第3話 シャツとルノワール
高校時代のことを思い出しているうちに、寝入ってしまっていたようだ。慌てて時計を見る。ヤバい!遅刻だ!
いや、まだ間に合うはず。いつものより一本遅い電車でも、一限目には、なんとか。ギリギリくらいだけど。服も適当、スッピンで、髪も雑にしばり上げて、鞄を持って走る。
ホントにホントにギリギリで電車にも間に合った。息を切らして、汗びっしょりで、吊り革につかまった。
と、後ろから引っ張られる。
「え?何?」
佑だった。私を引っ張って、彼の立っている前の席に座らせると、リュックを前に抱えさせた。
「何?」
わけがわからなくて戸惑っていると、佑が耳元で
「透けてる。」
ハッとした。白い下着の上に白いTシャツで、汗だくになるほど全力疾走したら、そりゃ下着が思いっ切り透けるよなあ。
「どうしよう…これ降りてから、また学校まで走らなきゃ…。」
「寝坊?」
「うん。」
困った。汗びっしょりで透け透けの格好で行けないよなあ…。
「1コマ目諦めるかなぁ…。」
ため息をついた。
「晶。上に着ていけ。」
佑が、ノースリーブのTシャツの上に羽織っていたチェックの半袖のシャツを脱いで貸してくれた。
「いいの?」
「お前が恥ずかしいと、俺も恥ずかしい。」
「ありがと。ホントに助かった。ごめんね。ありがと。」
見上げると、ノースリーブのTシャツにジーンズだけの佑は、凄くカッコよかった。今更ドキッとした自分に、本当に今更だわ、と思った。
授業には何とか間に合った。まだ肩で息をしている私に、
「それは彼氏のシャツかい?メンズじゃん?」
「後で話す」
短く、八重子に返すと、講義が始まった。
「ふーん。なんだ。幼馴染みの子のシャツか。」
「そーなの。私、今日、とんでもない
事情を話す。
「ふーん。優しいね。そっちにすればよかったのに。」
「な、なんでよ?」
「そっちの方が毎日でも会えるじゃん?」
「そーゆー問題じゃありません。」
「ま、幼馴染みでご近所で、付き合いました、別れましたったら、やり辛いから、幼馴染みと恋愛関係になるのは、私は賛成しない派だけどさ。」
八重子はそう言って、紙パックのカフェオレを一口飲んだ。
「そんな関係にはなんないわよ。第一、相手にされてないって。」
私は笑い飛ばした。
「あ…そう言えば…」お財布の中からチケットを取り出す。そうだ、最近ちょっと忙しくて忘れてたけど、佑に美術展のチケット貰ってたんだ。
「土曜日の午後から行くって言ってたな。」
シャツは洗って、その時に返そう。そう思った。
土曜日。
朝からちょっと、頑張り過ぎたのではあるまいか?ヘアアイロンまであてて、髪はサラサラ。メイクは薄めだが、メイク自体あんまりしないので、自分的には落ち着かない感じはする。でも、悪くはない。…気がする。滅多に着ない、紺のワンピを着て、滅多に履かないヒールのちょっと高い靴を履いて、いざ出陣。
「…いや…違うよ。違うから。佑に会うかもしれないから、こんな恰好してるわけじゃないから。美術館に合わせた恰好だから。」
誰に言い訳するともなく、独り言を言っている。バッグと、佑のシャツとお礼のつもりのチョコを入れた紙袋を持って出掛けた。
ぼんやりとルノワールの絵の前で立ち止まっていた時、斜め後ろから、小さく声をかけてくる佑。
「どちら様?って思ったわ。」
振り返ると、もう絵に視線が行っている。
「ルノワールか。俺も好きだな。」
そこからは黙って二人、絵に見入った。佑の存在は気にしていても、やっぱり、これだけの作品展を観られる機会は滅多になく、佑もゆっくりと見入っていた。
「良かったね〜。」
美術館を出て言う。
「良かったな。」
佑が珍しく微笑んだ。ドキッとした。ヤバい。…んじゃあるまいか?私は最近変だ。
「き、今日は暑いね~。」
「だな。」
「汗っかきだから、たまらん。」
と言って、ふと、自分の持っているものを思い出した。
「佑、これ、ありがと。」
「何?」
「この前借りたシャツ。」
「ああ。…こっちは?」
「お礼のチョコ。」
そう言うと、佑は駅ビルを見上げる。ビルの前面にあるデジタル温度計には、「32℃」と書いてある。
「溶けてると思うが。」
「あー、ホントだよー。」
シャツに溶けたチョコがついていた。
「いいよ、自分で洗う。」
佑が笑う。楽しそうに。何なの?何で、私はこんなにドキドキさせられちゃうの?
「ダメだよ。私が洗う!」
宝物を盗られまいとする子供のように、佑から、紙袋を取り上げた。
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