第137話 太陽が沈むのなら、月は登り始めている

 ミュエル視点



 世界は禍々しい魔力に覆われていた。

 それは屋敷の中で項垂れる私の元まで届いていた。


 それは紛れもないご主人様の魔力で、永遠の絶望を帯びて全てを覆い尽くしている。


 ご主人様が抑え込んでいた呪いが外界へ露出したということは、最悪の事態が起きてしまったということ。

 呪いに耐えることができなくなり、絶望に堕ちたんだと思う。

 

 今頃、苦しみに悶えているのかもしれない。


 そんな状況に陥っても私は停滞を選んでいた。

 どうせ役に立てないのなら、最初から動かなくたって何も変わらない。


 メイドとして一番してはいけないことをした。


 私はご主人様の為に動くことを諦めてしまった。


 大切でたまらない人が辛い目に遭っているのに、手を差し伸べようともしない。

 その醜さは、私を自己嫌悪の沼に引き摺り込むのに十分過ぎた。


 胸の中心にはすっかり穴ができてしまい、そこから何もかもが流れ出ている。

 活力も、勇気も、何もかも。


 気力が湧いてこなかった。


 世界に魔力が満ち始めてから少し経つと、屋敷にリューカが訪ねてきた。


 漆黒の杖を抱えている彼女は既に意を決している様子。

 これからご主人様の元へ行くらしい。


 その後ろにいたのは見知った顔のブティック店員。

 彼女もまた、ご主人様の為に動いてくれる存在。


 リューカは堕落した私を精一杯叱った。


 そして、彼女がご主人様を奪うと口にした瞬間。

 もう何も残っていないと思っていた体内から灼熱が放たれた。


 それは立ち止まることを選択した私が出していい感情じゃない。


 座り込んだままの誰かを妬むなんて傲慢にも程がある。


 彼女達はその後、すぐに屋敷を去っていった。


 それから数十分、私は何もしていない。


 暴力に怯えて秩序を遵守したい私は、もうあの人に何もしてあげられないんだ。

 

 誰も傷付けたくなくて力を抑えていたのに、私は大切なあなたを傷付けてしまった。

 力を抑えていれば肝心な場面であなたを救えない。


 ここはこんな無能が居ていい場所じゃない。

 私はご主人様の側でいていい女じゃない。


 だから……。


 ……。


 ……凄いな、リューカは。

 ご主人様のことを考え一心不乱に救いの道を模索し続けている。


 私は何もできていない。


 一番近くにいたのは私なのに、ご主人様の異変に気付いてあげられなかった。

 ……違和感はあったけど、それを確かめようとしなかった。


 ご主人様が口にしないのなら、私も言及すべきではないと考えていたから。


 私は卑怯者だ。


 善意に甘えて自分を変えようとしない卑劣な女だ。


 ……。



『本当はこのまま葛藤している素振りを続ける気なんだろ?

 いつもと同じように、皆が問題を解決してくれる。

 私はじっと待っていればいい。

 可哀想な私のことなら、きっと皆許してくれるはずだから』



 ……。



『私は今まで頑張ったんだ。

 国を滅ぼしてしまうような魔獣だって倒したし、国家転覆を企む者も葬った。

 人を外れて害成す悪人を斬り伏せてきた。

 ずっと国の為に貢献してきたんだ。

 だからもう、私は動かなくてもいいだろ』



 ……。


 私は……どうすればいいの……。



『何もしなくていい。

 屋敷を掃除でもして待ち尽くしていればいい。

 ご主人様が帰ってくるのを待つだけでいいんだ』



 ……。


 ……そんな私をご主人様はどう思うだろうか。



『何も思わないだろうな。

 むしろ可愛がってくれるんじゃないか。

 あの人と次に会う時、何も変わっていない私の姿を見せてあげればきっと安心させてあげられる。

 いつものミュエルだと安寧を与えてあげればいい。

 私はそういう役に徹するのがお似合いだ』



 私が迎えに行かなくてもご主人様は帰ってくるのか……。

 だとしたら、私は何の為にここにいる。



『メイドでいる為だ。

 あの人は私に夢の続きを見せてくれた。

 メイドであること、それ以上を求めてはいなかっただろう』



 ご主人様が求める私はその程度の私なのか。


 私が憧れたメイドとはその程度の存在なのか。



『……私が憧れたメイドは暴力を振るうのか?

 罪人なら刃を突き立ててその命を奪ってしまうのがメイドだと言うのか?

 私はもう、あの席には戻りたくない』



 だけど、あの人はそんな聖騎士である私を望んでいるんじゃないのか。


 メイドの私なんて無価値だ。



『違う。ご主人様はメイドである私を慕ってくれていた。

 あの人の支えてくれた夢が無価値であるはずがない』



 でも、ご主人様はもう私を想っていない。


 この一ヶ月間、ずっと不安が募っていた。

 隣で寝ている時も、体を洗ってあげた時も……ご主人様の心臓は常に冷静を保っていた。


 私の鼓動は加速を止めないのに、彼女の心はどこまでも冷めていた。



「うぅっ……なんで……」



 堪えてた涙腺は決壊した。

 弱者の涙が溢れ出る。


 この悲しみが無意味であることは理解している。


 独りよがりの苦しみは状況を変えてくれない。


 それでも痛みは走る。


 心臓を貫いてしまう刺激が幾ばくも走り抜ける。


 あの人の関心から私が消える、それを想像するだけで死んでしまいそうだった。


 存在するだけで愛し続けてくれるんだって、ずっと思ってた。

 それだけの熱量を私は実感していたから。


 直接言葉にしなくとも、ご主人様から愛を感じていた。


 でも、そうじゃなかった。

 私は過去の栄光に縋っていただけ。


 今の私にはご主人様を惹きつけるような魅力は残っていなかった。


 なら、私はどうすればいい。


 何度も何度も自分の心と対話していく。

 

 ……対話とはまた違うな。

 ミュエル・ドットハグラという意思体を受け入れてその在り方を再確認しているだけ。


 そんな自問自答を繰り返して辿り着いた果てには、深紫色の髪を生やした魔術師が立っていた。


 私の前を歩く少女。

 結局、いつもご主人様を救うのは私じゃなかった。



 魔術師リューカ・ノインシェリア。



 ……妬ましい。

 リューカが妬ましくて……羨ましい。


 彼女が私よりもご主人様を想っていることは一目瞭然だった。


 その感情が恋慕であるかは定かじゃない。

 例え友人としての親愛だったとしても、彼女のそれは私がご主人様に向ける熱量を上回っているんだ。



『……なら、リューカの方がエリゼ・グランデに相応しい女なんじゃないか』



 頷く以外の選択肢が残っていない。


 私もそれをどこかで感じていた。


 絶対に諦めなくて、自分の信じた道を愚直に進んでいく魔術師。


 私はそんな少女に及ぶ訳がない。


 だって、私は全てから逃げて来たから。

 そんな女がご主人様と結ばれたいだなんて、勝手が過ぎる。


 想うことしかできない女よりも、行動で示してくれる女の方が惹かれるはずだ。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 ……。


 けど……だけど……ご主人様の隣に立っているのは、私でありたい。


 こんな私でも、大好きなあの人の隣で立っていたいんだ。



『今更彼女を追い抜こうなんて無理だ。

 私が散々停滞を選んでいた間、リューカはご主人様の為に何日も行動を起こし続けていた。

 私の知らない情報まで収集し、遂には手を差し伸べる段階まで駒を進めてしまった。

 そんな努力の狂人を超えられる訳がない』



 ……それでも。



『それでも私は恋を失っていない。そうだろ?』



 自己否定の末に浮かび上がるのは単純な答えだった。


 心は蜃気楼を纏う熱を思い出し始めている。



『でも、このままだとご主人様はリューカの方へ向いてしまうだろうな』



 それは……嫌だ……。



『だったら、聖騎士を超えるメイドになればいいだろ。

 その方法を私は知っているはずだ』



 ……知っている。



『そろそろ動けよ、私』



 私以外には絶対辿り着けない場所を知っている。


 気付いた頃には重い体を動かしていた。

 脱力していた脚に力を入れて、私は立ち上がっていた。


 階段の狭間で私はエントランスを見下ろしている。

 二本の脚で体を支えている。


 頬を伝っていた涙を拭って振り返る。



 ああ、私の体は動き出してしまった。



 二階へ登っていく。


 階段を上がった先にあるバルコニーを横切る。


 視界に広がるのは少しだけ長めな廊下。

 数え切れないぐらい踏みしめた床を歩む。


 私に与えられた個室を通り過ぎ、隣にある部屋の前で足を止めた。


 そこは正真正銘ご主人様の部屋。

 住み込みメイドである私でさえも未だ足を踏み入れたことのない聖域。


 私は今から罪を犯す。


 罪を犯すのは知るべきことがあるから。


 今まで目を伏せてきた真実。

 ご主人様が秘匿してきた側面に向き合わなければいけない。


 だから私は罪を犯す。


 部屋を遮る扉には特殊な施錠術式が掛けられている。


 ご主人様は部屋に入る都度単語を口ずさんでいた。


 扉を開ける鍵は何かしらの単語。

 つまり、私でも突破できてしまう可能性が残されている。

 

 それを解けなければ、私はその程度の人間だったってことだ。


 吸い寄せられるようにしてドアノブを握った途端、声が聞こえてきた。


 毎日耳にしていた愛しい声。


 胸が締め付けられる。

 涙が溢れそうになる。


 感情が入り乱れる中、その大半を閉めていたのは安心だった。



『あなたの夢は?』



 脳内に響いたご主人様の声。

 この問いに対する解こそが、聖域と屋敷を繋ぐ言の葉。


 夢。


 ご主人様の夢。


 それは……きっと……。


 心臓が加速する。


 視界が遠のく。


 顔が熱い。


 体が溶ける。


 喉が渇く。


 思い上がりが頂点に達してしまう。


 私は声を震わせながら口にする。


 多めの照れと少しの緊張。

 それを後悔で包んで吐き出した。



「ミュエル・ドットハグラ」



 目の前の扉から、ガチャンと鍵の開く音が聞こえた。


 私の出した答えが鍵を開けてしまった。



「あぇ……?」


 

 腑抜けきった声が漏れていた。

 

 今、私はどんな顔をしているのだろうか。

 ……きっと、見るに堪えない破顔を晒しているに違いない。


 枕に顔を伏せて叫びたい。

 今すぐ庭を走り尽くしたい。

 大好きなあの人を抱きしめたい。


 もはや照れとは呼べない火炎を宿して、私は扉を開けた。

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