第38話 おはようございます、エリゼ・グランデ


 夢を見ていた、とても大切な夢。

 わたしの大切な人、その大切な人の大切な人が出てきた。


 伝えないと、早く伝えないと。

 忘れる前に、思い出が霞む前に。


 瞼を開ける。

 見えるのは天井。


 なんとなく、ベッドに寝かされていることだけは分かる。

 ふかふかの枕と毛布がわたしを癒している。


 どこなんだろう、ここは。

 ぼやけていた視界がピントを合わし始めて鮮明になっていく。


 意識が覚醒してきてまず襲ってきたのは、恐怖と狂気だった。

 体を失くしたという事実が脳内を未だ支配している。


 わたしの内側には不安が充満している。

 発狂が精神を襲う。



「っ!?はぅっ……!」



 声にならない声が世界に放たれる。

 喉から音を出すことができないほどの恐怖、それを初めて味わった。


 このままパニックに陥れば、呼吸すらできなくなってしまう。

 そうならないように根性で動揺を抑えた。

 せっかく助かった命を無駄にしてはいけないから。


 あの戦いの中、最後の最後まで残っていた左手を使って全身を掻きむしった。

 わたしの体はそこにあるのか、それを手で触れて確かめたいだけなのに正常に動作しない。



「はっ、はっあぅ、すぅ……うぅ」



 混乱している脳みそは次第にそれを緩和していき、わたしの心に落ち着きを取り戻させる。


 そっと右腕を上げてみた。

 視界にはそれがちゃんと写っている。

 切り離されたはずのその腕は、わたしの意思に従順に動いている。


 そのまま、他の部位の有無をなぞる様に確かめる。


 足もある、お腹の中には臓物がある、胸もある、心臓が唸る音も聞こえる。

 わたしの肉体は、しっかりとそこに存在していた。



「ふぅ……はっ、ふぅ」



 呼吸は荒いままだけど、正常な思考ができるギリギリのラインまでは落ち着きを取り戻せた。


 改めて、周囲を見渡す。


 白を基調とした造りの個室。

 部屋の中にあるのは、わたしが寝かされているベッドと、小さな机と椅子、扉、開けられたカーテンに格子状の窓。


 その窓から差し込む月明かりが室内を照らしている。

 眩しいぐらいに光を帯びているのは、今宵が満月だからか。


 正確な時間を判断することはできないけど、月の位置を考えると日付が変わる辺り何だと思う。


 ……。


 あの人がいない。

 目を覚ましたら、真っ先にあの端麗なご尊顔に遭遇すると思っていたんだけどな。


 重たい上体を起こす。

 行かないと。



「ミュエルさんに、早く会いに行かないと……」



 ベッドから体を下ろして、扉の方へと歩き出す。


 身体中が痛い。

 足が重い。

 体が自分のものじゃないように気怠い。


 でも、体は治っている。

 死ぬはずだった命は助かったんだ。

 本当は、こんな状態で出歩いてはいけないことなんて十分理解している。


 だけど、それでも記憶が鮮明なうちに彼女に会いに行かないと。

 わたしが忘れてしまえば、あの人の最後の願いまで殺してしまう。


 木製の扉を開ける。


 大きな窓が並ぶ廊下を走る。

 綺麗な装飾が敷かれた長くて広いその道の壁を伝いながら、倒れる限界の速度で走る。


 窓から見えるのは、未だに営みが途絶えない街と、わたしがいる場所を囲む壁。

 どうやら、わたしはずいぶん高い位置にいるらしい。


 そして確信した。

 やっぱり、ここは教会だ。


 あの後、わたしは最高峰の治療を受けることができる教会の病棟に運び込まれたんだ。


 手当たり次第に足を進めていると、階段が見えた。

 手すりのついたその階段を降っていく。


 どこにいるんだろう。

 早く伝えたい。

 早く伝えないといけない。


 ナルルカ・シュプレヒコールがその死の後、ずっと後悔していた無念を晴らしてあげないと。

 ミュエル・ドットハグラの思い込みを払ってあげないと。


 人気のない深い夜の教会を這い廻り続ける。


 乾き切った喉も、疲労しきった両足も、弾けそうな頭も、焼ける様に熱い肺も、全部どうでも良い。

 早く、早くあなたに会いたい。


 消灯しきってしまい、夜空が灯す自然の明かりしか存在していない通路を進み続ける。


 いくつ目かの階段を降りた先にあった扉を開けたると、中庭へ出た。

 満天の星空が照らす花園。

 聖域とも呼よべるその庭園は、わたしが寝かされていた病棟から教会の本部へと続く唯一の経路。


 白百合咲き誇るその場所で、わたしは彼女の影を見た。

 探し求めていた彼女の姿を。


 メイド姿のその人は、わたしの対面からこちらへと歩いてきている。

 すぐにあなたはわたしに気付いた。

 気付いてくれた。


 本当はこっちから話しかけたかったんだけど、うまく声が出なかった。



「ご主人様っ!?」



 驚いた反射で出た様な声が聞こえる。


 やっと会えた。


 駆け寄るあなたのその胸に、わたしは顔から寄りかかった。

 両腕を彼女の背中へと回す。

 硬くて、逞しくて、柔らかいその体。

 わたしが世界で一番安心できるその場所。

 とっても良い香りがするあなたへ、顔をこすりつける様に抱きつく。



「目覚めた瞬間にみゅんみゅんに会えると思ってたんだけどな」


「すまない、ずっとご主人様の傍に居たかったんだが、その……水浴びをしていた……。目を覚まして最初に目にするのが、汚れた私なのは嫌だったから。

 主人の側を離れるなんてメイド失格だな……」


「メイドとしては駄目だけど、その……わたしのメイドとしては合格だよ」


「ふふっそうか」



 本当はもう少し踏み込んだことを言おうと思ったんだけど、極限状態に近いわたしの頭じゃいい言葉が出てこなかった。


 じゃあ、そろそろ伝えないと。

 綴られた言葉、死者から頼まれた奇跡の伝言を。



「みゅんみゅん。わたし、あなたの大切な人と話してきたよ」


「……そうか」



 わたしの一言で、誰に会ったのかをみゅんみゅんは察してくれたらしい。



「うん。それでね……ミュエルさんに対してめちゃくちゃ怒ってた」


「え!?ど、どうして?」



 妬けちゃうな、そんな顔するんだ。

 そんな嫉妬は置いておいて、わたしは痛む肺に深く空気を詰め込んだ。

 こんな真夜中に、しかも病棟でこんなことをしてはいけない気がするけど、想いを十二分に伝えるにはこの方法しかなかった。



「アタシとの一番の思い出が悲劇でいいわけないじゃん!」



 精一杯の想いを込めて再現してみせた。

 みゅんみゅは一瞬だけ驚いた顔を見せると、言葉の意味に気付いてわたしの肩に顔を伏せてきた。



「けど……だって、私のせいでナルルカは命を落としたんだ。だから、私はその罪を背負わないといけない。だから……」


「初めて話しかけたあの日、海を見たあの日、大食い対決をしたあの日、初めて喧嘩したあの日、夢を語ってくれたあの日、もっともっと色んなアタシを思い出して欲しい、楽しかったはずの毎日だけをずっと覚えていて欲しい……だってさ。

 これを聞いても、みゅんみゅんはナルルカさんを罪として背負っていくの?ナルルカさんがそれを願っていると本当に思っているの?」



 みゅんみゅんの懺悔に被せる様に伝言の続きを言葉にした。

 これ以上、ナルルカさんのことでみゅんみゅんに悲しませる訳にはいかない。

 それが彼女の願いだから。



「ぐすっ、うぅ、ちがう、私の友達は、ナルルカは……そんな、そんな人間じゃない」



 涙を必死に堪えながら、みゅんみゅんは本心を口にした。

 この人、本当は泣き虫なんだ。

 強い人だと思っていたけど、自分の感情を押し殺していただけなんだ。


 わたしよりとても背が高いその頭、今はわたしの肩に伏しているその頭を優しく撫でる。

 人を撫でるなんて、これが初めてなんだけど上手くできているのかな。


 これで少しはあなたの背負っているものが軽くなると良いんだけど。



「そうだね。ナルルカさんはミュエルさんの幸せを望む人間だよ。だって、自分を犠牲にして守って見せたんだから」


「うん、うん……いつだって、ナルルカは、私を楽しませてくれた、だから、分かってたんだ、本当は、私を恨んでないんだって!そんな風に思って欲しくないんだってぇ!!」



 泣きじゃくるみゅんみゅんを見るのは、数週間ぶりだ。

 あの時とは少しだけ違う、懺悔に混じった安堵の涙を流している。

 本当はあなたの泣き顔なんて見たくないんだけど、それが見れるのもわたしだけの特権かな。



「みゅんみゅん、いっぱい泣いて良いよ。我慢してた分、全部全部泣いちゃいなよ」



 そう言うと、みゅんみゅんは……ミュエルさんはわたしの肩で思いきり泣き出した。

 衣服を浸透させるぐらいに涙が伝わってくる。

 想いが伝わってくる。


 ナルルカ・シュプレヒコール。

 ミュエルさんを愛したあなたの言葉、きちんと伝えられたよ。


 心地の良い夜風が吹き抜ける。

 月と星の光が漂うわたし達二人だけの世界がここにある。


 思い出す。


 あなたがわたしの屋敷にやってきたこと。

 家事がダメダメだったこと。

 それでも、それを克服させたこと。

 一緒に住み始めたこと。

 辛い過去を語ってくれたこと。


 これからは、ずっとミュエルさんに幸せが続きます様に。

 誰に願う訳でなく、運命が敷く不条理な道にそれを祈った。



 『第一章 星空の下、百合は咲き誇る』 終わり


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