第6話 春風に身を委ねてみた

 

 あれから2週間、指導の甲斐あってミュエルさんのメイド能力は格段に上がっていた。


 洗濯物が詰められているカゴは蹴っ飛ばさなくなり、料理を世界から退去させることもなく、さらには床掃除で摩擦熱を暴走させることもなくなった。


 ドジっ子駄メイドも今じゃギリギリ人前に出せるぐらいには成長したということ。

 わたしのおかげでね。


 とはいえ、何か特殊な教え方をしたわけでもなければ、魔術も使っていない。

 わたしが手本を示して、彼女がそれを真似ただけなんだ。


 ミュエルさんは戦闘以外のものを覚えることが出来ないと断言していたけど、それは間違いなんだと、わたしがここで宣言してあげる。


 そして現在のわたしはというと、屋敷の食卓に着席し中。

 キッチンで料理をしているミュエルさんの後ろ姿を舐めるように眺めている最中なのでした。


 椅子に浅く腰をかけテーブルには肘をつき、両手を組んでその上に顎を乗せて恋する乙女を全うしているのだ。


 眼福極まれり。

 多分生きてきた中で一番だらしない表情をしているんじゃないだろうか。


 卵とトマトのいい香りが鼻を襲う。

 油を敷いたフライパンから水分を飛ばす音の爆撃がしきりに流れている。


 嗅覚と聴覚の両方から同時に空腹を促す野蛮な行為が行われているんだ。

 卵を握りつぶしていた彼女の姿はもうそこになく、初心者を脱却した料理人としての背中がそこにあった。

 成長したね、みゅんみゅん。


 しみじみと親感覚に浸っているが、空腹で死にそうだ。



「みゅんみゅん、あとどれぐらいで出来そう?

 実はわたしの胃袋が発狂寸前」


「二分だ。品質を最高級まで高めてみせるから少しだけ待ってくれ」



 二分、普段なら一瞬で過ぎるであろうその数字も今回に限っては永遠に感じられる。


 お腹が鳴いている。

 駄目だ、口が唾液で満たされる程度に食欲が暴走してきた。


 腹の空きは最高のスパイスなんて話も聞くし、耐えてみますか。


 そんなこんなを考えている内に、ミュエルさんがキッチンを離れてこちらへ歩いてきた。

 くるぶし辺りまで仕立てられているロングスカートがしたたかに舞っている。

 清楚だ。



「お待たせ、出来上がりだ」



 そう言いながら彼女がテーブルに置いた皿には、ケチャップで炒めた米を卵で包んだオムライスなる料理が乗せられていた。

 甘美なる黄金を誇る卵のベールがそこにある。



「激アツランチじゃん! 最高! さあ食べよう! すぐに食べよう!」


「待て、ケチャップで絵を描くから」



 主人が従者に待てされることあるんだ。


 ケチャップでお絵描きの仕上げをしてないのなら出来上がりと言わないで欲しいよ……。

 もしかして、これ噂の焦らしプレイなのかも。

 食欲を煽り倒すことで、わたしをグルメマゾヒストに調教しているんだよ。


 冗談はさておき、果たしてミュエルさんには絵心が備わっているのだろうか。


 疑念が疑念を呼ぶ疑いスパイラルに苛まれている中、既にメイドは十分に温まった卵へ何かを描き終えていた。


 だけど、わたしはそれが何か全く分からなかった。

 かろうじて獣のような耳があるところから動物系なことだけは推測できる。


 もう率直に聞いてみよう



「これは?」


「子猫だ……自分でもそうは見えないが」



 描いた本人でも認識し難いイラストが完成していたらしい。

 こういうところもまた愛らしい。



「いつか絵の勉強もしようか」



 あなたは、優しく笑みを作って頷いた。


 可愛い。

 幸せで空腹が克服できそう。

 満腹中枢が狂ってしまう程の威力が、その微笑みに内包されてるんだ。


 ミュエルさんはさらに、自分が食べるオムライスを持ってくるとわたしの対面に座った。


 メイドな彼女だけど、わたしのお願いで一緒に食事を取るようにしてもらっている。

 食事を別々に取る意味もないしね。


 料理が成功したためか、彼女は自慢げな表情をしている。

 可愛い。

 可愛さのお礼をしなくては。



「ねぇ、わたしもみゅんみゅんのオムライスにお絵描きしてもいいかな?」


「ああ、構わない」



 ふふん、このわたしが絵画たるものをご教授しんぜよう。


 意気揚々と小皿に分けられたケチャップをスプーンで掬うと、早速デッサンを始める。

 題材にするのは目の前のメイド。

 これなら手本をじっくりと観察しながら絵を描くことができる。


 綺麗な線を引くことを心がけて、一気に仕上げていく。

 思い切りが良ければ良いほど良い線が引ける、と思う。


 料理が冷めないよう、一分に満たない速度で描き終えた。

 さぁわたしの専属メイド、感嘆に塗れた感想を寄越しなさいな。



「……これは、私でいいのか?」


「も、もちろん! 卵でその綺麗な髪色を表現しているとこがポイントかな」


「すごく嬉しい。感謝する」



 良かった、何とかみゅんみゅんであることは認識してくれたみたい。

 彼女と肩を並べるぐらいにとんでもなく下手っぴな絵だったから、正直不安で仕方なかった。


 それにあれだ、細部までこだわると大量にケチャップを注ぐことになるから、ギリギリ識別できるぐらいに大雑把な感じにしておいたのだ。


 つまり作戦通りってこと。



「わたし達、一緒に絵の勉強しないとだね」


「それはとても楽しそうだ」



 わたしとみゅんみゅんは、お互いが描いたトマトの軌跡を潰さないよう、綺麗に綺麗に一口ずつオムライスを食べていくのでした。



 ☆



 特に大きなイベントが起きることもなく、世界はオレンジ色を帯び始めていた。

 ミュエルさんに家事を教えて、一緒に夕食を食べて、そうすると彼女は終業を迎える。


 絶賛無職満喫中のわたしは活動時間の全てが暇で埋め尽くされている。

 もしミュエルさんに教えることがなくなったら、それこそ二人で絵画教室にでも通い始めてみたいな。

 けど、それってもはやメイドの職務じゃないような。


 それに、教えることがなくなるのって少しだけ寂しいかも。



「今日も色々成長することができた。

 こんなの初めて、本当にありがとう」


「また言ってる。

 別にわたしが凄いわけじゃないよ。

 みゅんみゅんの頑張りが今に繋がってるだけなんだから」


「それなら、私達二人で私を育んでるということだな」


「あはは! なにそれ!」



 みゅんみゅんの独特な返しを聞いて、わたし達は笑い合いながら玄関から外へと進み始めた。


 わたしが扉の施錠をしている間に、ミュエルさんは都心部へ向かって少しだけ歩み始めている。


 鍵を掛けて振り返ると、置いて行かないように後ろを気にしてくれているあなたが見えた。



 ……綺麗。



 黄昏に濡れた花々とそれに囲まれた彼女を目にした刹那、それは突然やってきた。

 日常の中で必死に忘れようとしてた猛毒、その癖ずっと思考の端では気にし続けていたそれが。


 二週間前のあの日から今日まで、一度たりとも忘れきることができなかったそれ。


 メイドの後ろ、都心部へと続く林道のさらに奥で、灼熱の太陽がこちらを嘲笑っている。

 忌々しい闇がそこまで迫ってきているからだ。


 誰もいない屋敷が、街から離れたこの土地が、お前の居場所はここだけだと告げている。


 かつての仲間が人と関わることをもう許してはくれない。


 彼女の後ろ姿が途方もなく遠い。



 あなたはその日の職務を終わらすと、屋敷を後にする。

 そして明日の朝、あなたはまたここへやってくる。


 その繰り返しを理解しているのに、不安が消えない拭えない。


 もしかすると、その明日はもうやって来ないんじゃないか。

 成長した彼女は別の主人に雇われるんじゃないか。


 一度溢れた思考はもう抑えられない。

 波のように嵐のように精神が暴走している。


 ほんと最悪。


 頭の外へと無理に追いやっていた感情を思い出してしまう。

 思い出したくなんかないのに。


 充実した時間の後、やってくるのは虚無。


 ううん、違う。

 もっと酷いドロドロとしたもの。


 陽が落ちて夜がやってくると、わたしは孤独を実感する。

 他人から嫌悪されていたことを体が思い出してしまう。


 頭痛がする。

 眠れない。

 許してくれない。

 震える。


 あなたと過ごす時間が空っぽの器を満たすが故に、彼女の帰宅後一人を自覚したその瞬間に反動が刃となってわたしを襲う。

 どこまでも深く果てのない闇に溺れて、世界から必要とされていないのを体の芯で感じてしまう。


 わたしはずっと彼女と時間を共有していたい。

 それが自分を慰めるための依存だと理解はしているし、誰も許してくれないというのも十分分かっている。


 でも、わたしも救われたい。

 誰かに必要とされていたい。


 お願いします。

 わたしのわがままを聞いてください。


 体も唇も震えているのに、喉が訴えようとしている。

 だめなのに……だめなのに……。


 そして、堪えきれなくなった本能は言葉を紡いだ。



「ねぇ、みゅんみゅん。もう屋敷うちで住んじゃおうよ」



 給仕服の女はこちらを振り向く。

 驚いた顔で。


 朱色の光が彼女の背中を照らしている。

 煌めくあなたは、どうしていいか分からずに俯いた。


 ごめんなさい、気持ちの良くないことを口走ってしまって。

 ごめんなさい、あなたの気持ちを考えない女で。


 メイドは両手で下げている鞄から左手だけを放すと、綺麗な金色の前髪へと持っていき人差し指と親指で摘んだ。

 そうして出来た細い髪の束を弄りながら、顔を少しだけ上方向へと動かす。


 髪の隙間から見える美しい双眸は、確かにわたしを見据えていた。

 心臓を穿たれたと錯覚してしまうほど美麗な瞳だった。


 普段見ることのできない上目遣いに、鼓動は早くなる。

 そうか、あなたはこんなに可憐な人だったんだね。



「……うん」



 彼女のその言葉で、わたしの視界は弾けた。


 腰どころか、内臓が全て抜け落ちてしまいそう。


 今だけは、この一瞬だけは不安も絶望もわたしの世界に存在していない。


 あるのは、暖かい何か。

 質量で表すことのできない感情だけが存在していた。


 黒で塗りつぶされていた心に白が芽生える。


 腹の底に居座っていたドロドロの靄も、今だけはどこかへ消えていった。



「ありがとう、みゅんみゅん」



 どうか、どうかこの時間が永遠に続きますように。

 そう祈りを込めて、わたしはあなたの瞳に笑みを映してみた。

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