海とラッコ
もちもちおさる
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友人から「生理きた。ごめん、今日行けない」のラインを受け取ったとき、たまには一人で泳ぐのもいいかもな、なんて呑気に考えていた。でも海水浴場は人、人、人で溢れかえっていて、あたしの住んでいる渋谷とそう変わんないじゃん、と少しがっかりした。新調した水着は誰に見せるとかでもないけれど、「一人海水浴場」でのあたしの鎧としては充分すぎるくらいだった。友人の水着は、きっと今頃さめざめと泣いているはずだ。かわいそうに。でもあたしまで「かわいそう」になる必要なんて無いし、貝殻の一つでもお土産にすれば、すぐに報われる。そういうものだ。
置き引きが怖いので、荷物は全部預けてしまった。たぶん、人生にもそういう瞬間ってあると思う。何の保証も無いのに、いつでもそこにあると思ってる。でも、ある日忽然と消えている。あの謎の安心感は、一体どこから来るんだろう。宇宙とかだよ、きっと。スマホが無いとこんなにも無力になってしまうのか、あたしはまさしく現代人だな、と空っぽの両手が寂しさを訴える。意味もなく手首を触る。手持ち無沙汰ってこういうことなんだろうけど、あの無機質に振り回されてるんだと解ると、少しイラつくな。いつからあたしは、こんなに臆病な生き物になってしまったの。あたしが溺れて死んだら、誰にも連絡できないな。いやでも、連絡できないということは、連絡がこないということ。登山みたいなものだ。ほんの少しの無謀と諦観と、以下略。山と海は違うようでいて、実は似ているのかもしれない。でもあたしは、海の方が好きだな。
東京住みのあたしには、超高性能な人感センサーが搭載されている。だから、死角から襲い来る、親から逃げ出した子どもやらワンコやらビーチボールやらをすいすい避けることができる。今日も絶好調だ。激混みの海水浴場は、朝の渋谷駅と何ら変わらない。どこだって戦場で、あたしは鎧を身につけた百戦錬磨のソルジャーなんだ。
海と砂浜の境に足を一歩踏み入れると、太陽に熱された素肌がぐわりと呑み込まれたような感覚だった。じゅっと音を立てて溶けていくような。それは心地よい冷たさで、いや最初からそうに決まっていて、あたしはこれが欲しくて海に来たのだった。てかみんなそうでしょ。そうに決まってる。アイスクリームの一口目とおんなじだ。そのまま身体を滑らせて、肌を撫ぜる砂からも離れてゆけば、あたしの目には水平線しか映らなかった。背泳ぎの要領で身体を浮かべてみると、水の揺れる音と波のかき混ざる音しか聞こえなくて、あの喧騒から随分と遠くに来たんだなと実感した。じりじりと照りつける太陽から逃げるように、瞼を閉じた。
ほんとにあたしだけみたいだ。もう何を着ているのか、どこにいるのかもわからなくなって、あたしと水の境界が曖昧になっていく。あたしは今流されているのか、どこへ向かえばいいのだろうと、ちょっと感傷的になっていることを自覚した。水に融けるって、たぶんこういうことだ。
ラッコみたいだ。今のあたし。体力を消耗して、少し眠たくて。でもとぼけた顔で、お気に入りの石をお腹にのせて、手を繋ぐのだ。ママとはぐれないように。昼寝しながら流されてしまうなんて、少し間抜けな生き物だ。でもかわいいから、いいんだ。
そうだ、そのかわいいあたしを、誰が守ってくれるんだろう。あたしの手は空っぽのまんまで、スマホもその寂しさを埋めてはくれなくて。あたしは迷子なんだ。東京でも、ここでも。無性にママの顔が浮かんだ。悲劇的な死とか不治の病とか、毒親だとかモンスターペアレントだとか、そういう、みんなが期待するドラマチックなママではなくて、今もフツーに健全で健在だけど、あたしがとりあえず寂しいだけなんだと思う。一人でいることが「寂しい」だなんて微塵も思わないけど、今ここで溺れ死んだら、みんなあたしに気づかないんだってことは、「寂しい」と思う。だからママに会いたいんだと思う。水の心地よい冷たさは、心地よい寂しさだった。あたしはかわいらしく、強かに、逞しく生き抜かないと、報われないのだ。流されるだけじゃなくて、ちゃんと泳がないと。ぼんやり死んでゆくに違いない。
東京は海に似ている、と思う。だからあたしは、はぐれないように、沈まないように。ママと手を繋いで、ただ眠りたいだけなのだ。きっとあたしの前世はラッコで、ママとはぐれてしまったばっかりに、サメに噛まれて死んでしまったのだ。直感した。場所とか時間とか、特定の条件が揃ったときに、前世の死因を感じることができるらしい。幻肢痛、みたいな。健康なハズの脚が痛んだり、発汗して動悸が治まらない、とかね。あたしの場合は、たぶん「これ」だ。サメは戯れに、カリフォルニアラッコを噛むらしい。アラスカでもシャチがラッコを襲うらしい。生息域では食物連鎖の頂点に君臨するラッコにも天敵がいるのだから、あたしにだって天敵がいるのだ。孤独という天敵が。海底に潜む天敵が。でも、いつかは。ママは子どもに居場所を譲って、どこかに行ってしまう。だからあたしは、自分で潜って泳がなければいけないのだ。あたしはあたしを、自分でどうにかしなければいけないのだ。
瞼の裏に黄色い火花が散って、ぐるりと身体を反転させた。たっぷり日光を浴びた肌が、また溶ける。頭のてっぺんから、その冷たさの、寂しさの塊に突っ込んで目を開くと、泡だらけのぼやけた世界しか映らなかった。ああそうだ、これはこういうもので、これでいいんだ。そうだ、あたしは。
とびきり綺麗な貝殻を見つけて、悲しみの淵の友人にあげなきゃいけない。
海とラッコ もちもちおさる @Nukosan_nerune
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