第二章 不思議な女
その数日間は、成松医院でしてもらった治療が功を奏したのか、水穂さんは、多少咳き込んだ事もあったが、派手に内容物を出すことはなかった。もう肺がどうのとか、あのときの医者は言っていたけど、そのようなことは無いのではないかと思われるほどだった。
その日は、雨が降って、なんだか寒いなあと思われるその日。製鉄所へ一本の電話がかかってきた。とりあえず、製鉄所の管理人をしているジョチさんが電話に出た。
「あの失礼ですが、そちらでは、精神障害のある方を収容してくださるんでしょうか?」
えらく形式的な声だった。
「預かるというか、自主的に通所してもらっています。あくまで、隔離させるようなところでは、ありませんので。」
ジョチさんがそう答えると、
「では、一人預かって欲しい人がいるのですが、教えていただけますかね。それがわからないと、なんとも言えませんね。」
ジョチさんがそう言うと、
「ええ、名前は出島めい子。年齢は、26歳です。私は、出島家の家政婦です。」
女性は、早口に言った。
「出島めい子。どうして彼女が、こちらを知ったんでしょうか。よろしければ、その経緯を教えていただけませんでしょうかね。」
ジョチさんがそう言うと、
「はい、昼間、彼女がひとりになると、ちょっと可哀想なところがありますから、そちらで誰かと一緒にいたほうが、いいと思ったんです。」
と、返事が来た。
「そうですか。それでは、本人が本当にその意志があるかどうか、本人の気持ちを聞かせてもらえませんか?」
ジョチさんがそう言うと、
「はい。本人も行く気になっていますから、それは大丈夫です。」
と、女性は言った。
「でもですね、騙して連れて行くとか、そういうことはしないでもらいたいんですよ。それに、利用するといえば、いつからこちらへ来る予定ですか?」
ジョチさんがそう言うと、
「はい、これからすぐにいけます。」
と、女性は答える。
「はあ、随分お早いですね。」
と、ジョチさんが言うと、
「そちらが許可してくだされば、今から行くこともできますが?」
と女性は高らかに言った。まるで、その瞬間を待っていたかのように。
「そうですか。それなら、とりあえず、面接だけしましょうか?」
ジョチさんがそう言うと、彼女は、
「わかりました。ありがとうございます。」
と言って、すぐ電話を切った。ジョチさんは、プープーと鳴っている電話の音を聞きながら、一体何をしているのかなと思いながら、電話の受話器を置いた。
数分後。出島めい子という女性は、昼過ぎにやってきた。先程電話を寄こした家政婦さんと一緒だった。もともとこういうところを利用するのなら、保護者が着いてくるはずなんだが、家政婦さんと一緒というのが意外だった。ジョチさんは、新人会員の様子を観察した。白いワンピースに、黒っぽい、カーディガンのような物を羽織っている。なんだかとても疲れているような顔をしていて、多分きっと感受性が強すぎて、困ってしまうくらい感じてしまうんだろうなと思われる感じの女性だった。
「出島めい子さんですね。ご家族はいらっしゃいますか?」
ジョチさんは、とりあえずはじめましてとご挨拶して、そう聞いた。
「はい、家族は、母が一人。」
と、彼女は答えた。ちょっとばかり呂律が回っていないところがあったので、多分、シンナーとかシャブとか、そういう物をやっているのかと思われた。
「あの、失礼ですが、お母さまにも来ていただけないでしょうかね。あなたのようなワケアリの方ですと、できるだけご家族にもお話を伺いたいんですよ。どういう毛色で、薬物に走るようになったとか、ちゃんと聞きたいんですけどね。」
ジョチさんは、彼女を眺めながらそういった。
「失礼ですが、それはしなければいけないことなんでしょうか?」
と、家政婦の女性が偉そうに言った。
「そうやって、細かいことまで聞き出すよりも、利用しているのですから、いいのではありませんか?」
「はいそうですが、他の利用者さんとの兼ね合いもありますし、できるだけ事情を詳しく知っておきたいと思うんですよ。もし、なにかトラブルがあったら困りますからね。」
ジョチさんは理由をしっかり話した。
「そういうわけですから、本当は家政婦さんではなくて、お母様に話を伺いたいんです。」
「私のほうが、彼女のことは、よく知っています。お母様は、私に何よりも信頼を置いていますから。」
そういう家政婦さんに、ジョチさんは、こう聞いた。
「では、本人でも家政婦さんでも、いずれも構いませんから、出島めい子さんのこれまでの経緯を話してください。」
そう言うと、家政婦さんがいかにも事務的に話し始めた。なんでも、高校を出てから徐々に体調を崩して、大学も退学し、家に引きこもるようになったという。シンナーは、インターネット通販で入手したらしい。家政婦さんは、それ以外の薬物には手を出していないと言うが、それは信憑性は乏しかった。もしかしたら、インターネットで覚醒剤など入手したかもしれなかった。
「それで、どうしてこの施設を知ったんですか?」
と、ジョチさんが言うと、
「はい。私が、インターネットで調べて知りました。よく、ブログなどに、こちらのことがのせてありましたから。」
と、家政婦さんは答えた。
「ああそういうことはよくありますが、あなた、出島という珍しい名字であるから、あまり同姓同名とも言えませんよね。あなたのお母さんは、伊達さつきさんではありませんか?」
ジョチさんがそういうと、彼女は、
「はい。そうです。」
と、彼女、出島めい子さんは答えた。
「伊達さつきさんの娘さんで間違いありませんね。」
ジョチさんがもう一回そう言うと、
「はい。間違いはございません。」
と、めい子さんは答えた。
「それではなぜ、伊達さつきさんとは、違う姓を名乗っているのですか?」
と、ジョチさんが聞くと、
「ちょっとわけがありまして。母が活動するのに邪魔かと思いまして。」
めい子さんはそれだけ答える。
「現在どちらか仕事していますか?」
ジョチさんが聞くと、彼女は小さい声でいいえと答えた。
「それでは、一日中家で、何をしているのでしょう?」
「はい。テレビ見たり、ユーチューブ見たり。」
そういうことか。家でゴロゴロしているしかしていないのか。
「なにか、興味があることとか、好きなことはありますか?」
ジョチさんが聞くと、彼女は、ありませんと答えた。
「そんなもの持っちゃいけないと言ったのは、みなさんじゃないですか。勉強以外しないで、なにかすれば取り上げて、自分の好きなことは、何もしてはいけないと言っておきながら、いざ、私が、何をしたらいいのかわからないと言ったら、やりたいことは自分で探しなさいなんて、虫が良すぎますよ。私は、本当に自分じゃなかったんだ。親に、そう言われて、私は、怒りでいっぱいです。でも、そんな事したら、母が困るから、何もしないんです。」
「わかりました。」
ジョチさんはとりあえずそういった。どんな経緯があって、この製鉄所を訪れたのか理由は知らないが、その理由を否定してはいけないということは知っている。それがどんなに、不条理な理由だったり、馬鹿げた理由であってもだ。どんなことであれ、利用者たちは、ここで真剣に悩んでいるのだから。
「じゃあ、利用するのは、何曜日とか、そういう希望はありますか?」
「ええ、できれば、お母様も仕事で忙しいので、毎日午前中だけでも利用させてもらいませんか。」
と、家政婦さんは言った。
「はい。わかりました。幸い、空きはありますので、利用していただいても構いませんよ。ただ、先代から言われていたルールですが、ここを終の棲家にしないこと。つまり、最後の居場所にはしないでください。必ず、次の場所へ出ていってもらう。それが条件です。」
ジョチさんは、これだけはいいたいと言う顔で言った。
「よろしくおねがいします。」
と、家政婦さんも彼女も、お願いした。
「わかりました。」
ジョチさんはそう言って、会員名簿と書かれた紙に、出島めい子さんと書き込んだ。
「じゃあ、今日から早速利用させていただきましょうか。私は、家の仕事がありますので、また、時間が来たら、迎えに来ますから。よろしくおねがいします。」
家政婦さんは、時間が来たと言うような顔で、急いで帰ってしまった。彼女、出島めい子さんを残して。
「じゃあ、出島さん。施設の内部を紹介しますから、ちょっと来てくれますか?」
と、ジョチさんは、彼女を立たせて、ここが食堂、ここが中庭などと製鉄所の施設を紹介した。
「こちらが食堂です。ここで勉強している人もいますが、皆がそれぞれ持ってきたお弁当などを食べたりすることもありますし、作る人もいます。」
と、ジョチさんが説明する。食堂の中には、杉ちゃんがいて、何人かの利用者がいた。利用者たちは、なにか杉ちゃんと話していた。多分仕事の話とか、学校の話とか、そういうことだろうが、そのうちに一人の利用者がカバンを出して、
「ねえ杉ちゃん、お願いなんだけど。」
と、言った。
「はあ、一体どうしたの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ねえ、作り帯作ってよ。この帯で、お太鼓作れない?」
と、彼女は、カバンから、一本の袋帯を取り出した。
「そうだねえ。これは袋帯だから、一重太鼓は作れないな、名古屋帯か、袋名古屋帯でないと。」
と、杉ちゃんが、そう答えている。彼女、出島めい子さんは、ジョチさんに、
「あの、帯って、着物の帯ですか?」
と聞いた。
「あの人、帯を作る職人さんですか?なんで、こんなところに、職人さんがいるのか、聞いてみてくれませんか?」
「ええいいですよ。ですが、直接杉ちゃんにお尋ねになったらいかがです?人に聞くと、帰ってうまく伝わらない事もありますし。」
と、ジョチさんはできるだけ優しく答えると、彼女は、ちょっと嫌そうな顔をした。
「やってみてはいかがですか?」
もう一回言うが、彼女は、そういうことは、できないようである。
「でも、直接聞くのは怖いですし。」
と、言う、出島めい子さん。
「何も怖いことはありませんけどね。」
と、ジョチさんが言うと、向こうから、人が歩いてくる音がした。誰だろうと思ったら、水穂さんだった。
「どうしたんですか。まだ、食事には早いですし。眠っていればいいと思いますが。」
と、ジョチさんがそう言うと、
「いえ、新しい会員さんが入られたようですね。せめてご挨拶でもしなければと思いまして。」
と、水穂さんは言った。
「随分きれいなひと。まるで、ショパンの肖像みたい。」
出島めい子さんは、思わず呟いた。
「そんな事ありません。はじめまして、僕は、磯野水穂と申します。よろしくおねがいします。」
と、彼女の前に頭を下げて言う水穂さん。出島めい子さんは、いきなり挨拶されて、
「ああ、す、すみません。」
としか言えなかった。
「いえ、謝らなくて構いませんよ。新人会員さん。お名前はなんですか?」
と、水穂さんが聞くと、
「はい。私は、出島めい子です。」
めい子さんが答える。
「よろしくおねがいします。磯野水穂です。」
と、水穂さんはにこやかに笑った。
「ええ。よろしくおねがいします。」
めい子さんはとりあえずそう言ったが、何故か水穂さんの態度に驚いていたようだ。
「どうしたんですか?ご挨拶されただけで、なにか驚いているようですけど?」
とジョチさんが言うと、
「いえ、ただ、名前を名乗ってくれるのが素敵だと思いまして。ごめんなさい、驚いたんです。だって、私に、名前を名乗ってくれる人はいなかったのよ。」
めい子さんはうろたえているようだ。
「はあ、それはどういうことですかね?
ジョチさんがまた聞くと、
「ええ。私は、人に名前を名乗ってもらうことはなかったんです。みんな母が私を紹介して、紹介された人は、まず母に自己紹介して、そしてから私に、挨拶をするんです。」
と、めい子さんは答えた。
「そうですか。それでは、水穂さんの直接ご挨拶をされたのに、そんなに驚きだったんですか?」
ジョチさんが言うと、めい子さんは黙ってうなずいた。
「珍しいですね。」
「理事長さん、そんなことは言ってはいけませんよ。彼女は少なくとも、それで悩んでいたんでしょうから。あんまりそれについて甲乙つけてしまうことはいけないのではないでしょうか。」
水穂さんがそういうのを見て、めい子さんの顔に涙が出た。
「泣いてはいけません。それより、帯のことで聞きたいことがあったのでは。すぐに聞いてみてはいかがですか?」
「は、はい。」
めい子さんは、すぐに正気に返って、食堂の椅子に座っている杉ちゃんたちの方へ言った。杉ちゃんたちは、なぜ袋帯で一重太鼓が作れないか、理由を話している。
「だからなあ。一重太鼓というものは袋帯では作れないんだ。しかもこれ、全通じゃないか。それじゃあ余計にお太鼓にするにはもったいないよ。それよりも、文庫とかさ、立矢とかそういうものにするといいよ。」
杉ちゃんがそこまで話したのと同時に、
「あの、すみません。」
と、めい子さんは、そう聞いた。杉ちゃんは、まだ入ったばかりの新人会員の顔を見て、
「お前さんは何者だ?」
と聞いた。
「はい、私は、きょうから、ここに、お世話に、なることに、なりました。出島めい子です。」
めい子さんは、緊張しすぎていたらしく、一言一言切るように言った。
「はあ、出島めい子さんね。なんか、相撲取りの出島とは全然違う顔してるけど、それでも同じ苗字なんだね。」
杉ちゃんがそう言うと、隣にいた利用者が、
「杉ちゃん、それと一緒にしちゃだめよ。」
と小さい声でいった。
「でも、出島といったら相撲取りの出島だろ。でも、全然貫禄なさそうな顔してるけど。まあいいや。で、弱そうな相撲取りが、一体何のようだ。」
杉ちゃんがそういうと、別の利用者が、
「弱そうな相撲取りなんて、そんな失礼なセリフ言っちゃだめよ、杉ちゃん。」
と、注意した。まあ、その様に注意しても、態度を変えないのが杉ちゃんの良さでもあるのだが。
「ああ、ごめんなさい。ただ、帯のこと話していたから、着物の帯をどうするのかなと、聞いてみたかっただけで。」
出島めい子さんは、緊張しすぎた顔で言った。
「そんなに緊張しなくてもいいんだ。ただ、帯を作り帯にしたいと言ってきたんだが、この帯は、袋帯だし、一重太鼓は作れないと、言っただけのことだ。」
杉ちゃんは、誰に対しても態度を変えず、ちょっとばかり乱暴な口調でそう答えたのだった。
「ごめんなさい。ただ、私は、帯のことを皆さん楽しそうに話していたから。」
「だから、謝らなくていいの。僕達何も怖い人でもなんでも無いし。」
と、杉ちゃんが答えると、
「ごめんなさい私。」
と、言葉につまってしまう彼女。
「きっと対人恐怖とか、そういうものがあったのではないでしょうか。」
不意に水穂さんが、彼女を代弁するように言った。
「そういうことだと思いますよ。でも、頑張って、普通に話ができるといいですね。今は、できなくたっていいですから、そのうち、少しずつ直していきましょうね。」
「本当にごめんなさい。なにから何まで。」
めい子さんは、困ってしまった様に言った。
「謝らなくていいんだよ。」
杉ちゃんが言うと、
「それなら、どう言えばいいのでしょうか?」
とめい子さんは、勇気を出して聞いた。
「簡単なことじゃないか。ただ、ありがとうといえばそれでいいのさ。」
杉ちゃんがさらりと答えを出した。
「あ、ありがとうございます!」
めい子さんは頭を下げる。
「いいんだってば。お前さんも、作り帯に興味を持っているの?」
杉ちゃんに聞かれてめい子さんは、
「ええ、なかなか日常では見たことのない光景だったので、つい声をかけてしまいました。すみません、ご迷惑でしたよね?」
とまた言った。
「いやあ、迷惑じゃありませんよ。和裁なんて、なかなか見かけなくて当然だよ。だから、本当に素朴な疑問でも、お答えするさ。お前さんもさ、頭の中に、質問を腐らせていたら、心の病気のもとだ。それよりも、どんどん、聞いてみたらどうだ?」
杉ちゃんにそう言われて、めい子さんは、
「ほ、本当にいいんですか?」
と聞く。
「いいよ。」
と杉ちゃんが答えると、
「じゃあ、一重太鼓とは、どんな帯なんですか?」
とめい子さんは、恐る恐る聞いた。
「ああ、よく着物を着ているおばさんたちがやっていると思われる四角い結び方。」
杉ちゃんが答えると、
「それは、そこに置いてある帯では、作れないというのは、どういう意味ですか?」
とめい子さんは聞いた。
「袋帯は、もともと一重太鼓結ぶためにはできてないよ。あくまでも、袋帯は、文庫か、二重太鼓とか、そういう物を結ぶための帯だもん。作り帯にしても、それはできないな。」
と、杉ちゃんが答える。
「じゃあ杉ちゃん、今度はどんな帯を持ってくればいいのかな?この袋帯は、しょうがないから、なにかべつのものにするわ。どうせ帯も千円とかで買えちゃうしね。ちょっと着物や帯には可哀想だけど、でも、なんかの役に立つと思えば。」
と先程の利用者が杉ちゃんに言った。
「そうだな。お太鼓にするんだったら、名古屋帯か、袋名古屋帯を持ってきてくれ。」
と、杉ちゃんが答えを出すと、
「わかった!すぐに検索エンジンで探してみる。ネット通販は、こういうときに便利なのよねえ。直ぐに欲しいものが手に入るから。」
と、利用者たちは、タブレットを取り出して調べ始めた。
「おう。できるだけ、ちゃんと固定電話を敷いている業者を選べよ。メルカリとか、そういうものだと、出品者が帯の種類とかわかってないことが多いから。それも気をつけて選ばないと。」
「わかってるわよ。杉ちゃん。いつもうるさいくらい言われているから、すぐ見つけるわよ。」
利用者たちは、タブレットを動かしながら、杉ちゃんに言った。
「あの、すみません!」
また緊張した顔で、めい子さんが言う。
「その通販サイト、私も見ていいですか?」
「ああいいよ。目の保養になるから、見せてもらいな。」
杉ちゃんがそう言うと、利用者の一人が、めい子さんにこっちへいらっしゃいよ、と誘導した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます