アイスを買った。1リットル。

もちもちおさる

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 アイスを買った。1リットル。通販で買った。寒くて外に出たくなかったからだ。外気はもう一切の乱れを知らない軍隊のようにピシリと張り詰めていて、一息吸えば肺が凍って私がアイスになってしまうところだった。

 冷凍便で受け取ってから、私は考えた。この1リットルをどうしてやろうか。ハーゲンダッツミニカップ、約9個分。スーパーカップ約5個分。私の「すき」が約1300グラム。とりあえず邪魔なダンボールをとっぱらい、容器の蓋を開けてみると、真っ白で小さな雪原がそこにはあった。手のひらで温めたスプーンを差し込み、掬いとる。そのまま口に運ぶ。アイスと一緒に私も溶ける心地がした。

 千葉にある牧場が新鮮な牛乳と生クリームから作っているやつで、それはそれは慎ましやかで淑やかで、愛らしいミルクが私にごきげんようと挨拶したかのような甘さだった。平和と幸せのバニラだった。単体で食べるのも良いが、トッピングとして他の甘味や苦味と合わせて食べるともっと美味しいだろうな、と思った。サーティワンのバニラとはまた違う。あれがセンター街を闊歩する女子高生ならば、これはひまわり畑と白ワンピの似合うご令嬢なのだ。

 1リットルのアイスを、こうして容器から直接食べるのが夢だった。万歳。アイス狂い万歳。1リットルの狂気。冬に食べる狂気。全て食べ尽くしてやるつもりだった。私はクッキーモンスターならぬアイスモンスターだ。でもどうせならエルモみたいに、もうちょっとかわいくなりたい。


 いくら私がアイスモンスターでも、この量を食べ切るには胃腸への罪悪感があった。だから親友のちーちゃんを呼んだ。ちーちゃんはかわいい女だ。顔が、スタイルが、というより、どこか隙のある女だった。放っておけないタイプの女だった。ポメラニアンみたいな。ちなみにちーちゃんの愛犬はメスのトイプードルで、名前はモカ。彼女のスマホの写真フォルダーには、140メガバイト分の犬への「すき」がつまっている。私との思い出は、たぶん50メガバイト分くらい。つまりそういう女だった。そういう私たちだった。

 ちーちゃんは御茶ノ水にある大学に通っていて、私は渋谷なのだが、わざわざ学校終わりに駆けつけてくれた。彼女は冷凍庫で眠るアイスを見るなり、鈍器じゃん、強盗も彼氏もこれで殴っちゃいなよと言った。たんこぶくらいはできるかもね。今日泊まってもいい? いいよ。犬はどうするの。ママにお願いする。

 ちーちゃんがアイスのお供を買ってこようと言うので、私たちは近所のスーパーまで寒い寒いと言いながら向かった。外に出たくないから通販で買ったのに、これじゃあ本末転倒だ。ちーちゃんが震えながら、息、真っ白だよと言う。あんたもねと返すと、やっぱり、それでもいい気がした。

 店内に入ると、寒さはいくらかマシになった。仕事帰りのサラリーマンや主婦、学生らがぱらぱらと散らばっていて、みんな眠たげだった。冬はすぐ日が落ちる。なんだか損した気分になる。実際には何も変わっていないのに、そのことに気づいているのに、人間って案外馬鹿なんだなぁと思う。馬鹿だから1リットルものアイスを買ってしまったんだ。抱えきれない愛を求めてしまったんだ。

 ちーちゃんが買い物カゴにこっそりウイスキーを入れてきたので、ブランデーと取り替えた。ちーちゃんはなんとも言えない顔をしていたが、すぐにカラーチョコスプレーとチョコチップを持ってきたので、私は、あんた天才だよと言った。ちーちゃんは心底嬉しそうに笑った。それからホットケーキミックスと卵を買って、牛乳とバターはあるから大丈夫。生クリームは? 無いや、買おう。とか言って、私たちは自宅まで重い重いと言いながら帰った。

 帰宅してすぐ、暖房をつけて、コタツの電源を入れて。ホットケーキを作って、その間にお酒を冷やした。私の家にはアイスクリームディッシャー(アイス屋さんが掬う時に使ってるやつ)があったので、ちーちゃんは興奮して言った。あたし、アイス屋さんになるのが夢だったの!

 ああ私もだ、と思うと、急にこの世の全てが愛おしく見えた。歌うアイスクリーム屋さんになりたかった。みんなに幸せを配りたかった。どうしてならなかったんだろう。なれなかったんだろう。私の夢は憧れのまま終わってしまった。

 できたばかりのホットケーキに、ちーちゃんがヒィヒィ言いながら泡立てたホイップクリームとバターをのせる。それからアイスクリームをひとすくいして、おまけにメープルシロップをかけた。じわりと溶け始めたそれを見て、今なら死んでもいいなと思った。一口目までが一番幸せなんだ。いつだってそうだ。

 私たちは無言で食べた。アイスの冷たさと甘さだけが私たちの言語だった。ホットケーキでお腹は膨れたが、アイスをまた、ひとすくい。カラーチョコスプレーとチョコチップを散らした。これも夢の一つだった。私たちは今、ちょっとずつあの頃の夢を叶えているのだ。単純な私たちだった。もうあの頃とは違う、私たちだった。

 私たちはアイスモンスターになった。ちーちゃんにクッキーモンスターとエルモの話をすると、あたしはビッグバードがすき、目がかわいいからと言ってけらけら笑った。


 アイスを氷の上に浮かべる。琥珀色のブランデーと真っ白なアイスのコントラストは、私にはまぶし過ぎた。胸いっぱいに甘い香りを吸いこむと、くらくらするほどの幸福感が溢れた。がらがらと氷の音を立てながら、ちーちゃんは飲んでいる。私に構わず飲んでいる。容器の中のアイスは、もう三分の一も無かった。やはりアイスモンスターは偉大だ。あとちょっとだ、ありがとね、と言うとちーちゃんはにへらと笑った。夢、叶ったねぇ。ちょっとだけね、と返すと彼女はまた笑った。たぶん酔っている。私も、たぶん酔っている。口と喉はアイスと氷で冷えきっているはずなのに、腹の奥でめらめらと炎が揺らめいているような、そんな熱を感じた。今度はちーちゃんの夢を叶えてあげるからさ、次は何しようか。そうだなぁ、うみ、いきたいなぁ。

 今行ったら死んじゃうよ、ただでさえ寒いのに。じゃあ、来年の夏まではお互い生きていようね。どうだろう、人って結構簡単に死んじゃうんだよ。どうだろう、とかじゃなくて。あたしと約束することが大事なんだよ。ちーちゃんは瞼を閉じて呟くように言った。あたしと約束してよ、守らなくたっていいからさ。今こうして遊んでられてるのが、モラトリアムとか執行猶予だってんなら、一度くらいはとんでもない無責任を味わいたいでしょう。大人になんてなりたくないよ。だから、誰かと全てが危ういくらいの約束をして、わがままに放り出してみたいでしょう。みんなそうじゃないの。あーあ、やだなぁ。

 私たち、もう大人だよ、とか、面倒くさい女だな、とか、誰でもいいんでしょう、とか。いろいろ口を挟もうとしたけれど、私たちはもうモンスターになってしまったので、議論なんてとてもできそうになかった。ただなんとなく、これからのことが何も浮かばなくて、鼻にツンとした痛みを感じた。私だって面倒くさい女だった。彼女の目元がほんのり赤いのは、きっと化粧のせいでもお酒のせいでもないんだろう。私だってやだよ、ちーちゃん。落とした夢を拾い集めるだけの人生なんて。

 冬にアイスなんて買わなきゃよかった。この女を家に呼ばなきゃよかった。そしたらこんな感傷に殺されることもなかった。あんたのせいだ、私のせいだ。ちーちゃんが言った。なんで泣いてるの。

 わかんない。わかんないけど、冬の夜に食べるアイスはひどく寂しいってこと。それは確かなんだよ。そう返すと、ちーちゃんはおもむろに立ち上がり私の腕を掴んだ。そのまま強引に引っ張り、私の家を飛び出した。まじか、と思ったけれど、鼻がつまってうまく言葉が出せなかった。冷たい空気だけが私の身体を支配して、歯も脚もがたがたと震えた。目元だけが熱い。私はちーちゃんに引っ張られるまま、渋谷の街を駆けた。やっぱ呼ばなきゃよかった。こういう女だった。

 こんな寒空の下じゃあ、凍えて死んじゃうよ。どうにか口を動かし言うと、ちーちゃんは頭をぶんぶん横に振り、立ち止まらずに言った。

「これじゃあいつまで経っても、アイスクリーム屋さんになれないでしょう!」

 もう深夜だよ、アイス屋さんなんてどこもやってないよ、と言いかけたけど、何か違う気がして、冷えた空気と一緒に言葉を呑み込んだ。たぶん、呑み込んだのはそれだけじゃないと思う。明日の予定とか部屋に置いたままのアイスクリームとか、録画しただけのセサミストリートに、ちーちゃんを待っている犬のこと、その他のいろいろ。きっとこれでいいんだ。溶けてしまえばいい。あのさ、ちーちゃん。

 彼女の手を握り直して、そのまま私たちは夜の東京を駆けながら叫んだ。指がかじかんでも肺が凍っても構わずに叫んだ。

 小学一年生のときに席が隣になってから、私たちがアイスモンスターになるまでの、これまでのこと。

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