第六章 高原の賦

「さあ水穂さん、食事にしましょうね。今日はごま油も使わないで作ったから大丈夫。安心して。」

めい子さんは、そうやって、水穂さんにご飯を食べさせようとしていたところだった。水穂さんも、この頃はだいぶ彼女を信頼して、彼女の作ったご飯を食べてくれるようになってくれていたのだが、その日は、いつもと違って、布団に起きるということができなかった。

「起きれないんだったら、私がなんとかするわ。それなら、そういうことにして、対処すればいいんだわ。」

最近彼女もようやくこの言葉を覚えてくれたようだ。それは成長したということだろう。由紀子も彼女を手伝いながら、そう思っていた。

「めい子!めい子!」

どこからか彼女を呼んでいる声が聞こえる。

誰が来たのだろうか、と、由紀子は思ったが、すぐに声の主が誰なのか、わかってしまった。間違いなく、伊達さつきさんだ。伊達さつきさんに間違いない!

ぴしゃん!

と、ふすまが開いた。

「一体ここで何をしているの!」

めい子さんは、そう言われて、水穂さんに向けていた箸を落としてしまった。

「お、お母さん!」

めい子さんは、それだけ言って、後は何も言えないようである。

「すぐに帰りましょう。私は確かに、ここで預かってくれとはいいましたが、まさかこういう人の世話をさせるとは申しませんでした。今日限りで、娘を他のところへ移しますから。ありがとうございました。」

伊達さつきさんは事務的に言った。

「ちょっとまってください。」

由紀子は、急いで言った。

「こういう人って、あたしが、以前病院に行ったとき、あたしと水穂さんのことを助けてくれましたよね。それは、本当の気持ちではなかったんでしょうか?」

「ええ、あんなものは、あの病院を騙すための芝居よ。あの病院が、私の公約に従ってもらうための。公約のためなら、優しい事もするわ。でも、娘に対しては別問題。娘には、こういう汚い着物を着ている人に、触れさせたくありません。」

伊達さつきさんは、由紀子たちに言った。

「そうですか。そういうことは、たしかに愛情の様に見えますが、逆に先程もいいましたけど、成長するのを妨げになると思いますよ。勉強させればとか、そういうことで、若者が成長する時代は終わりました。昔の人のように、学校に行っていれば、ものすごい有名になれるかという時代では無いのです。」

と、ジョチさんが彼女にそう言うと、

「そうだよ。それに、お前さんは、ただ、自分の娘がそうやって新聞に載っちまって、自分の議員関係に悪影響が出るということで、娘さんを別のところに移したいんじゃ無いのか?それは、逆に悪影響になるんだと思うんだかな?」

と、杉ちゃんが、そう言うが、布団に横になっていた水穂さんが、

「でも、議員という職業上、そういうことは仕方ないのかもしれません。議員は、そうなってしまったら、おしまいですもの。逆を言えば、議員をしていることによって、めい子さんが生活できるということでもありますし。」

というので、由紀子はどうして水穂さんはそういうことを言うんだろうかと思ってしまった。やはり、水穂さんのような人は、こういう権力のある人に弱いのだろうか。

「とりあえず今日は、娘を連れて帰ります。娘を、あなた達のような、不幸な娘にさせたくありませんからね。さあ、めい子、帰りましょう。」

伊達さつきさんは、めい子さんを無理やり立たせた。何を言うんだろう、と杉ちゃんもジョチさんも呆れた顔をしていたが、

「他の施設にも、私が電話をして問い合わせて起きますわ。短い間でしたが、ありがとうございました。二度と、こんな汚らしい着物を着ているような人に会わせたくありません。」

と、伊達さつきさんは、めい子さんの手を引っ張って、そのまま外へ出て行ってしまった。そして、外に止めてあったピカピカの高級車に乗って、どんどん帰っていってしまう。由紀子は思わず待って!と言いたかったが、それよりも、自分の主張が覆されたということが、ショックで仕方なかったのだった。

「もう戻ってこないでしょうね。」

と、ジョチさんがつぶやく。

「ああ、ああいう権力者は、物質的には不自由しないんだが、それ以外のことは、ちょっと不自由なのかもな。芸能人の娘だってそうだろう。ほらあ、前に、有名な俳優の娘さんが、おかしくなった事、あったよな。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうですね。そして、当事者が死ぬしか解決法が無いという。」

水穂さんも小さな声で言った。由紀子は、どうかそれだけは、しないでほしいと思った。できれば、めい子さんに、そんなふうになってもらいたくないと思った。どこかで居場所を見つけて、そこで立ち直ってほしいと思った。

「まあ、そうなってもさ、きっと、国会議員だから、美談にしちまうだろうな。どんなに惨めなやり方で逝ったってさ、伊達さつきさんの娘さんだからといって、本当の死因は、公表されないと思うよ。それは、はっきりしている。」

杉ちゃんが、いつもと変わらない口調で言った。

「また引きこもりに戻ってしまうのも可哀想だけれど、でも、そうならなくちゃ、伊達さつきさんが国会議員をやれないんだよな。もしめい子さんがどこかでなにかしようとしたら、また新聞社が記事にしちまうだろう。それでまた、伊達さつきさんに傷がつく。日本の障害者とか、病人とは、そういうもんだよ。変わろうと思っても、飼われない。それが現実だ。一人の人間として、生きていくことは、できないんだ。」

「本当に、可哀想ね。彼女。彼女が個別の人間として生きていけないなんて、これほど不幸なことは無いんじゃないかしら。」

由紀子は、思わず言った。

「そこらへんは、欧米とは違うところなんでしょうね。自分の生活を自分でプロデュースできない人間がまだいるってこと。」

ジョチさんは、大きなため息をついた。

それから、数日間、たしかにめい子さんは姿を見せなかった。伊達さつきさんからも連絡はなかったし、その御蔭で出島めい子さんが、何をしているのか、という情報は全く入らなくなってしまった。もしかしたら、出島という姓は解消されてしまったかもしれない。お父さんのことを尊敬していると言ってたのに、お母さんが、それを不自由にさせてしまうのは、なんだかなんのために生まれてきたのかなとまで考えてしまいそうだ。

でも、由紀子は、どうしても彼女と連絡を取りたかった。彼女はどうしているんだろう。

「こんにちは、宅急便です。」

不意に、由紀子の家に宅急便の配達員がやってきた。

「はい、あの、どちらさまからでしょうか?」

と由紀子が聞くと、

「はい。ここには出島めい子さんと書いてありますね。」

と配達員は答えた。

「ここに、名字だけでいいから、サインをお願いできませんか?」

由紀子は、そう言われて、急いで指定された場所にサインをした。気ぜわしく帰っていく配達員を眺めながら、由紀子はめい子さんが何を送ってきたのだろうと、急いで箱を見た。包み紙の上に貼られた伝票を見ると、めい子さんの名前が確かにある。その脇には住所と、なんとスマートフォンの番号が書いてあるではないか!これはまさか、伊達さつきさんが番号を書いたとは思えない。由紀子は急いでその番号をメモした。包み紙を解いてみると、内容物は老子の本だった。何だ返さなくてもいいのにと由紀子は思いながら、急いでスマートフォンを取り、ショートメールメッセージアプリを開いてみる。そして、電話番号を打ち込んで、由紀子は、自分の名を打ち込み、メールを送ってみた。すると、すぐに返信があった。これはもしかしたら伊達さつきさんのものかと由紀子は緊張したが、そうではなかった。なんとメールの送り主は、めい子さんだったのだ。由紀子は、めい子さんに、どうして生活しているのかと送ってみると、何もしていないで、ただ、黙って家事を手伝っているという。障害年金などの請求などはしているかと由紀子が聞くと、世間体があるのでそういうことはできないとめい子さんはメールで答えた。そうか、やっぱりそんな惨めな生活をしているのか。それでは、本当に、可哀想だなと由紀子は思った。なんとかして彼女に居場所を作ってやりたい。彼女が、本当に心から楽しいと思える場所があれば、また、毎日が、楽しくなるのではないか、と、由紀子はそう思うのであった。

その数日後のことだった。

製鉄所に、箏曲家の花村義久さんが来訪した。最近は、邦楽を習いたい人も、減少していて、原因に、楽譜の購入ができないからだ、なんていう世間的な話を杉ちゃんたちとしていたのだが、水穂さんの世話をしていた由紀子は、花村さんが、こう話しているのを聞いてしまう。

「実は、今度演奏するメンバーさんが足りなくて困っているのですよ。まあ確かにある程度楽譜が読めるということは必要ですが、もうホント、誰でもいいですから、メンバーになってもらいたい。」

「そうかあ。邦楽も、人手不足で大変なんだねえ。」

杉ちゃんが相槌を打っていた。

「ええ。なんとかしないと行けないとは思っているのですが、何よりも、そうするためには人手が必要です。ホールを借りて演奏会するにも、人手が無いので、それもできません。」

花村さんが、そういうことを言っている。

「そうなんだねえ。じゃあ、演奏を挙行できたら、何を弾くつもりなんですか?」

杉ちゃんに聞かれて、花村さんは、

「そうですねえ。やれたら、高原の賦とか、そういうことをやってみればいいと思いますが、それは無理でしょうね。何よりも、人手が無いんですから。あんな難しい曲、少ない人数で、やらせることはできないですよ。」

と答えた。高原の賦。

由紀子は、これにかけてみてもいいのではないかと、いう気がした。

「花村先生。本当に、人手が必要なんでしょうか?」

由紀子は、花村さんに聞いてみた。

「ええ、もはや存続問題だと言われるくらい人が減ってしまいしてね。お琴教室はいくらでもあるとはいいますけど、でも、なにか売り物を作らないと、入門者も来ないでしょうからね。なにか手伝い人でもいればいいんですが、それも、無理なところもありますよね。」

花村さんは、そう返した。なるほど。花村さんであれば、そこら辺にいるお琴の先生とは偉い違いだ。その花村さんのお琴教室に通うということなら、変な記者が追っかけたりすることも無いと思う。それなら、花村さんのところに通わせて上げればいい。

「あの、一人お教室に入らせたい人がいるんですけどね。」

由紀子は勇気を出して花村さんに言った。

「どんな人ですか?」

と、花村さんは聞く。

「ええ、お母さんがとても高名な人で、家庭を顧みないで、ものだけ与えて、それで満足しろと押し付けているような家庭で育ったような人です。」

由紀子は正直に答えた。

「わかりました。どんなにわけありであれ、私達は、新しく来てくれるのであれば、受け入れます。そのくらい人がいなくて困っているのです。もし、その方のご了承が得られれば、連れてきていただきたいです。」

花村さんは、にこやかに笑った。そういうことを言うんだったら、よほど人がいなくて困っているのだろう。由紀子は、花村さんの話を聞いて、そう決断した。

その後、花村さんが帰ったあとで、由紀子は自宅に帰り、もう一度、スマートフォンを取り出した。そして、めい子さんの番号に、花村さんが新入部員を募集しているという内容をメールで送る。花村さんの電話番号も書いた。花村さんが、邦楽ではかなり名を知られているということも書いた。こうすれば、めい子さんは救える。彼女に新しい居場所ができる。めい子さんは、全文を既読してくれて、ありがとうとだけ返事を返した。由紀子は、めい子さんが、そのとおりにできるかは、かけてみるしかないと思ったが、でも、自分にできることはやったのだという気持ちでショートメールメッセージアプリを閉じた。

それから、数日後。由紀子は動画サイトをたまたま開くと、新しい動画が入ってきたと、お知らせが来た。投稿者は、花村義久となっている。由紀子がその動画を見ると、新人部員が入りましたというタイトルの動画で、一人の着物を着た女性が、花村さんにお琴の手ほどきを受けている様子が映し出されていた。顔を出しているのは花村さんだけで、相手の女性は、モザイクが掛かっていたが、由紀子は間違いなく、彼女、出島めい子さんだということを感づいた。ああ良かったと思う。それで、花村さんのもとへ定期的に通うことができれば、新しい居場所も見つかる、これで良かった。と、由紀子は思った。

確かに、出島めい子さんは、花村先生の家に通っていた。花村さんの家は、本当に箏曲家の家であるのか、と思われるほど小さな家だった。なんだか、こんなに質素な家で、いいのかなと思われるほど、小さな家。そこで、お琴の教室があるなんて、ちょっとびっくりされるほどでもある。表札も無いし、お琴教室と描かれている看板もない。

「ありがとうございました。」

と、めい子さんは、花村さんに軽く一礼をして、花村邸の玄関を出た。このときは、どうしても一人で通いたいと、お母さんに訴えて、一人で通わせてもらっている。お母さんの伊達さつきさんは、身分がバレないように、護衛を付けさせると言って聞かなかったけれど、めい子さんは、護衛を断ってしまった。文字通り、むき出しの状態で、帰っていくのだった。

花村さんの家を出て、めい子さんは花村さんにもらった、お琴教室のテキストを眺めながら、バス停に向かって歩いていくと、一台のセダンが彼女のそばを通りかかった。セダンは、近くの駐車場に止まった。そして、一人の男性が、セダンから降りてきた。

「あの、伊達めい子さんですね。」

めい子さんは、また声をかけられて、急いで逃げようと思ったが、足がもつれて転んでしまった。急いで立ち上がろうとすると、

「いえ、何も悪いことはしませんよ。」

とその男性、つまり衣笠正は、絆創膏を渡しながら言った。

「ただ、あなたが、今何をしているのか知りたいだけですよ。今どちらかお教室に通われているんですか?それとも、どこか施設ですか?」

「あたしのことを、そんなに記事にしてしまいたいと思っているんですか?」

めい子さんは怖がりながら、そう言うと、

「いやあね、あなたを記事にすることで、少なくとも、救われる人がいるかも知れないじゃないですか。もしかしたら、あなたのことを他山の石として、同じ失敗をしないように努力する人が出るかもしれないでしょ。記事を書くとは、そういうことなんですよ。単に知識を得たいだとか、そういうだけのことじゃありません。僕達がしていることを、あなたのお母さんをはじめとして、偉い方は、みんな悪者のようにいいますが、僕達は、そういうつもりで記事を書いているんじゃないんですよね。それを踏まえた上で、あなたも協力してくれませんかね?」

衣笠は、意味深そうにそういったのだった。めい子さんは、彼の言葉を、どれだけ信じていいかどうか、迷ってしまった。なんでも、この男に描かれてしまったら、母は激怒するだろうなと思う。でも、今の言葉を聞くと、むしろ、それを逆手に取ってしまったほうが、いいかもしれないと思う。そうして、自分のことを記事にしてくれれば、自分がにっちもさっちも行けない状態であることもわかってもらえるかもしれない。

「ちょっと、お話聞かせてくれませんかね。今、どちらかお教室に通われてますよね。どこのお教室なんですか?何を習っているのですか?」

衣笠は、記者らしくメモとペンを出した。また、このペンにはレコーダーが入っているのだろうか。

「ええ、今は、お琴の花村先生のところにいます。」

めい子さんは正直に答えた。

「花村というと、どちらの方なんですかね?」

衣笠がまた聞くと、

「はい。あの、山田流箏曲ではかなり名が知られている方です。もしよろしければ、お調べいただくといいと思います。」

と、めい子さんは答えた。

「今はまだ、お琴を始めたばかりで、まだなんの曲も弾けないんですけど、花村先生は、私に、高原の賦という曲を教えたいと言っていました。私、できないこともたくさんあると思いますが、それでもいいですから、花村先生と一緒に、邦楽が普及するのを手伝っていきたいと思います。」

「はあそうですか。それは、誰が仕掛けたんですか?誰かに紹介してもらったんでしょう?お琴教室は。」

衣笠はまた聞いた。

「いいえ、私が、一人で見つけました。それは間違いじゃありません。」

めい子さんはしっかりといった。

「なるほど。それで、お母様の方から反対はされなかったんですか?お母様のことですから、あなたがそういう物をやりたいと言うのなら、非常に反対したのではないですか?」

衣笠は、記者らしくそうしつこく言った。

「ええ、たしかに、嫌がってました。でも、私は私ですもの。母が議員をしているからと言って、私の人生まで犠牲にしていいとは思わないです。いくら私が、体調を崩して働けないと言っても、私の人生を作ってもいいと思ったんです。」

めい子さんは、一生懸命そう答えた。確かにたじろいでいるようであるが、でも、こういう言葉を出している。そういうことを言うようになって、たしかにめい子さんは変わり出していると言えるかもしれない。

「あの、衣笠さんでしたよね。」

めい子さんは、頭の中を振り絞って、そういった。

「私の事を記事にするんだったら、そして誰かに私が失敗したことで、何かを学んでほしいというのであれば、私は、たしかに、こうやって、記者さんに声をかけられることはこれからもあるとは思うけど、決して不幸な人間ではないと、記事のどこかに入れてもらえませんか?」

衣笠は、めい子さんがそういうとは、思っていなかったようだ。ちょっと驚いたような顔をしていたけど、

「わかりました。じゃあ、そうさせていただきます。」

と、言った。彼の中でも、なにかが変わったのかもしれない。表情から見て、そういうことがわかる顔をしていた。



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