第2話

 洗濯機のない暮らしというのは、思っていたほど不便ではないが、決して快適でもなかった。今日もうららかな住宅街の裏路地を、両手にバッグを抱えて歩いている。質素なひとり暮らしであっても、一週間ぶんとなれば洗濯物はそれなりにかさばる。行きはともかく、洗い終わった洗濯物はずっしり重く、アパートに帰り着く頃には腕が痺れていた。狭いベランダになんとか干しきったものの、ハンガーの数が足りなくなって、ロープや手すりに直接引っかけるはめにもなったし。なんて、不満を挙げればきりがないけれど、それもこれもコインランドリーへ行く回数を減らしたい自分の貧乏のせいで、この角を曲がったら大富豪とぶつかって玉の輿に乗れないかなぁなんて馬鹿らしいことを考えて、映は頭を振った。


 店内は今日も無人だったが、前回と違い動いているランドリーがあった。扉の中は真っ白い泡で溢れていて、先客が立ち去ってからそれほど経っていないのだろうと想像しながら隣の扉を開ける。

 少しほっとしているし、実のところ少しだけ当てが外れた気持ちでいる。

 貧すれば鈍するって言葉があるけど。偶然の他人の厚意に味を占めて、心のどこかで期待していた自分が嫌だと思う。映は五百円玉をコイン投入口に入れて、スタートボタンを押した。ピッ。

 フリーペーパー置き場から、求人誌を抜き取る。巻頭特集から順に一枚ずつページをめくってみても、世の中にはこんなに仕事があるというのに、自分の条件に合うものとなるとなぜこうもないのだろうとがっかりするばかりだ。巻末のナイトワーク特集に差しかかった時、店内に間延びした声が響いた。

「山崎くんだ」

 はっと顔を上げる。そこには一週間ぶりに見る、彼の姿があった。二つボタンを外した白いワイシャツに、きれいに折り目のついたスラックス。そして相貌を隠すのは、あの濃い色のサングラスだ。

「あ……こんにちは」

「なかなか会えないもんだな」

「や、俺、あれから一度も来てなかったんで」

「なんで?」

「えっと、週一くらいのペースでじゅうぶん、だから?」

 洗濯代を惜しんでいるからだと言えないのは、ただの見栄だった。映の答えに、彼はどこか子供っぽく唇を尖らせる。

「じゃあ俺は今日、何を奢ればいいわけ。せっかく、やっと会えたのに」

「えっと、何も奢らなくていいです」

「約束したじゃん。守れよな、山崎くん」

 映をわざとらしくなじると、ガコ、洗濯機の蓋を開けて手慣れた動作で洗濯物を放り込む。すぐに中身が回り始め、彼は以前と同じように、当たり前の顔で映の隣に腰かけるのだった。

「バイト探してるの?」

 求人誌を見咎められた気がして、膝の上のそれを閉じる。

「探してなかったら、こんなの読んでませんよ」

「求人誌って意味なく読みたくなるじゃん」

「ならないです」

「あ、そ?」

 スラックスに包まれた長い脚の左右を組み替えて、彼が唇でにやりと笑う。

「バイトに心当たりがないわけじゃないぜ」

 こういうのも、やぶ蛇って言うのだろうか。映は慌てて手を振った。

「や、いいです」

「なんで」

「とても役に立てるとは思えないんで」

「そんなことないと思うけどなあ」

「お気持ちだけで」

 こちらを覗き込もうとする彼の鼻先を避け、手だけでなく首も振る。どんな仕事か知らないが、とにかく関わらないほうがいいのだけはわかる。くくく、と肩を揺すって笑った彼に、それ以上食い下がる気はないようだった。

「あ、そうだ、山崎くん」

 彼が急にベンチから腰を浮かし、スラックスの尻ポケットに手を突っ込む。

「これ、こないだ忘れてったろ」

 小さく折りたたまれた布は、最初、ハンカチのように見えたが、そうでないことはすぐに理解させられた。

「パンツ」

「えっ、あっ、俺の?」

 素っ頓狂な声が出てしまった。グレイのボーダーの下着を、そういえばしばらく見ていない気がする。

「そうだよ。ランドリーの中に残ってたぜ。だめだろ、こういうのは気をつけないと、どっかの変態に持ってかれちゃうかもしれないんだから」

「三枚組の安いのですけど……」

「値段の問題じゃねーの。拾ったのが俺でよかったな」

「あの」

「なに」

「その、それ、やめてください」

 手のひらで撫でられる下着を、堪らず引ったくる。こんなことこくらいで耳が熱い。映は下着をバッグに突っ込み、耳たぶを擦った。

「てゆうか……ずっと持ち歩いてたんですか」

「だって、山崎くん来ねーんだもん」

 くくく、と、左肩から忍び笑いの気配がする。機嫌良く綻ぶ横顔を盗み見たつもりだったけれど、サングラスの隙間から寄越された視線にばっちりと捉えられてしまい、映は反射でへらりと笑い返した。

「……すいません」

「なんで謝んの。なに? 俺の顔になんか?」

 上手くごまかせたわけもなかったのだ。おずおずと、色の濃いサングラスを見上げる。

「その。いつもサングラスなんですか?」

「ああ」

 悪趣味なデザインではないが、彼の怪しさの半分以上はそのサングラスのせいだと思う。ただ、水を向けられたからといって素直に口にしてしまったことを、既に後悔している。まだ洗濯は終わらないし、今気まずい空気になるのは嫌だ。

「すいません、変なこと聞いて」

「いや? これね、なるべくかけてろって言われてんの」

 彼の反応はあっさりしたものだった。

「俺、目が悪いから度が入っててさ」

 言いながら片手でサングラスを外すと、その素顔が現れる。

「イケメンでびっくりした?」

 唇に笑みを閃かせる彼に、映は一瞬の絶句から立ち直り、思わず頷いた。

「あ、はい」

「わは、山崎くん、いいね」

 口元だけではどこか人を小馬鹿にしたように感じたのに、実際はくしゃっと寄った笑い皺がファニーなのだと知る。イケメンというよりハンサムと表現したくなる、甘いマスクというのだろうか、流行遅れの俳優のような顔立ちだった。それに、目が悪いからだろう、じっとり光を湛える濡れたような瞳も印象的だ。サングラスひとつでこんなにイメージが変わるものかと、手品の種明かしをされたような気分でもいる。強面が有利な職業でやはり真っ先に浮かんだものを頭から払いながら、映はさらにおずおずと尋ねた。

「……もういっこ、聞いてもいいですか?」

「何でもどうぞ」

「名前」

 深入りしていると思うし、彼の名前を知ってどうするつもりなのだろうと自分でも思う。ワイシャツの胸を、スラックスのポケットをパタパタ叩いた彼が、顔を顰める。

「あー、名刺、車だ。待ってて」

「や、いいです、そこまでは」

 腰を浮かしかけた中途半端な姿勢でこちらを横目で見ると、彼はおもむろにスマートフォンの画面に指を滑らせる。向けられたのは、アドレス帳のオーナー情報だった。そこには「副島そえじま了悟りょうご」とふりがなつきで表示されている。それが彼の名前らしい。

「山崎くんは? 下の名前」

「……はゆる、です」

「はゆる? 字は?」

「映画の映、とか」

「へえ。じゃあ、はーちゃん、だな」

「え」

「なに?」

「なんか、アイドルのニックネームみたいですね」

「かわいいじゃん」

「はあ」

「俺のこともりょーごって呼んでいいよ?」

「や、それは」

「あ、LINE交換する?」

「……いいです」

「じゃ、出して」

「や」

「いいんだろ?」

 小学生じゃあるまいし、ひどい論法だ。ほら、と向けられた画面のQRコードにカメラを向けて、映は観念した気持ちでシャッターを切った。

「今度来る時は、事前に連絡するように」

「はあ」

「奢るから」

「もういいです。あ、いいって、そういう意味じゃなくて」

「はーちゃんさ」

「それもやめてください」

 屈み込むように映を見上げた副島が、目元に皺を寄せてにやりと笑う。拍子に、前髪がひと房はらりと落ちた。

「かわいいよな」

「……そ、んなわけ」

 思いきり顔を逸らして、やっと、それだけ答える。追い打ちのように左肩から揶揄の忍び笑いが伝わってくるのに、耳が熱くなる。

「副島さんは、人が悪いです」

「そう?」

 初めて会った瞬間にあれほど感じた警戒心が、少しずつ薄らいでいるのがわかる。単純なものだ。金は善意の物差しじゃないとわかっているのに、洗濯と缶コーヒーを奢ってもらっただけで。人は顔ではないとわかっているのに、サングラスを外した素顔が思ったより優しかったなんてだけで。たぶん、ほだされている。

「そうですよ」

 肺の中に渦巻いたもやもやと一緒に、あさっての方向へ吐き出した。

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