第3話
もし連絡しなかったことが知れたら言い訳に困るだなんて、また顔を合わせるのを期待するみたいな小心さから、前日にメッセージを送った。午前中に講義のないのはその日だけで、映にとってはコインランドリー指定日のようなものだったが、今朝、寝坊でその約束をすっぽかした。既に一週間ぶん溜まった洗濯物のことを思い遣って少しうんざりもしたが、結局布団から出られずに講義も休んでいる。頭がぼうっとして、身体が重い。体温計なんてなくても、熱を出しているのだろうとわかる。布団にくるまりながら、浮かされた頭で、講義を受けられなかった焦りに押しつぶされそうになったり、今日はバイトがなくてよかったと安心した次の瞬間に今月の収入の少なさを悲観したり、でもしばらくこんなふうに寝込んでいれば水道光熱費も食費も浮くだろうなんて馬鹿なことを考えたりもしていた。
次に目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。
どれだけ眠り込んでいたのだろうとスマートフォンをたぐり寄せたが、デジタル表示の時計は、まだ日没からそう時間が経っていない時刻を示している。それから、ロック画面には未読メッセージの通知が二件。一件は副島からで、昼前にやっとの思いで送った『今日行けなくなりました』の一文に対する『OK』のスタンプだった。もう一件はノートの写しを頼んだ友人からの映を気遣うメッセージで、ありがと、まだ熱があるっぽい、明日も無理かも、と切れ切れに返事を送って、またすぐにぐったりと枕に顔を埋めた。
ムー、ムー、放り出したスマートフォンが震えだす。無視を決め込む自分より、相手のコールのほうが根気強く、根負けしてディスプレイを見る。浮かび上がっていた副島の名前に、映は慌てて通話ボタンを押した。
「はい」
鼓膜に吹き込まれた声が、いやに大きく感じる。
「はーちゃん、熱出してんの?」
「え、なんで知って」
「いや、今、LINE送ってきたろ」
動かない脳みそを必死に動かす。さっきのメッセージを送った相手、もしかして――。
「え? あれ? あ……すいません、間違えました」
「うん、だと思ったけど」
くくく、と忍び笑いの息が伝わってくる。あの、どこか人を小馬鹿にしたようにも見える皮肉っぽい口元が脳裏にちらついて、熱のせいだろうけれど、ひどく人恋しい気分に襲われる。映は堪らず、スマートフォンをぎゅっと握った。
「大丈夫? ひとりなんだろ?」
「あー、はい、なんとか」
「病院は?」
「や、そんな大したこと……金もないし」
「薬は?」
「えっと、切らしてて」
「水だけは飲めよ。脱水はやべーぞ」
「……はい」
穏やかな叱責に、思わず鼻がつうんと痛む。スピーカーの向こうでガサガサと衣擦れのような音がした。
「はーちゃんちって、近くだよな? 住所――アパート名と、部屋番号教えて」
「や、そんな」
「声ひでえし、心配だわ。友達とか、彼女とか、来てくれる子いんの?」
「いない……です」
癖になってしまったのかもしれない。彼の言葉に、簡単に揺らいでしまう。口ごもってみせたところで、どうせ、うわごとは勝手に口をつくのだ。
戻りの遅いチャイムの、間の抜けた音に起こされる。変わらずにどっぷりと暗い部屋を、よれた布団や、床上に散らばった荷物をつま先で避けながら、ふらふらと玄関へ歩く。手探りで部屋の電気をつけ、ドアを開けると、通路の薄暗い明かりを受けた副島が立っていた。ボタンを二つ外したワイシャツに、折り目のついたスラックス。サングラスは今、胸ポケットに差してある。遮る物のない甘いマスクが、気遣わしげに映に向けられていた。
「生きてる?」
「なんとか……」
へらり、と、笑い返すことができたと思う。
「起こしちゃったな」
副島の両手が肩に添えられ、くるりと反転させられて寝床へ押しやられる。昨日と変わりのないはずの部屋が、蛍光灯の下でずいぶん荒れて見えるのが急に恥ずかしかった。
「今日、何か食った?」
「や……」
「水は?」
「……まだ」
「しょーがねえな、とりあえずこれ飲み干して。台所、使わせてもらうぜ。電子レンジは――あるな」
キャップを緩めたペットボトルが手渡される。口に含んだ冷たい清涼飲料水はかすかに舌を痺れさせるような不快さがあり、ほとんど丸一日水を飲んでいないはずの喉はちっとも渇いていなかったが、今はこれを飲み干すべきだとわかる。ごくりと飲み下すと、食道を通って胃に落ちる冷たさに、火照った身体が慰められるようだった。
狭い台所では副島が身を屈めて、何やらパッケージを開けている。いつまでもぼんやり眺めていたことに、やがて彼が横目にこちらを見て笑うまで気づかなかった。
「これ? お粥。具だくさんスープも買ってきたけど、食える?」
「……無理かも、です」
「オッケー」
ガコン、勢いよく電子レンジの蓋を閉めて、少し指先をさまよわせていたが、つまみを回してスタートさせる。もらい物の旧式の電子レンジはブーンとしばらく億劫そうな音を立てていたが、映がペットボトルを空にするより先に、ピー、ピー、と高く鳴った。
テーブルに湯気を立てた粥の容器と、封を切ったカットりんごが置かれる。湯気からは芳しい出汁のにおいがしていた。
「少し腹に入れてから、薬な」
向かいにあぐらを掻いた副島に、顎先で促される
「……あの」
「ん?」
「全部でいくらですか?」
前に風邪を引いた時も、病院に行かなかったばかりに拗らせて、市販の風邪薬を買い込むはめになって結局高くついたことを思い出す。本当に、自分はそんなことばかり繰り返している。
「俺、すいません、今、財布にあんまり入ってなくて」
銀行口座にもほとんど入っていなかったが、やはり、恥ずかしくて言えなかった。
「いいよ、俺が勝手にやってんだから」
「そんなこと」
「おかげで、はーちゃんの部屋見られたし」
「……あんま、見ないでください。汚いんで」
「そう? 大学生のひとり暮らしなんて、こんなもんだろ。せっかくあっためたんだから、一口くらい食ったら」
こういう厚意を当てにするのも、癖になってしまったのかもしれない。部屋が汚いとか、金がないとか、そういうのよりずっと恥ずかしいことだとわかっているのに。もう一度、微笑とともに顎先で促され、映はスプーンを持ち上げた。
「いただきます」
「召し上がれ」
パウチ入りのレトルト粥ではなく、容器に入った、大きな具材まで載った豪華な粥だ。あのコンビニの弁当コーナーに、こんなものがあったのを今日まで知らなかった。出汁が利いており、しみじみうまい。
「いつから熱出してんの?」
「今日、起きたら……っていうか、起きられなくて」
「腹でも出して寝たんじゃねーの?」
「はは。弱り目に祟り目っていうか」
「なに、なんかあった?」
「まずバイト先が潰れて、洗濯機が壊れて」
「わは、そうだった」
「それに。こないだ……あのあとすぐ、新しいバイト決まったんですけど、だめになって」
「だめになったって?」
「なんか……人間関係、みたいなのに巻き込まれて」
「あー。バイトも大変だよな」
初日から何くれとなく面倒を見てくれた一学年上の先輩と、彼女と付き合っていたらしいバイトリーダーと、実は彼女の本命だった店長。店長はなあなあ主義らしく、悪びれない先輩のぶんまでバイトリーダーの敵意が日に日に自分に向いて、居心地が悪いどころではなかった。電話口で辞意を告げたのが昨日の夜で、そのままぐったり眠り込んだら、朝熱を出していたというわけ。もしかして、腹も出ていたのかもしれないけど。
「一週間タダ働きだと思ったら、なんか、力抜けちゃって」
「なんでタダ働きなんだよ」
「急に辞めたし……そもそも一週間しかいなかったし。給料なんて出ませんよ」
「そりゃ違法だな。わかるだろ、法学部生」
副島の相槌は笑い含みだが、手厳しかった。だって、と、口から出かかったが、彼に言い訳をしたところで何の意味があるだろう。
「……愚痴ってすいません」
「いや」
「これ、おいしいですね。具もたくさん入ってて、すごい、おいしいです」
映は俯いていた顔を上げて、へらりと笑った。鮭のほぐし身と一緒に粥を掬い、まだ熱そうなので息を吹きかけてから、口に入れる。
「はーちゃんはさ」
「その、それ……やめてください」
呼ばれ慣れないふざけたニックネームには、だから呼ばれるたび困惑させられる。もう一度見上げた副島はにやりと唇で笑ったが、ふとそれを消し去ると、ごく冷たいトーンで言った。
「山崎くんは、ちょっと警戒心が足りないよな」
驚いて目を瞬く。彼はやはり、もう笑っていない。あぐらを掻いた膝に頬杖を突いて、映をじっと見て言う。
「まず、あんな、強引に交換したLINEなんてブロックしてもいい」
呑んだ息の吐き方が、一瞬わからなくなった。
「んで、簡単に住所を教えない。こんなご時世に、俺みたいな素性のわからん男に」
目の前にいるのは、怪しい風体の、職業不明の、しかしサングラスを外した素顔が存外優しい――それ以上のことは知らない男だ。
「その上部屋に上げて。迂闊すぎる」
ぴんと立てられた長い人差し指が近づく。つん、と、ごく軽く額をつつかれた瞬間だった。
「わ、おい、泣くなよ」
歪んだ視界の中で、途端に慌てた顔つきの副島は、たぶん腰を浮かした瞬間テーブルに脚をぶつけたのだと思う。
「俺……」
涙声を上げる自分に、彼がひどく狼狽えているのがわかる。
「ああ、そうだよな、ごめん、こんな時に悪かった。そんなの、熱あるのに考えらんねーよな」
映の横に膝を突いて、宥めるように肩を撫でる。つけてから時間が経っているからか、自分が風邪を引いているからか、もっとほかの理由があるのか、いつも強いくらいに感じていたはずの香水が、この距離になってやっと鼻腔の奥にほんの少しだけ香った気がする。映はくすんと鼻を啜って、言い訳とも非難ともつかないせりふを吐いた。
「……そこで謝っちゃう人、そんな、警戒できませんよ」
肩を撫でてくれていた手が、ぴたりと止まる。
「はーちゃんって、歳、いくつだっけ」
「来月、二十一です」
「じゃあ、合法だな」
彼の指が下目蓋の涙を拭い、くすぐるように映の唇をなぞる。次に押し当てられたのは唇だった。かすめるというほど軽くはなく、確かに押印するような力強さで、でも、ごく短く啄んで、離れる。
「薬代でいいよ、迂闊なはーちゃん」
冗談めいたせりふに、彼の尖った喉仏がわずかに上下する。
気がついたら、去ろうとする彼の顔を両手で捉えていた。肉付きの薄い頬が、ひどく冷たく感じる。いや、自分が熱いのだ。近眼の人の、光を湛える濡れたような瞳が見開かれるのに構わず、映は副島の唇にかぶりついた。
ん、と、どちらのものともわからない、くぐもった鼻息が上がる。きつく吸って、音を立てて放すと、響くように唇がじんと痺れた。
「……安いですよ、そんなんじゃ」
ぼうっと浮かされながら、彼の両目を覗き込む。
「なあ、仕返しのつもりなら、逆効果だぜ」
後ろ頭を強く引き寄せられる。鼻先が潰れるほど近づき、また唇が重なり、何度も啄みあいながらどさりと布団に倒れ込んだ。くちゃくちゃの布団の上で、めちゃくちゃにキスをしたと思う。舌が絡まり、荒い鼻息が漏れて、流れ込んできた副島の唾液を、喉を鳴らして飲み込んだ。根元から先まで舌を吸い上げられて、また奥まで絡まって、くちゃり、と濡れた音が立った。
「んむ……ん……」
はだけた彼の胸元へ手を入れると、スウェットの裾から脇腹を撫でられる。彼も、自分も、肌が蒸れて汗ばんでいた。濡れた唇が首筋を滑り落ち、肩を吸う。
「んっ……」
堪らず身震いして押し返すが、その手を捕らわれて、指を舐められる。
「ぁ」
感じながらうっすら目を開けると、落ちた前髪をうっとうしそうに掻き上げた副島と目が合ってしまい、深く深く笑われる。そうしてまた、唇どうしが重なる。
風邪のせいでこんなに人肌が恋しくなるなんて、知らなかった。
ずっと寂しかったなんて、ずっとこうしたかったなんて気分で、まるで百年の恋みたいに夢中になっている。
「ふ……」
いつか、下着の中で甘く達していた。
やがて身体を起こした副島が、臍が見えるまではだけていたワイシャツのボタンを乱雑に留め、ほつれた髪を撫でつけるのを、ぼんやりと見上げている。荒い息の収まらない映の頬を撫で、胸までたくし上げたスウェットを引っ張り下ろし、最後に額にキスをしたその唇で、彼はにやりと笑った。
「お大事に」
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