第140話 今まで恋と呼んでいたそれは単なる火の粉に過ぎず、真実の狂気は全てを覆す無際限衝動だった
初恋無敵のミュエル視点
ご主人様の部屋を出て数十秒後。
私は二階廊下のど真ん中で跪いていた。
一階へ続く階段を前にして膝から崩れ落ちている。
汗が噴き出る程の熱を感じている体からは、夏を思い出させる蜃気楼が浮かび上がりそう。
激しい目眩は現実と向き合い始めたことへの証明。
どれもこれも、心的な要因で巻き起こっている症状だった。
日記に投影されていたご主人様の本心を摂取したことで、思考回路は混乱の極地に落ちていた。
乱れてしまった魂は、ナルルカとの再会によって
そして私は今、冷静に恋を爆発させていた。
矛盾だらけの精神は、恋と呼ばれる狂気によって無理矢理成立されていく。
緊張は既に何処かへと消え去り、肉体は逃れられない本能に喰われている。
飴細工で固められていた理性は跡形も無く崩壊してしまった。
ギュッと瞼を閉じて深呼吸をすると、止まっていた時計の針が動き出した。
「……嬉しい」
ご主人様から恋心は消えてしまった。
だけど、真実を映し出す日記の中で私は一度も否定されていない。
最後に綴られていた文章を思い出す。
『それでもやっぱり、みゅんみゅんの側にいたい』
希望的観測を究極に排除したとしても、この言葉の意味は私を諦めたくないというものに違いない。
嘘偽りの無いその文字列は過去を流し出す蛇口となり、私はご主人様の内に秘められていた感情をこれでもかと浴びせられていた。
最初から受け入れられていた私は、恐れずに星を掴むべきだったのかもしれない。
ううん、違う。そんな後悔は意味を成さない。
この瞬間に起きたこの選択こそが正解なんだ。
昨日までの私には歩めなかった岐路に立っている。
進む道は決まっていた。
私は、ご主人様の居る場所を目指すだけだ。
あの人の姿を思うと、感じたことのない熱が込み上げてきた。
冬が始まるというのに、私の内側は
生物の可能性を改めて思い知らされる。
私は、恋をした気になっていただけなんだ。
今まで恋と呼んでいた高鳴りが馬鹿らしくなるぐらいに、私の心と体はときめいていた。
爆発とか誕生とか破壊とか、様々な現象が体内で発生している気がする。
ミュエル・ドットハグラの根底にあった重石を破壊し、その奥の方で眠りについていた獣を目覚めさせていた。
『罪人を、魔族を、魔獣を。命を殺し続けた殺戮者が幸せになってもいいのか?
大罪を犯した者の中には家族がいたのかもしれない。
魔族には待ってくれている人がいたのかもしれない。
それを無慈悲に奪ってきた私が、幸福を願っていいのだろうか?』
私の中で鳴り止まなかったその後悔。
ずっと私を縛っていたその鎖は朽ちていく。
「もう……どうでもいいんだ……。
ご主人様以外……エリゼ・グランデ以外はどうでもいい」
ああ、私は壊れてしまった。
彼女しか見えなくなってしまったから。
人を外れてしまった力を持つ自身に対する恐怖。
それでもなお、内側は常人と同じであることを証明していた罪悪感。
そういう負荷が消えていく。
優先順位が明確に入れ変わってしまった。
ずっと知っていたんだ。
ご主人様が私を応援してくれていたこと。
毎日の様に聖騎士宛で贈ってくれていた手紙は、今でも大事に保管している。
私が聖騎士として外へ出る度に駆けつけてくれていた少女。
聖騎士だった時はあんなに言葉や文字で表現してくれていたのにな。
大好きだって。
今の彼女は上辺の言葉だけ。
好きも、美味しいも、側にいても……何もかもがまやかしの戯言。
だったら言わせてやるまでだ。
心の底から大好きって言わせてやる。
『みゅんみゅん、大好きだよ』
「あっ……ああ、うああああああああ!!?」
なんとか体を支えていた膝は瞬く間に崩れ、そのまま廊下に突っ伏すように倒れ込む。
逃げ場の無くなった甘い羞恥のおかげで、私はのたうち回る羽目になった。
体は呼吸の仕方を忘却し、肺には消費された残骸が溜まり始める。
お腹は空腹に耐えきれずぐぅぐぅと鳴いている。
耳の奥では、聞こえるはずのないご主人様の声が残響している。
ご主人様が私に向かって言葉を贈る姿を想像しただけで体中の機能が狂ってしまった。
痛い。痛い。痛い。痛い。
「なに……これ……」
胸が痛い。
心臓を鷲掴みにされている様な窮屈さが私を苦しめる。
眼球の奥には灼熱が潜んでいる。
熱くて痛い。
こんなのが恋なのか。
これが熱で、これが愛で、これが好きなら、私の内側には太陽よりも眩い星が存在しているに違いない。
その星は私を置いて何処か遠くへ行こうとしている。
そんなことはさせない。
私が許さない。
もう、ご主人様のことしか考えられない。
そうか、好きになるってこういうことなんだ。
今なら何でも出来てしまう。
比喩じゃなく事実。
あなたのためなら、私は全てを乗り越えられる。
まるで、今までの感情がお遊びだったと言わんばかりに恋慕が膨らんでいく。
世の生き物は皆この焔を宿しているのか。
それとも、本物の恋とやらを孕んだ者だけが辿り着ける極地なのか。
どうでも良い。
今はあの子のことしか考えられない。
……好き。
すごく好き。
とても好き。
どこまでも好き。
果てしなく好き。
顔も、言葉も、性格も、声も、体も、全部全部好き。
「大好き」
誰にも届かない言の葉を口にすると、余計に胸が締め付けられた。
拙い予行練習でさえ消し飛びそうになるんだ。
これを本人に伝える時、私は消滅してしまうだろうな。
黒い髪で毛先が青く、平均的な背丈。
長い前髪で隠れがちな目は鋭さを放っていて、人によっては不良に見えてもおかしくない少女。
だけど、人を救う事に躊躇はしないお人好し。
容姿と中身がちぐはぐなご主人様。
その全てが好きなんだ。
あなたを思えば思う程、私を突き動かす心の熱は増してく。
もう、止められない。
私をおかしくした責任、取ってもらうから。
逃がさない。
倫理だとか秩序だとか、そんなものはどうでもいい。
私だけの女にして、私だけのご主人様にしてやる。
抜けきった力をもう一度全身に流し込み、肉体を奮い立たせる。
バルコニーから見える青空を背に階段を降りていく。
私はもう挫けない。
☆
階段を降りると、そのままキッチンへ向かった。
誰も居なくなってしまった部屋を縦断し、快適な設備が整っているその台所へ移動する。
多分、ここで焦るのが最も悪手。
今すぐにでもご主人様の元へ駆けたいけど、一週間も断食していた私はこれ以上動けそうにない。
だから、私は料理を始めた。
ご主人様が贈ってくれた知識と経験を存分に生かし、全速力で食材を調理していく。
刻々と過ぎゆく時間は焦りを与えてくるが、興奮の限界値を突破している脳内は逆に冷静さで塗りつぶされていた。
鳥の唐揚げ、人参の丸焼き、野菜を刻んだだけのサラダ、コーンスープ、ステーキ、パンケーキその他諸々。
短時間で作れるメニューを迅速に作り上げた。
同時に、消費期限ギリギリである余った食材をとにかく鍋に放り込んで作っておいたカレーも完成する。
鍋の覗いてみると、想像以上の量を持つカレーが出来上がっていた。
「ああああああ……作りすぎた……」
癖で二人分の料理を用意してしまった。
ご主人様を連れ帰ったら二人で食べよう……。
食事用のテーブルに料理を盛った食器を並べて、片っ端から平らげていく。
駄目だ、味が全くわからない。
燃え盛る恋心が感覚を麻痺させている。
あっという間に完食し、大量に出た食器を速攻で洗い済ませた。
☆
断食で失った栄養を補給する名目で雑な食事を済ませた私は、屋敷の玄関前にやってきていた。
扉の前には、ブティック店員が置いていった黒色の棺がある。
私の背と並ぶ大きさのその箱に何が入っているかは分からない。
でも、今日という日に贈ってくれたということは、そういうことなんだろう。
隅にアゲハ蝶のロゴがあしらわれているその箱に手を伸ばす。
蓋に手を掛けたところで、前方の空間上へ文字が浮かび上がった。
『無償愛揚羽式決戦給仕魔装「以心伝心相互愛超絶 初恋無敵の乙女
長く難解な文字列の意味はなんとなく理解できた。
あと、あの店員が独特なネーミングセンスを持っていることも。
蓋を開けて中身を確認すると、そこには黒を基調とした給仕服セット一式が包まれていた。
ロングワンピース、高デニールの黒タイツ、可愛らしいカチューシャ。
メイドに関するあらゆる衣装が入っている。
そして、その全てが特殊な素材で製作された物で、あらゆる術式や加護が組み込まれていた。
「今の私におあつらえ向きの勝負服だな」
ブティック店員へ感謝を抱きながら衣装の入った箱を抱え、私は浴場へと向かう。
寒くなってきたとは言え、一週間お風呂に入っていなかったのだから色々とアレだ。
自分では分からないけど、なんとなく匂いが気になる……。
脱衣所の隅に衣服を包んだ大きな箱を置いて、浴場へ入っていく。
髪や体を念入りに洗い、洗髪剤の良い香りをなんとか染み込んでくれと祈る。
入浴を終えると歯を隅々まで磨いた。
一刻を争っているのは分かっているけど、ここから先は一世一代の大行事。
私は綺麗な姿でご主人様の瞳に映りたい。
歯磨を磨き終えると、流行りの口臭ケア魔術をこれでもかというぐらいにぶち撒けた。
そして、私の為に仕立ててくれた特別な衣装に袖を通していく。
特殊な魔術や機能が仕込まれている特性の給仕服は、重さや引っ掛かりを全く感じさせない。
服に仕込まれた術式によって、体のコンディションが極限まで引き上げられている……気がする。
姿見で新しい服を纏った自分の姿を確認する。
「……ふふっ」
口角が歪んだ自分の顔を直視してしまい、気恥ずかしさが自意識を襲う。
この服、とっても好きだな。
脱衣所を後にして、静寂が支配する屋敷の中を満足げに歩く。
窓や勝手口の戸締りをしながら屋内を一周し、エントランスへ戻る。
そんな寂しい日々は今日終わる。
必ず連れ戻すから。
散りばめられた覚悟の最後のピースを嵌め込み、私は屋敷を出た。
緑が生い茂る庭を通る大理石の道を進み、正門を抜ける。
秋の終わり。
枯れ始めた木々が集まる林道を走る。
私の目には、その全てが満開の桜に見えた……は流石に盛りすぎか。
季節を巡った木の群れは葉を落として春に備え始めている。
大勢が思い描く恋の季節が春だとしても、私にとっての恋は秋と呼んでいいのかもしれない。
行先の方角には黒く分厚い曇り空が蔓延している。
薄暗い空をそっと指でなぞると、綺麗に雲が割れて青空が顔を出した。
久しぶりに大好きな人と会う。
それが純粋に楽しみだった。
何を話そうか、どう謝ろうか。
全く考えがまとまらない。
再会の喜びが脳を満杯にしてしまっている。
ご主人様と顔を合わせる。
想像するだけで死んじゃいそう。
実際、私は死んでしまうかもしれない。
だって、こんなにも胸が締め付けられているのだから。
心拍が観測できなくなる程に鼓動が加速している。
溢れ出る感情を走ることで発散しているのに、消費が全く追いつかない。
きっと、私は死んでしまうだろうな。
幸せに満ちて満足してしまうかもしれない。
冷たい空気を切り裂きながら走る。
私はこれから告白をしに行く。
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