第104話 とっくの昔に壊れていた

 エリゼ視点



 裏通りを走っていた。


 早朝のその道は記憶している性質と一致している。


 酔いつぶれて眠っている者や不良少女の集団が混在していて、相変わらず治安の悪い場所。

 曇天の擬人化みたいな人間がそこら中にいる。


 不満と自由で溢れているこの人たちも、見る方向を変えれば誰かの英雄なのかもしれない、


 戻ってくるつもりはなかったんだけどな。


 何度も通った道。


 何度も使い走りにされた過去。


 これからわたしはどうなるんだろう。


 またあの日々に戻ってしまうのか。


 ……逃げるか、向き合うか。

 わたしは深く選択肢を考えずにここまで来てしまった。


 目的地の大きな建物へと。


 この通りにおいては華々しさを放っている物件。

 わたしにとっては忌々しい因縁の地。


 中からは賑わいも感じられなければ、人気も感じない。


 どうやら人払いをしているらしい。


 わたし程度の人間にそこまでする必要なんてないと思うんだけど。


 塗装が剥げてきた扉を開けてエントランスへ足を踏み入れる。


 まず目に入ってきたのは、正面の壁に貼られた一枚の紙だった。



『おかえり、エリゼちゃん。特別な個室で待っています』



 それはアヤイロちゃんの文字で書かれた色鮮やかな看板。



「くだらない」



 人気の無い静かな廊下を進む。


 この先に一際大きな部屋があって、演技や裸体を披露する舞台があって、階段がある。


 その階段の上こそが終点。


 わたしの未来を決定づける審判の間。

 少し大袈裟すぎるかな。


 ……誰かに自分の運命を決められるのは、とても楽だ。

 難しいことを考えずに済むから。


 それなのにわたしは、階段を登るまでの間幾重にも思考を重ねた。


 この先、どう行動を起こせば酒場の店員を救えるか。


 どうすれば、アヤイロちゃん達に付き纏われずに一生を過ごせるか。


 荒んだあの日々に戻るとして、精神を保っていられるか。


 そして、わたしを救う方法。


 案はいくつも出てきた。

 でも、そのどれもが大きなリスクが伴うものばかり。


 例えば、酒場の店員さんを見つけ出して逃げ出す。

 けどそうすれば、アヤイロちゃんは次にみゅんみゅんか、あるいはわたしの友達を狙うだろう。


 逃げ出せば、他の誰かが餌食になるだけ。


 なら、最初からわたしが犠牲になればいい。


 階段を上がった奥に、一階の広間を見渡せる個室がある。


 間接照明とアロマの煙に包まれた趣味の悪い部屋。


 天蓋付きの大きなベッド、ソファ、シャワールームといった豪華な設備。


 そこは、メートゥナちゃんの私利私欲のために作られた居場所。

 彼女はそこで優良顧客や気に入った女の子を呼び付けて交わる。


 事が終わった後、わたしは掃除に駆り出されていた。

 赤の他人が欲をぶつけた汚らわしいこの場所を清潔にし続けた。


 嫌な記憶だ。


 最悪。

 独特な匂いが鼻にこびりついている気がする。


 扉に手を掛けてゆっくりと開けた。


 その先には彼女達がいる。


 アヤイロちゃんはベッドに腰を掛け、ネイハちゃんと、メートゥナちゃんはテーブルを挟んで対面に座っている。



「マジで来やがった。こいつマジで馬鹿だ」


「うち、もうちょっと寝てたかったんだけど」



 嘲笑う褐色の女と、あくびを見せるオレンジ髪の少女。



「久しぶりだね、エリゼちゃん。来てくれるって信じてたよ」



 満面の笑みでアヤイロちゃん言った。

 あざとくて、可愛くて、誰からも愛されていそうなその笑顔。


 楽しくて嬉しくて仕方がないんだろうな。

 言いなりなってくれる馬鹿な召使いが帰ってきて。


 ……体は震え始めている。


 大丈夫、まだ、心は震えていない。



「……酒場の店員さんはどこ」


「どこかでぐっすり寝ているんじゃないかな?」


「無事……なの……?」


「あの子はね、エリゼちゃんと関わっちゃったから不幸になっちゃった。

 それも全部エリゼちゃんのせいなんだよ」


「そんな……」


「あははははは!!

 どれだけ冷徹な人間でも、大切な女の子を盾にされたら無力に落ちる。

 エリゼちゃんの場合はそういう女の子がたくさんいるから、とってもやりやすいんだよ。

 人と関わらずに、一人で生きていればこんなことにはならなかったのにね」



 わたしの……せい……。


 全部わたしが悪いんだ。



「わたしは……何をすればいいの。

 どうしたら彼女を……解放してくれるの」



 唇に舌を這わせて、女は言った。



「簡単なことだよ、エリゼちゃん。

 一緒に暮らして欲しいんだ。

 それでまたわたしの愛を受け取ってよ。

 そうしてくれたらあの女の子は解放してあげるし、エリゼちゃんのお友達も傷つけない。

 だから約束してよ。

 もうわたしから逃げないって」



 ……それでいい。

 わたしの友達が、みゅんみゅんが傷付かないで済むのなら。



「……うん分かった……約束するから……もう誰も傷付けないで……」


「もちろん。エリゼちゃんのお友達にはもう関わらないよ。

 あはは! 嬉しいな!

 これでまた愛に満ちた時間が戻ってくるんだね!」


「おいアヤイロ、アタシにエリゼを寄越せ。

 一発殴らねぇと気がすまねぇ。

 この間の借り、返させてもらうぞ」



 メートゥナちゃんはわたしに近づくと、大きな手で体の前面をなぞり上げた。


 傷を確かめるように、中身を確かめるように。


 気持ちが悪い。



「あ? なんか、新品みたいな体だな。

 アタシがくれてやった傷が見当たらねぇ。

 それに、潰したはずの子宮も残ってるし。

 面白くねぇなぁ、またぶっ壊してやるよ」



 セレナちゃんがせっかく治してくれた体。


 傷付かないように守ってきたけど、意味無かったな。


 また……わたしの体は壊される。



「駄目だよ、メートゥナ。

 もうメートゥナの順番は終わったでしょ。

 下手なんだからイキがらないでよ」



 若干ドスの効いた声で行動を阻むと、メートゥナちゃんはたじろいでソファに座り直した。



「ちっ……アヤイロ……テメーが飽きちまったらエリゼはアタシが貰うからな」



 アヤイロちゃんはわたしにそっと耳打ちをした。



「安心してね、エリゼちゃん。

 ネイハもメートゥナも消してあげるから。

 これからはずっと二人で生きていこうね。

 堕落した後はずっと甘やかしてあげる」



 それなら少しは快適かもしれない。


 メートゥナちゃんがいなくなってくれるなら、それは救済だ。


 アヤイロちゃんと過ごすだけなら、それはそれで最善なんだろうな。


 それでいつかは、またみゅんみゅんに会わしてくれるかもしれない。


 心さえ保つことができれば、まだ希望はある。


 自我と夢を守ることに専念して、あとは身を委ねよう。



「それじゃあネイハ、『お菓子』持ってきてよ」


「えー、そのベッドの下っしょ? 自分で取ればいいのに」



 ……は?


 な。なんで。


 どうして。


 そんなの必要ないよ。


 もうわたしにはそんなもの必要ない。



「な、なんで!? 嫌だ……やめて、わたし言うこと聞くからっ……。

 だから、それだけはやめて!!」


「どうして? 前はあんなに欲しがってたのに」


「いらない、そんなものわたしは望んでいない……一度だって……望んでいない……」



 だって、それは心を塗り替えてしまうものだから。


 感情も、理性も、愛も。

 全部無視して人を酔わす最悪の快楽。


 居心地の良い日々戻れなくなる。


 蝕まれれば、わたしの夢が本当に終わる。

 平穏も、求め続けてきた幸せも。



「おいおい、そんな顔じゃ説得力ないぜ?」



 褐色の手に髪の毛を掴まれて、壁に埋め込まれた姿見の方へと連れられる。


 駄目だ。


 見ちゃ駄目だ。


 顔を鏡面に向けさせられると、地獄が映る。


 そこには。


 頬を紅潮させ、恍惚とした表情のエリゼ・グランデがいた。


 期待を大いに含んだ不埒な眼差しで、だらしなく舌を出し涎を垂らす最低な女。


 ……。


 あ、わたし駄目なんだ。


 みゅんみゅんの隣に居ていい人間じゃないんだ。


 こんな穢れた女は、聖騎士に相応しくない。


 ……。


 違う……こんなの、わたしじゃ、ないのに。


 ……。


 ……そういういことか


 わたし、もう壊れてたんだ。


 この三人に虐げられてきたからか、それとも大剣を手にしたからか。


 ううん、いつからかは重要じゃない。


 とにかくわたしの心はとうの昔に壊れていたんだ。


 息を吸う。


 息を吐く。


 それを何回か繰り返した頃。


 陰湿な世界に音が響いた。


 世に溢れたありきたりな音。


 変哲のない摩擦音。


 部屋の扉が開いた。

 ただそれだけ。


 それだけで空気が変わる。


 そして。


 金色の髪が視界の中で揺れた。





「……見つけた」





 肌寒い秋の早朝にはそぐわない汗をかいているミュエル・ドットハグラは、わたしを見てそう言葉にした。



「みゅっ、ミュエルさん……なんで……どうして」



 ああ、わたし、ときめいてる。


 不謹慎だ。


 最低だ。


 でも、でも……でも。


 それ以上に不安とか後ろめたさとか、とにかく負の感情が押し寄せてくる。


 ……。


 みゅんみゅんは、この状況を覆してくれるのだろうか。


 力を振るえない、生き物を殺せない、弱者に怯えるメイドのあなたに期待をしてもいいんだろうか。



「シトラスに占ってもらったから、場所はすぐ分かった。

 ……ご主人様を返してもらうぞ」



 言葉に反して、指が白くなるほど握り込まれたその拳は


 勇気を振り絞って来てくれたのはすごく嬉しい。


 だけど、みゅんみゅん。

 これ以上自分を傷付けないでよ。


 無理しちゃ駄目だよ。


 わたしなんかのために、覚悟を決めなくてもいいんだよ。


 わたしは、もうあなたの主人である資格がないから……。



「何で来ちゃったのかなぁ。

 あなたはもう抜け殻なんだよ?

 こんな危ない場所に出てきちゃだめでしょ?

 エリゼちゃんと違って、堕ちきったあなたはもう何もできないんだから」



 アヤイロちゃんは真実と私怨を混じえて、みゅんみゅんの現状を包み隠さず言葉にしていた。



「……私のご主人様は返してもらう」


「なら、戦ってみせてよ。剣を召喚してわたし達を斬って、そして命を奪ってみてよ」



 みゅんみゅんは、ただ手を握りしめてアヤイロちゃんを睨みつけている。


 ……。



「呆れた、ここまで言っても何もできないんだ。

 何しに来たんだか……本当にムカつく。

 誰もが欲しがる席に座っていながら、殻に閉じこもる弱いお前が大嫌いなんだよ。

 ……でも、こういう時に限って良いアイディアが降ってくるんだよね。

 エリゼちゃんが一番嫌がることをしてあげる」



 ちくりと、肘に針のような物が刺された。


 針のようなもの……それはどこからどう見ても、わたしの体に刺さっているのは注射器だった。


 否定を許さない快楽の薬物が流れ込んでくる。


 絶望すら幸福に塗り替えてしまう魅惑の逃避。


 間もなく、わたしは幸せに満ちる。

 でも、それは作り物の幸せ。


 その幸せは人を思って作られたものじゃなくて、人を物だと思う電気信号に過ぎない。


 そんな無愛想で無慈悲で理不尽な液体は、わたしを簡単に沈ませる。

 夢の中へと。


 溺れる。


 溺れる。


 溺れる。


 目がチカチカする。


 いやだ……こんなの、やだよ。


 ……。


 でも、今目の前には本物の憧れがいる。


 聖騎士ミュエル様が。


 だから、きっと助けてくれる。


 救ってくれる。


 わたしの憧れが、全てを壊してくれるはずだから。


 ……。


 ……あ、違う、違う違う。


 あなたはもう、騎士じゃないんだ。


 慌てた顔でわたしに向かって手を伸ばすことしかできないあなたは……。




 もう……憧れじゃないんだ。




 知っている。


 彼女を今一番理解しているのはわたしだ。


 だから、あなたが今ここで剣を取り出さないことも、わたしを捕らえている悪党を斬り伏せてくれないことも知っている。


 理想と憧れが夢物語であることを、知っている。


 もう、あなたは騎士じゃないから。


 夢を叶えたメイドだから。


 だから。


 ……ああ、頭がふわふわしてきた。


 やだ。


 やだよ。


 見せたくないな、こんな顔。


 死んでも見せたくなかった。


 きっと嫌われる。


 ……。


 あなたに嫌われるぐらいなら……わたし達の夢が共に存在できないと知るぐらいなら。


 出会う前に死んでおけばよかった。

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