「奢らせろよ」
「……そんなの」
まだ有効だったらしい約束に戸惑って口ごもると、副島の顔はすぐに遠のき、ずらりと並んだ機械に向けられる。
「あとどれくらい?」
「まだ……一時間くらい」
「はーちゃん、飯食った?」
「食いました」
「なんだよ、急にガード堅いな」
彼はサングラスを少しずらすと、上目遣いにこちらを見て、やはりにやりと笑うのだった。
「じゃ、ドライブしようぜ」
今まで乗った車の中で、一番乗り心地の良い助手席だった。ワイパーで拭っても拭っても雨に遮られる窓、濡れた道路がライトを反射してきらきらと眩しく、タイヤの立てる水音がやけに大きく聞こえる。天候も時間もドライブにちょうどいいとはとても言えないが、馬鹿正直にそれを楽しむために乗っているわけじゃない。
「煙草、いい?」
カチ、ライターの音に続いて、少し甘くて香ばしいにおいが広がる。音もなく下がった窓の向こうへ、ふーっと細く煙を吐くと、一口吸っただけの煙草を惜しげもなく灰皿へ押しつけ、また音もなく窓を上げる。
「元気になったみたいで、よかった」
「はい、ありがとうございました」
「大したことしてないけど。報酬のほうがでかかったし」
「報酬って……」
むしゃぶりつくようにキスをした感触がよみがえるようで、堪らずに唇に触れる。
「ついてきたってことは、脈ありだって思っていいんだろ? じゃなかったら、迂闊どころの話じゃないぜ。俺もきみも、大人なんだ」
盗み見上げた副島の横顔は、笑っているようにも怒っているようにも見える。わかっている。余計なメッセージを送って誘ったのは自分だ。
「ってのは、まあ、意地悪すぎるか。俺は大人だけど、はーちゃんはまだ」
「……迂闊じゃないです」
それ以上は言葉にできず、映はスラックスに包まれた副島の太股に手を置く。レバーに添えられていた彼の手が、映の手の甲を撫でた。
「好みなんだよね」
ひどく軽い言い草なのが、彼らしいと思った。
「副島さん、ゲイなんですか?」
「言わなかったっけ?」
長い指に手の甲の骨をたどられるのがくすぐったいし、それだけで済まない気分にさせられる。
「聞いてないです」
「いや、したよな? 前のオトコが家財道具一式持って逃げた話」
「――あ、そっか」
「興味持ってよ」
「すいません」
副島の容貌に、態度に、圧倒されてばかりいた初対面の時。相槌を打つのに必死だったし、まさかこんなことになるとは思わなかった。愛撫の中で手のひらを上へ向けると、ゆっくり握り込まれるから、恐る恐る握り返す。再び盗み見上げた副島の横顔は、愉快そうに綻んでいるようだった。
「俺みたいな感じだったんですか? えっと……その人も」
「いや、全然。好みってさ、好きなアイドルみたいなもんだろ? 現実に付き合うのなんて、タイミングだったり妥協だったりするじゃん」
きらきらした恋愛も、愛が転じて憎んでしまうような激情も、経験はないけれど。彼の言っていることはなんとなくわかる。だから、好みだなんてあっけらかんと言ってのけられたのが、急に恥ずかしくなった。
「俺さ、好きな子にはすっげー甘いの。何でも許しちゃう。で、何でも許しちゃうから振られんの」
「……家財道具一式、持ち逃げされても?」
「キャッシュカードもな」
「そんなこと、しません」
「うん、良い子だよな」
「普通ですよ」
「いや。清く正しいよ、はーちゃんは」
ウィンカーを出した車が細い道へ入り、路肩へ停まる。エンジンが切れると雨がずいぶん激しくなっていることに気づかされ、やがてルームライトが切れると、車内は真っ暗になる。ぎし、とシートの端を掴んだ副島がこちらへ屈み込むのを、映は顎を上げて迎えた。
「ん……」
唇が重なる。啄んで、少しずれて、また啄む。消えかけの香水と、煙草のにおいが鼻をくすぐった。
「はーちゃん、こっち来て」
「……うん」
「そこ、気をつけて」
レバーを避けながらコンソールを跨ぎ、副島の太股に乗り上げる。さっき雨の中を走ったからだろう、ワイシャツの肩が冷たく濡れていた。相貌を遮るサングラスを取り上げ、暗がりの中でにやつく彼にキスをすると、ふふっと失笑の息が弾けた。
「よくできました」
大きな手に尻を撫でられ、それから、内股を撫で上げられる。
「触っていい?」
「もう、触ってます」
「そうだった。勃ってるな」
彼の指先がズボン越しに硬くなった映を伝い、裏返った鼻声が漏れた。
「……んっ」
副島は悦に入ったように、喉の奥で笑う。
「エロい声」
「……なにそれ」
「かわいいよなあ、はーちゃん」
「好み?」
「さっきから、そう言ってる」
鼻先が近づいて、また唇が重なる。一度軽く押し当てて、次に、じっくりと吸い上げる。映の腰を抱いたまま彼が身じろぎをすると、二人はシートごと滑らかに後ろへ倒れた。
「……ここでするの?」
ちゅむ、キスの合間から問いかける。
「それもいいよなあ」
ちゅむ、キスの合間から答えがある。
「あの、俺」
「なに? まさか洗濯の心配?」
「じゃなくて……上手くできない、かも。初めて、だし」
「そりゃ良いこと聞いた。大丈夫、上手くやるのは俺の役目」
知らず腰が揺れて、彼の股ぐらへ自分のそれを擦りつけている。押し返してくる弾力が、彼も少し勃起しているのを映に教えてくれて、きゅんと痛みに近い快感が走った。
「あ……」
「たまんねーな」
濡れそぼった唇が頬に当たり、耳たぶを舐められる。Tシャツの裾から忍び込んだ手が、素肌の背中を撫でる。映は副島の薄い頬を抱いて、夢中でキスをした。彼の手が映のズボンのボタンを外し、ファスナーを下ろす。それから、カチャリと鳴ったのはきっと彼のベルトで、剥き出しになった二人のペニスが触れあう。温かくて、少し湿っていて、大きくて、硬い。
「ふっ……」
「このまま」
「ん、うん」
彼の手の中で、彼のペニスに擦り上げられる。どくりと脈打ったのは、どちらだったのだろう。
「あっ……」
「いーよ、感じてて」
熱い息がこもり、胸を汗が伝う。立派な運転席のシートが、きしきしと小さく揺れ始めた。
やだ、なんて睦言が本気の抵抗でないことなんて、彼だってよく知っていたのだと思う。追い立てられるように副島の腹へ吐き出した。それから、まだ達せないでいた彼を懸命に擦ると、やがて彼も小さく呻いて、しばらく抱き合ったまま息が収まるのを待った。汗で頬に貼り付いた髪が、ひどくうっとうしい。
「さて……戻るか」
「……しないの?」
「なんか、誤解がある気がするんだが。俺だって、誰彼構わず連れ込んでカーセックスしてるわけじゃねーの。何にも用意してないっての」
「俺、いいのに」
「だめ。はーちゃんのこと、めちゃくちゃ気持ちよくしたいから」
「……なに、それ」
「まだ知らないんだろ? ちゃんと、教えたげる」
助手席に押し戻されて、来た道を戻る。持て余しているものの正体なんてわかりきっているから、何事もなかったような取り澄ました横顔が憎らしくて、つまらない文句をぶつける。
「副島さんって、夜でもサングラスなんですね。危なくないんですか」
「だからぁ、度が入ってるって言ってるだろ」
顔を顰めて笑う彼は、だけど妙に上機嫌だった。
閉店間際の明るいコインランドリーは、既に無人だった。映の洗濯物は乾燥まですっかり済んでおり、扉を開けて取り出すと、まだほかほかと温かかった。生まれて初めて使った乾燥機の仕上がりは、晴れた日にベランダに一日吊すよりずっと良い。
「すごい、ふわふわ」
感動のあまり振り返ると、副島が口元を拳で隠し、しかしごまかせずに盛大に吹き出す。
「……そんな、笑わなくても」
「いや。いいだろ、乾燥機」
「うん。高いけど」
「いつでも奢ってやる」
「……ううん。バイト、また探します」
「あ、俺ん家の洗濯機やろうか」
誘惑を感じなかったと言ったら嘘になるが、慌てて首を振る。そんな映の内心なんてお見通しなのかもしれない、くくく、と、また笑われた。
「そうだ、はーちゃん」
上着の胸ポケットを探る動作をしかけて、着ていないことを思い出したのだろう、軽くワイシャツの胸を叩く。それから尻ポケットに手を突っ込んで、副島が取り出したのは小さな革製のケースだった。抜き出した一枚の名刺を、ぞんざいにこちらへ寄越す。
「そのバイトなんだけど」
「あ、うん」
「雑用係でよければ、だけどな。大した時給は出してやれねーし……ロー生だったら多少は高く雇ってやれるんだが。ま、考えといて。ボスと俺とパートの姐さんの、小さい事務所だよ」
名刺に刷られている文字を、じっと見つめる。
桜田次郎法律事務所、弁護士副島了悟。
それが彼の、正体だった。
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