すーぱーひーろーのねこ

もちもちおさる

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 ぼくの飼い主は「すーぱーひーろー」とやらをして生計を立てているらしく、やれ上司の人使いが荒いだの、やれ「ゔぃらん」の武器の性能が上がって腰痛が悪化しただの、今日も缶ビールをあおりながらぼくを抱いた。化繊のスーツに鼻が擦れて、煙草の煙と汗の湿気った臭いがした。風呂入れよクソが、とか思ったけど「すーぱーひーろー」は仕事終わりの油断した瞬間が一番狙われるんだ、って隣のねこが言ってたのを思い出した。だから、おまえの仕事は彼が帰宅してからだ、とも言ってたな。


 勝手に就業させんなって言い返したら、「すーぱーひーろー」は独りでは「すーぱーひーろー」たり得ない、だからおまえが必要なんだ、とか。福利厚生も充実してるぞ、とか、完全週休二日制、ちゅ〜る付きだぞ、とか。猫なで声でしつこく誘うものだから、むかついたぼくは彼をアパートの5階から蹴り落とした。

「殺すつもりかよ!」

 と言われたので、

「殺すつもりだよ!」

 と返した。ぼくは本気だった。でもそう簡単に死んでくれるとは思っていなかった。ただ、もうぼくに関わらないでくれれば、彼は死んだものと同じだった。そんなカジュアルな殺意もあっていいと思うんだけど。着地に失敗して脚の一つでも折れてしまえ、と思って下を覗き込むと、地上にぺちゃんこの彼はいなかった。そこに在ったのは隣の「すーぱーひーろー」の姿で、窓際にしがみつき「たすけて」と鳴く彼を颯爽と救い出してしまった。おまけにそれを目撃した通行人が拍手と歓声を送っていて、新聞の見出しには「我が国のなんとかかんとか(むずかしくて思い出せない)、猫を救う」の文字が踊った。センス皆無だと思う。「こうするんだよ、バカ」とニヤついた彼の顔が、今も脳裏にこびりついて離れない。「わるいねこ」のぼくは、みじめにその顔を見上げることしかできなかった。


 さて、そんなことを思い出しているうちに我が家の「すーぱーひーろー」は今日分の愚痴をすっかり吐き出したようで、どうせなら明日分も吐き出しておいてほしいけど、ぼやっとした顔で晩酌を終え、「だりー」とぼやきながら風呂場に向かった。

 びたた、と滴るシャワーの音を背後に聞きながら、ぼくは脱衣所に居座った。これがぼくの「仕事」だ。食事、風呂、トイレ、就寝時、「すーぱーひーろー」の敵が襲ってこないように、ぼくは飼い主を守ってやらねばいかんのだ。まぁ一度も来たことはないし、ぼくは敵の顔も知らない。バカはどっちだよ、とか思いつつも、座ってうとうとしているだけで隣のねこからちゅ〜るをいただけるのだから、楽な仕事だ。てかこの現代に現物給付て。まじかよ。

 ぼくをおやつなんかで懐柔できると思ったら大間違いだ。ぼくはこんなところで燻ってる場合なんかじゃあなくて、飼い主の愚痴を受け止めてる場合なんかじゃあなくて、我が家に囚われている場合なんかじゃあなくて、ついでに脱衣所のカーペットに毛を散らしている場合なんかじゃあないのだ。いつか、この世の全てを裏切って自由になってやるのだ。それこそが、ぼくなんだ。全てというのは本当に全てで、そこにはぼくの飼い主も隣のねこも、ちゅ〜るの会社も電線で居眠りしている鳩も含まれる。鳩は平和の象徴とか言われてるけど、昔は肉団子にして食べていたクセに。そう思うと人って割と適当だよね。そんな適当な社会で「すーぱーひーろー」とか、バカじゃないの。全然自由じゃないし、全然報われないじゃないか。毎日朝早く出勤して、夜遅く帰ってくる飼い主を見ていれば、さっさと辞めてしまえと思う。きっと向いてないんだよ、おまえ。


 今日の愚痴は何だったかと思い巡らしてみれば、風呂場の扉が開いてむわりと熱い空気がぼくを襲った。よしよしあとは寝るだけだ、と立ち上がると、いつもぼくに優しく声を掛けるハズの彼は、黙って立ち尽くしたまま動く気配が無かった。おや、と思い振り返ると、そのままばったり倒れてしまった。

 そこからは、まるでジェットコースターのような勢いだった。乗ったことないけど。呆然とするぼくを背後から抱え上げ、綺麗に穴の空けられた窓から飛び降りた誰か。ぼくは初めて、飼い主の敵の姿を知った。ハングライダーとパラシュートでまるで生きた心地のしない空の旅を体験させられながら、ぼくは思った。今ここで暴れたら、想像した隣のねこのようにぺちゃんこになってしまうと。彼に何かしたのはこいつで、彼の「ゔぃらん」はこいつなのだと。テレビでも新聞でも見たことの無い顔だった。なんなら近所のコンビニでバイトしてそうだった。あぁ、このぼくがいながら。ぼくと彼は颯爽と、呆気なく出し抜かれてしまったのだ。やっぱり、向いてないよ。おまえ。

 まぁでも、空を飛んだことは無かったから、危険に満ちた深夜の空はちょっと新鮮で興奮した。「ゔぃらん」はこんな景色をいつも見ているのか。こんなの楽しいに決まってるじゃないか。そうか、だからやつらは楽しそうなんだ。そこまで考えて、その当人の顔を見てみると、作戦が見事成功し満足感と達成感でいっぱいの喜色満面なご様子、ではなく、死んだ目に無味無臭の頬と口元、仕事終わりの寂れた社会人の顔だった。照明が無いからそう見えるのかもしれない。いやしかし、ぼくはこの顔を見たことがあるぞ。そうだ、酒を飲みながら愚痴をこぼす飼い主の顔にそっくりなんだ。

 そいつと目が合った。かさついた唇が最低限の動きでぼくに語りかける。

「なぁ、聞いてくれ」

 ぼくは、本日二度目の愚痴を聞くはめになった。


 人質をとるのが一番評価されるのだけど、ぼくの飼い主は一人暮らしで恋人も友人もいないから、ねこのぼくを攫うしかなかった、とか、誘拐には経験も技術も必要だから、本当はもっと因縁を深めてからじゃないと評価されないのだけれど、下積みしているだけで時間も金もどんどん消費されてしまう今じゃ、のんびり待ってる暇なんてどこにも無かったんだ、とか。メディアに取り上げられるには、とにかくドラマチックで現実離れしたことを成し遂げなきゃならない、とか、そうしなきゃ誰にも知られず、キャリアもスキルも無いフリーター生活まっしぐらなんだ、とか。どこも不景気で大変だな、とそいつに同情する頃には、そいつのアジト、と呼ぶには少しお粗末すぎるのでアパートと正直に呼んでおこう、そこに既に到着していた。

「親の反対を押し切って飛び出してきちまったから、実家に迷惑かけらんないんだ」

 そう言われてしまったら、ぼくは大人しくせざるを得ない。これが全部嘘っぱちの演技だったら、こいつはきっと大成すると思う。逆に言えば、全部本当の本当に愚痴だったなら、そこまでだ。だって、ぼくなんかを攫ったところで、ぼくも飼い主も隣のねこもメディアも、誰も興奮しやしない。それこそ、「殺すつもり」じゃないと。きっと向いてないんだよ、おまえも。誰もおまえの事情なんて知らないし、知りたくもない。同情はするけど、それだけだ。こいつは結局、周りから評価されることばかりに拘泥して、自分ってやつを見失ってるんだ。なんて安い人生だ。

 だけど、ぼくはどうなんだ。どうしてこんなに、腹の奥がむかつくのだろう。これってたぶん、同族嫌悪だ。ねこと人を同族にされたくはないけれど、ぼくたちは確かに同族だ。


 そいつのアパートの間取りはどことなく我が家に似ていて、何も知らないフリしたぼくは窓際に腰を下ろした。星の無い夜だった。遠くで衣擦れの音がする。伏せ目がちな飼い主の顔と、粗い繊維に鼻が擦れる感触を思い出した。そうだ、今日の愚痴は何だったか。後輩が生意気なうえ無断欠勤しやがった話だったか、トレーニングをしていたら公共物を破壊してしまった話だったか、何だったか。だけど、その後輩は子供っぽい親しみやすさと自由奔放な面が愛されていることとか、その公共物はちょうど古びていたから、ついでに撤去し新しく設置する作業を手伝ったこととか、その愚痴の続きもぼくは知っているのだ。ぼくだから知っているのだ。

 この界隈での常識というやつも、ぼくはある程度知っている。そう例えば、代表的なやつが一つ。名前を呼んだら来てくれることが、「すーぱーひーろー」の鉄則だ。


 瞬間、ばりばり、と乱暴な音がして、窓一面が派手に割れた。舞う破片が無機質な部屋の灯りを乱反射して、瞬いた。修繕費を想像し毛が逆立つ。演出としては映えるけれど、スマートさには欠ける。暗闇に差した光の向こうで、小綺麗な握りこぶしに濁った赤が滲んだ。バカなやつ。本当、バカなやつ! 遅いし、そもそも呼んでないし。全裸で気を失ってねこを攫われるとか、めちゃくちゃダサいし。求められてもないのに現れて、とんだ勘違い野郎だ。間に合わせの服も、全然イカしてない。これじゃただの不法侵入で、ぼくはまた「わるいねこ」になってしまう。

 なんてことを考えていると、その「わるいねこ」はバカな「すーぱーひーろー」に抱きかかえられて、まるでジェットコースターのような勢いで運ばれた。乗ったことないけど。慌てて飛び出してきた「ゔぃらん」を彼はぶちのめすでも怒鳴りつけるでもなく、玄関からそのまま外まで突っ走り、続いてアパートの階段をどたばたと駆け下りた。たぶん、ぼくを抱えたままじゃ、窓から脱出できないんだろう。彼は空を飛べなくて、身一つで外壁をよじ登ることしかできないんだから。追っ手の気配は無かった。それでも走りながら、彼は言った。

「なぁ、ごめんな、」

「おれ、まだおまえに報告できてないことがあるんだ」

 あれは報告のつもりだったのか。それにしては随分と主観的で私情にまみれていたと思うんだけど。窓を割ったのは仕返しなんでしょ、わかってるよと言おうとしたけど、ああそうだ、おまえはねこのことばがわからないんだった、と思い直し息をついた。

「先輩から聞いた話なんだけど、人質を二人とられてしまって、どちらも比べられないくらい大切な存在で、自分は一人しか助けられなかったとしたらおまえはどうするんだ、って」

「おれ、わかんなかったんだ。どちらかを選択してしまったら、その時点で二人を比べてしまったってことだろ。本当に比べられないのなら選べないはずだし、でもどちらも助けられるほど器用ではないし」

「……先輩は選んじまった。だから、もう一人は守れなかった、救えなかった」

 その先輩とやらは、よほど高尚な人間なんだな、とぼくは呟いた。夜の風から目と鼻を守るように、彼の胸に顔を埋うずめた。人のために人の道を外れなければならないのだから、やっぱりへんてこな職業だ。へんてこな人間だ。彼は続ける。

「おまえに言えなかったのはさ、」

「その二つが、一般市民とおまえだったら、おれはおまえを選んでしまうかもって、思っちゃったんだ」

 きみはクビだよ、飼い主くん、とぼくの中の想像上の上司が煙草をふかしながら言った。見たことないけど、ちょっと意地悪で偏屈そうな顔にしておいた。

「そんでおれは、今おまえを助けていて、でもこれは、仕事だとか残業だとか、そんなんじゃないんだ。今のおれは、ちゃんと「おれ」なんだ。あのまま倒れて寝ていたら、きっとおれは後悔すると思ったんだ。その「後悔」ってのに、成功したおれの姿は無かったんだ」

 ああなるほど、と思った。飼い主の弱点は「ぼく」なのか。彼の人生の「ひろいん」とやらはぼくで、彼が「すーぱーひーろー」である限り、ぼくは日常の安寧と自由と平穏とその他もろもろと、永遠にさよならしなくちゃならない。

「おれは、おれは結局、」

 それから、彼は黙ってしまった。ぼくは少しだけ、自分のこれからを考えたけれど、何も浮かばなかった。先の見えないジェットコースターの頂点みたいだ。乗ったことないけど。でもなんとなく、思った。やっぱりおまえ、向いてないよ。向いてないけど、「すーぱーひーろー」を続けるかどうかは、まだわからない。ぼくがいなきゃおまえは「すーぱーひーろー」たり得ないんだから、ぼくが嫌になったらいつでもやめられるってワケだ。

 いつの間にか腕の拘束が割ときつくなっていて、ぼくは抗議の声をあげて身をよじる。でも、当分の間、ぼくがぺちゃんこになることは無さそうだ。身体の苦しさを訴えながらも、ぼくは彼に言った。

「なぁ、そうだ、ぼくは「わるいねこ」だけど、それでもいいってんなら、こっそりおやつを食べてもいいってんなら、おまえはすきなようにすればいいよ」

 彼の化繊のスーツがいつかシルクに変わったら、それはいいことだ。だけど、もう少しこのままでも、悪くない。彼はぼくを見て、ハッと何かに気づいたように、引き結んだ口元を開いた。ぼくは固く抱き締められたままだった。

「違う、違うんだ」

 何が違うんだろう。ぼくたちは結局わからないままだったけれど、彼はやっと、

「おれはおれを救いたかったんだ」

 と言って、泣いた。

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