第五章 きっとやり直せる
最近暖かい日が続いてくれたと思ったら、また寒い日が続いてしまうようになってしまった。まあ春というのは、そういう気まぐれな季節でもある。桜が咲くのはいいが、それ以外にも重大な弊害があることもある。
その日は、由紀子と、出島めい子さんが、二人で製鉄所を訪れた。なんでも、めい子さんのもとに、注文した着物がやってきたので、着てみたいというのであった。
「はあ、これで5000円切るとは、リサイクル市場も大したものですね。」
ジョチさんが、驚くほど、着物は立派だった。ほつれたところも無いし、ひどく汚れがあるわけでもない。
「じゃあ、まず、長襦袢をだな、着てみてくれや。」
杉ちゃんにそう言われて、めい子さんは、隣の部屋へ行き、急いで、長襦袢を着用した。長襦袢は、紐が着いていたから、ガウンと同じ原理で着用できるようになっている。
「じゃあ、着物を着て見るんだな。ちょっと着物を羽織ってみてくれ。」
と、杉ちゃんに言われて、めい子さんは、着物を羽織った。
「よし、それで、まず下前を持ち上げて、足首のところで止める。そして、上前を持ち上げて下前を隠すように覆う。」
杉ちゃんの指示を由紀子は、通訳するようなつもりでいた。下前とはこのことだとか、由紀子は、めい子さんに指示を出した。
「はい、そして、上前と下前を抑えながら、腰の一番細いところに紐をかけて、体に一周巻き付けて、腰のところで蝶結びにする。」
杉ちゃんに言われて、めい子さんはそのとおりにした。
「はい。そして、紐より上のところを取り出して、お端折りを作る。ちょうど、ダブダブになるようにしてみて。」
「はい。」
めい子さんは、なかなか難しいという顔をしながら、杉ちゃんに言った。
「はい。それでは、アンダーバストのところに、胸紐をつけて体に一周回して、胸のすぐ下で、蝶結びにする。」
「わかりました。」
と、めい子さんは、急いでそのとおりにした。
「その腰紐と胸紐は、着物を着るときの大事な要だからね。着崩れしないように、しっかり結んでね。」
杉ちゃんがそう言うと、めい子さんはハイと言った。
「それで胸紐ができたら、伊達巻を、胸紐の上に、重ねてつけてみて。あの、いたが入っているところを、前にして、リボンの部分をうしろへ回し、一周回して、そして前で蝶結びにする。」
めい子さんは、伊達巻を渡されて、
「わかりました。」
とそのとおりにした。伊達巻とは、食べ物のことではなく、着物を着るときの部品のことである。
「よし。それからじゃあ、帯をつけるよ。今回は文庫の作り帯だな。よし、それでは、どうに巻く部分を、伊達巻の上に巻いて、紐をアンダーバストの下で結ぶ。」
杉ちゃんに言われて、めい子さんは、そのとおりにした。
「そして、背中の部分の金具を、どうに巻く部分の背中に差し込む。そして、紐を前へ持ってきて、紐をアンダーバストの下で結ぶ。」
「はい。」
めい子さんは、そのとおりにしていると、由紀子は、
「だんだん完成に近づいてきてるわね。」
と、にこやかに笑った。
「よし、じゃあ、後は帯揚げを結ぼうね。紐を隠すために、帯揚げを帯の上の方につけて、一周回し、前で細結びにする。そして、最後は帯締め。丸組だから、一度結んだあと、もう一回結べば、完成だ。」
めい子さんは、ちょっとぎこちないが、それでも一生懸命、帯締めと帯揚げをつけた。
「よし。完成だ。ちょっと鏡を見てくれや。すごく可愛いよ。」
由紀子が、近くにあった、姿見鏡を持ってきた。それに映った自分の着物姿を見て、めい子さんは、
「わあ、自分じゃないみたい。」
と、思わず言った。
「だろ?もし、お端折り作るのが難しいんだったら、お端折りは縫ってあげるから、なんぼでもいいな。」
杉ちゃんに言われて、めい子さんは、思わず涙を流す。
「何だ。なく必要は無いと思うんだが?」
と、杉ちゃんが言うと
「驚きました。私が、こんな美しくなれるんなんて。着物って不思議ですね。そうやって、私のような人も、別人にしちゃうんだから。私、信じられません。私が、着物を着るなんて。おはしょりは、縫う必要はありませんよ。このままちゃんとした着方を覚えたいですもの。やっぱりちゃんと着こなせたほうがいいし。」
めい子さんは、涙ながらに言った。
「そうですか。あなた、初めて、自分の意思を示しましたね。着物をちゃんとした着方を覚えたいなんて。」
と、ジョチさんが言った。
「今までありませんでしたでしょうに。そうやって、自分の意思を僕達に、示してくれたことは。」
「そうですか?私、いけないことをしてしまったんでしょうか?」
と、めい子さんは言った。
「いけないことではありませんよ。むしろ、自己主張ができるということは、とても素敵なことですし、やっと過去から開放された事でもあるんじゃないのかな。あなた、とても自己主張なんかできなかったでしょう。あの、強大な権力のあるお母さんの前で。」
ジョチさんが、そう言うと、由紀子も杉ちゃんもなるほどなあという顔をした。
「そうだねえ。赤ちゃんでも、うるさく泣き叫ぶくらいの赤ちゃんの方が健康的だって言うし。自己主張ができるということは、大事だよ。」
杉ちゃんがジョチさんの話に付け加えた。
「きっと、お母さんがあまりに忙しすぎて、自分のことをこうしてくれ!なんていう暇もなかったのではないかな。あるいはそういう事したくても、薬を飲まされて、やめさせられちゃうとか。」
「ええ、そうかも知れません。私も、黙っていれば、何も起きないって、学習しましたし。でも、本当は、行けないんでしょう。それでは?」
と、めい子さんが言った。
「そうですね。黙っていれば大丈夫というのは、日本人の一番悪いところですよ。特に権力に対して嫌々ながら従うというのは、美しいようで実は嬉しいことではありません。日本人がうつ病になりやすいのがその証拠です。本当は、自分はこうなんですと、相手に向かって主張しなければなりませんね。」
と、ジョチさんが、すぐに言った。
「だからお前さんも、着物という、自分を変えられる手段を得たんだから、これからはちゃんと、お母ちゃんに向かって、こうしたいって言うんだよ!それじゃあ、新しい自分になれた記念だ。ちょっと、着物を着て、由紀子さんと、カフェにでも言ってきたらどうだ?」
杉ちゃんは、でかい声で言った。
「でも、まだ初めてなので。」
めい子さんがそう言うと、
「いやあ、人生やり直すには、早いほうがいいよ、バラ公園でも行ってきたらどうだ?行って来いや。」
と、杉ちゃんが言ったので、由紀子も、行きましょ、と彼女を誘った。由紀子さんにまで言われたらと彼女は考えたようで、
「わかりました。行きます。」
と、にこやかに笑って言った。
「じゃあ行きましょう。ちょうど、今なら、桜が咲き始めるんじゃないかしら。」
由紀子は、そう言って、めい子さんと一緒に、外へ出た。めい子さんを車に乗せて、バラ公園に行く。そして、駐車場に車を止めて、バラ公園の敷地内を歩いた。確かに、桜は少し咲き始めていた。でも、まだ、満開にはなっておらず、大木に一つか2つ、花が咲いている程度だった。
「まだ早かったわねえ。桜が咲くには。」
と、由紀子は、バラ公園を歩きながら、めい子さんに言った。めい子さんは、履きなれない草履で一生懸命歩いているが、ちょっと大変そうであった。でも、楽しそうであった。
「本当ですね。由紀子さん。まだ、桜には早かったかな。」
そういうめい子さんを由紀子は、嬉しそうな顔で見た。
「めい子さんかわいいわよ。着物がよく似合うわ。あたしも、もうちょっと丸い顔をしてれば、そういう着物が似合う人間になれたかもしれないわねえ。」
由紀子は、お世辞ではなくて、本気でめい子さんにそういった。それは、めい子さんを敵視しているわけではなくて、本当に褒めているのだった。
「着物を着て、めい子さんも強くなれるといいわねえ。」
と、由紀子は、にこやかに言った。めい子さんは、ちょっと歩くのは不自由そうだが、にこやかな顔をして、
「ええ。私も、着物を着て、こんなに変われるとは思わなかったわ。そんなことが、起きるなんて、考えても見なかった。」
と言った。
「ええ、良いのよ。もっと明るくなって。そして、気を楽にして、暮らせるようになると良いわね。」
由紀子は、めい子さんに言った。
二人が、バラ公園の桜並木を歩いているとき、向こうから、一人の若い男性がやってきた。あのときの衣笠正だ。
「これはこれはおはようございます。かわいいお嬢さん、ではなくて、伊達めい子さん。」
衣笠は、また、記者らしく、二人に声をかけた。由紀子も、彼のことは、めい子さんから聞かされていたので、なんとなくわかった。
「本日は着物を着てお出かけですか?なにか、嬉しいことでもありましたかね?」
と、衣笠が聞くと、
「はい。嬉しいことです。今日初めて、着物デビューしました。着物は嬉しい道具ですね。500円で一枚買えるし、全部買っても、5000円切るんですもの。着物はなんでこんなにやすいのか、びっくりしてしまいましたよ。」
と、めい子さんはにこやかに言った。
「そうですね。確かに、着物は需要が無いですからなあ。それでとんでもないやすさで買うことができると聞いたことがありました。」
と、衣笠は言った。
「ええ、そうかも知れません。でも、こんなに自分が変われるなんて、思いもしませんでした。」
と、めい子さんが言うと、
「そうですか。では、どういうふうに、変わったのか、めい子さん、そのことを、話していただけませんでしょうか?」
と、衣笠は、急いで言った。
「はい。あたしは、高校を出てから、ずっと体調を崩して、それで家にずっと引きこもりだったんです。鏡を見るたびに、食べるだけで無にもしない私がいるのは、本当に嫌だなと思いました。でも、着物を着てみたら、そんな容姿をしていた私が、こんなに変わってしまうとは思いませんでした。私は、幸せです。引きこもりであっても、こうやって、着物を着ることで、可愛らしくなれる。それは、嬉しいことです。だから、私は、着物を着続けて行きたいです。」
と、めい子さんは言った。由紀子は、ちょっと心配になった。
「それで、将来の夢とか、何か欲しいものはありますか?」
と、衣笠が聞くと、
「はい。この着物を着て、自分が変わることができた喜びを他の人にも教えてあげたいです。リサイクルで、すごく安い値段で入手できるのも嬉しいですね。ほんと、この業界に入ることができて嬉しいです。」
と、めい子さんは、にこやかに答えた。衣笠のペンはレコーダーになっていて、めい子さんの発言も、全て録音されているのは、めい子さんは、気が付かなかった。
「そうですか。ありがとうございます。めい子さん、自分が進む道を見つけることができて、良かったですね。それで、また第一歩が踏み出せることを祈っています。」
と、衣笠は、にこやかに笑って、軽く一礼した。
「じゃあ、僕は取材がありますので。」
と、衣笠は、頭を下げて、その場から走ってどこかに行ってしまった。あの人は大丈夫?と由紀子は、めい子さんに聞くと、
「水穂さんが倒れたとき、病院から製鉄所まで送ってくださったのよ。だから悪い人では無いと思うわ。」
とめい子さんは答えた。そういうお人好しすぎるところは、ちょっと改善したほうが良いのではないかと由紀子は思ったが、それは、めい子さんには言わないほうが良いのかなと思って、言わないで置いた。二人は、まだ咲いていない桜並木を歩いて、製鉄所に帰ってきた。帰ってくると、ちょうど、杉ちゃんたちは、お昼の支度をしていたので、由紀子とめい子さんは、お昼ごはんを食べた。その後は、由紀子とめい子さんと一緒に、水穂さんの世話を続けた。何しろ水穂さんは、薬が切れたりとか、食品で悪いものがあったりすると、咳き込んでしまう。それをなんとかして薬を飲ませて止めることが必要だった。それは自分ではできないから、人の力が必要だ。他にもしなければならない世話はある。体を拭いてやること、寝間着を取り替えること、そして憚りへ連れて行くことも。めい子さんも由紀子も、それをすることが、生きがいのようになっていた。
その日は、そういうことをやって、夕方まで製鉄所にいた。その日の夕日が出始めた頃、
「こんばんは。夕刊です!」
と、新聞配達が、夕刊を製鉄所へ持ってきた。ジョチさんがそれを受け取って、夕刊を広げてみると、まあ、トップ記事はいつもどおりの、政治家とかそういう人のニュースとか、外国で紛争が起きているとか、そういうニュースが飾ってあったが、新聞の片隅に、「出ぬ出ぬ出島再び」という見出しが描かれていたので、ジョチさんは大いに驚いた。
「どうしたの?石みたいに固まっちゃって。」
と、杉ちゃんが、やってきて、ジョチさんに聞いた。
「ええ、これは、紛れもなく、彼女、出島めい子さんのことですよね?」
ジョチさんは、見出しを急いで指さした。
「僕読めない。読んで。」
と杉ちゃんが言うと、
「はい。大体こんなことが書いてあります。大物議員立候補者の娘が、現在引きこもりになって、それが、着物を着ることによって、立ち直るきっかけができたとかたったということですね。」
とジョチさんは、急いでいった。
「そうか。そこに出島めい子さんという名前と、伊達さつきさんの名はかいてあるのかな?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ。そう書いてありますね。まあ、実名ではありませんが、出島という名前で、すぐに分かってしまうのではないかと。いずれにしても、伊達さつきさんが、どういう反応をしてくるか、が心配です。それのせいで、せっかく、新しい分野にめい子さんが手を出したのに、彼女の成長の芽を奪ってしまうのではないでしょうか。」
と、ジョチさんは杉ちゃんに言った。
「まあいずれにしろ、伊達さつきさんが、どう動いてくるのかが見ものだな。」
と、杉ちゃんが、頭をかじると、
「私になにか、言うことでもありましたか!」
という声が聞こえてきて、製鉄所の玄関扉がガラッと開いた。そして、また、この間の黄色いスーツを着た伊達さつきさんが、製鉄所の中にやってきたのが見えた。
「あの、こちらに、出島めい子という女性がいますよね。私、母親です。すぐに彼女をこちらへ寄こしてくれませんか。」
と、伊達さつきさんは、つっけどんに言った。
「ええ、いますけど、なぜ、彼女が出島という姓を名乗っているんですかね?それでなぜ、あなたが、伊達の姓で立候補をしたんですか?」
こういうときに、対等に話せるのは、ジョチさんだけであった。
「ええ。あの子が、言うことを聞かなくて、伊達の姓に戻ることを嫌がったからです。」
と、伊達さつきさんは答えた。
「それでは、なぜ、めい子さんは、伊達と名乗ることを、嫌がったんですか?」
ジョチさんが聞くと、
「ええ。お父さんが大好きな子で、私が追い出したら、追いかけていくっていい出したから、そうしたんです。」
「はあ。めい子さんのお父さんは何をされていたんですかね?なにか別の事業をしていたんだね?国会議員ではなかったでしょう?そもそもなぜ、大物議員と言われたあなたが、そんな男性と結婚して、珍しい姓になったんですか?」
と、杉ちゃんが、いきなりそういった。
「離婚したのはあの子のためなんです。あの出島とかいう男は、他人のための仕事ばかりで私達のことは放置したままでした。教育関係の事業をしていましたけど、他人の子のことばかり考えてて。私達のことは、何もしないで。」
伊達さんは即答した。
「はあ、それで、お前さんは、そいつが隆盛するような世の中にしないように、立候補したのか?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「それは、めい子さんのためには、ならないと思いますけどね。逆に、好きだったお父さんを勝手に追い出したということで、更に傷つくと思いますが?」
と、ジョチさんが言った。
「そうかも知れませんが、私は、そうするしかありません。離婚したのもあの子のためですし、あの子には、ちゃんと私がいるからってところを見せてやりたかったのに。ここへ預けたのも、私が決めたことですわ。それなのになぜ、あなた達は、こんな記事を書く人間に引き渡したんですか!」
「そんな事知らんわ。記者が勝手に取材していっただけだよ。」
杉ちゃんは言った。
「まあ、かいつまんで話せば、バラ公園に散歩に行ったとき、記者が出てきて、めい子さんのことを取材していったんだ。僕達が、引き渡したわけじゃない。それに、かえっていいことかもしれないぞ。そうやって、新聞にのせてもらったんだから。それでは、めい子さんだって立ち直るきっかけになるかもしれないよ。」
「何を仰っているんです!あなた気は確かですか?あなた、どういうことをしているかおわかりですか?ああいう悪質な記者に、心が病んでいる娘を取材させるなんて、娘の負担は、本当に増大したのでは?」
伊達さつきさんは、早口に言った。
「うーんでもねえ。それは。しょうがないんじゃないの。大事なことはね。それよりも、出島めい子さんが、この世界でどうやって生きていくかじゃないのかな。お前さんが、いくら危険から彼女を回避させようとしても、無理な話だからさあ。それは、違うと思うよ。」
と、杉ちゃんが急いでいうと、
「伊達さん。それは、娘さんのためではなく、自分のためにしているんじゃないでしょうか。あなた、大物議員であるからゆえ、娘さんが新聞に載った、しかも悪い意味でとなれば、大変な大事でしょう。それを、なんとか消してもらいたくて、僕達のところに来た。違いますか?」
とジョチさんも杉ちゃんに加担した。伊達さつきさんは、
「そんな事ありません!私は、当たり前のことをしているだけです。めい子をとにかく返してもらえませんか。」
とすぐに言った。
「残念ながら、めい子さんはいま水穂さんの世話をしています。ちょっと仕事が終わるのを待ってやったほうが良いです。」
と杉ちゃんが言うと、伊達さつきさんは、入らせてもらいますと言って、段差のない玄関から中に入っていった。
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