第105話 天秤にかけられた恋と秩序

 ミュエル視点



 腕に何かを注射されたご主人様は、項垂れるとそのまま動かなくなってしまった。


 私……何して……。


 どうして、動いていないの。


 なんで、守っていないの。


 これじゃあここに来た意味が無い。


 何故私は、この世で最も守らねばならない人のために力を振るっていないんだ。


 私にはその力があるのに……なんで……。



「あれ……嘘、エリゼちゃん?

 おーい、どうしたのかな?

 おきてー……?」



 少女は動かない。


 目を瞑り浅い呼吸を繰り返すだけ。


 私が、動かなかったから。


 ご主人様を救わなければいけないこの状況で動けないのなら、私はもう……。


 ……。


 悪臭がする。


 魔の者が放つそれを私は知っている。


 感じたその刹那に体が危険と興奮を覚える嗅ぎ慣れた魔臭。



「鴉が見ている対岸の花を、凪いだ水が散らした。

 失い、消え、潰え、それらを統べる徒花。

 回転を繰り返す星に……おえぇ。

 ……あの、無闇に薬物摂取させるのやめてもらえませんか。

 今のエリゼには悪い方へ働くだけなんで」



 少女は長い前髪を垂らしながら不可解な詩と苦情を述べた。


 丁寧を雑に真似た口調で怨言を刺す。



「誰……?」


「……お前をこの世で一番嫌っている女ですけど」



 少女は支配者を睨みつけ、手綱を払い除けた。


 俊敏に近い動きで私の傍へと抜ける。


 その体は立っているのがやっとで、今にも崩れてしまいそうで。

 肩を上下に揺らしながら、私の顔をじっと見上げた。



「ミュエル、来てくれると信じていました。

 でも、不正解です。

 あなたは一人で来るべきじゃなかった」


「エリゼハート……」



 ご主人様の中に潜む魔族。

 彼女は私の行動を否定していた。


 やっぱり私は……足手纏いなのか。



「エリゼに置いて行かせた手紙と写真は見ましたよね。

 結論から言うと、わたしが逃げればあの人は死に絶えます。

 だから、ここに必要なのはあなたじゃない。

 愚か者を無力化させる人間が必用です」


「すまない……私……何もできなくて……」


「分かりませんか? 助けをさっさと呼んでこいって言ってるんですよ」


「ご主人様の体を置いては行けない」


「……ミュエルは殺せますか?

 昔の様に罪人を躊躇せず殺せますか?

 目の前の三人を……殺せますか?」


「それは……」


「勇敢さは認めます。でも、あなたは浅はかです。

 エリゼの窮地に駆け付ければ変われると思っていましたか?

 暴力を振るえるようになると勘違いしていませんでしたか?

 ……無理ですよ。

 傷が絶えないボロボロのミュエルは簡単には変われない。

 ミュエルが変わるために必要なのは、狂気だけです」


「……」


「大丈夫。ミュエルは立派なメイドだから、戦えなくても良いんですよ、

 エリゼもそう思っているはずです。

 ……見ての通り、この体は地に足つけるのがやっとです。

 私でも抑えきれない程の絶望と負の感情がひっきりなしに湧いてきているので……。


「……でも」


「……これは命令です

 助けを呼びなさい、ミュエル。

 メイドなら従うのが務めでしょう。

 ほら、走り出してください」


「逃がさねーよ!!

 このコスプレ女には、アタシのストレス発散に付き合ってもらわねーと気が済まねーからなあああ!!」



 会話を交わしている間に、戦闘態勢を整えていた褐色の女が憎たらしく叫んだ、


 姿勢を極限まで落とした女が部屋を走り抜ける。


 その猛進は私を目掛けて繰り出された重量の塊。


 何がなんでも回避しないと。


 さもなくば、私はこいつを殺してしまう。


 体に宿る加護が迎撃を行うよりも前に、退かないと。


 でも、ご主人様を置いて逃げるなんて。


 それは……嫌だ……。



「止まれ、それ以上、私に近づくな!」


 だから、静止を促した。


 それなのに、どうしてお前は進んで来るんだ。


 止まれ。


 止まってくれ。



「舐めてんじゃねぇぞオラああああ!!」



 速度を上乗せした拳が勢いよく放たれた。


 私の顔面に向かってそれは突き進む。



 瞬きの後。



 褐色の腕が宙を舞っていた。


 胴体を離れたそれは螺旋を描いて高く上がる。



「は……?」



 腑抜けた声と勢いよく天井に衝突した腕の破裂音だけが聞こえる。


 私の目には、反射で動いた自分の右手が見えている。


 それはしなやかに、力強く相手の打撃を薙ぎ払っていた。



「あ、ああ、ああああああああああああああ!!?」



 血飛沫が上がる。


 濡れる。


 服が赤色の染まる。


 鉄の匂い、悲痛の叫び。


 生臭いこの空気を、私はまた作り出してしまった。



「ちがっ! わ、わた、私っそんなつもりじゃっ」



 違わない。


 私は、押さえ込んでいた力を使ってしまった。


 肉体を守る加護ではなく、自らの力を行使してしまった。


 殺さないって、傷つけないって決めていたのに。



「ネイハあああああああ!!

 早くぅ!! 早くアタシの腕を治せえええ!!」



 褐色の女は床に転がりながら、もう片方の手で傷口を押さえている。



「こ、このコスプレ女、化け物じゃん……な、なんで……ヤバいって……」


「大丈夫だよ、ネイハ。攻撃を仕掛けなければ害は及ばないから。

 それに、今ので完全に戦意は失せたと思うし」



 淡々と語る言葉が耳を通して脳内に入り込んでいく。


 私は罪を犯した。


 私は立てた信念を破ってしまった。


 でも、それならどうすれば良かったんだ。



「ミュエル……今すぐ走って……早く……手遅れに……なる前に」



 か弱い力が私の腰を押した。


 進めと、逃げろと、助けを呼べと強い意志を感じるそれに……私は身を委ねてしまった。



「……絶対に救ってみせる。だから……ご主人様を頼む」



 走る。


 ただ走る。


 建物の中を無我夢中で走り抜ける。


 蹴破る勢いで玄関を抜けて外へ出た。


 ……。


 去り際に見えたあの顔。


 エリゼハートは笑みを浮かべていた。

 邪悪で清々しい爽快を得ていた。


 私の行動は人として最低だったけど、彼女にとってほ待ち侘びた復讐だったのかもしれない。


 私は……人の腕を飛ばしてしまった。


 大きな罪悪感は吐き気に変わる。


 苦しい。


 だけど、エリゼハートは喜んでいた。


 どちらが正しいんだ。


 倫理か、愛する人か。


 私はどちらを選べばいいんだ。


 疑念と苦しみに苛まれながら、裏通りを抜ける。


 なんで……なんで……逃げてるんだ……。


 ご主人様を放って……私は何をしているんだ……。


 こんな最低な人間がメイドでいいのか。


 自問自答を繰り返す。


 味わったことのない後悔と罪悪感。


 苦しい。


 初めて逃げることに悔しさを感じた。


 初めて自分の弱さが嫌になった。


 ……。


 私は、メイド失格だ。


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