出ぬ出ぬ出島

増田朋美

第一章 黄色いスーツの女性

急に冬から春に変わってしまったようなそんな日だった。なんだか急に暖かくなったのはいいものの、中には体調を崩してしまう人もいるだろう。そんな中でも、みんな一生懸命やっている。ときにそれは、悪事に変わってしまうこともあるが。そんなことが繰り返されている世の中でもあった。

その日、水穂さんは何かで当たってしまったのか、昼過ぎに急に咳こんで赤い内容物を出してしまった。

「水穂さん、大丈夫?苦しい?」

と、由紀子はすぐ飛び込んで水穂さんの体をさすった。水穂さんは頑張って内容物を吐き出すが、その日は、いつまでたっても止まらなかった。

「大丈夫?深呼吸しよう。薬を飲めば止まるから。」

水穂さんは、由紀子がそう言っても、咳き込んだままだった。由紀子は薬を飲ませようとしたが、それも、受け取ることはできなかった。水のみは、畳に落ちて割れた。

「どうしよう。救急車呼びましょうか?それとも、病院に行って、見てもらいましょうか?」

水穂さんの反応はなかった。代わりに杉ちゃんがやってきて、

「やめときなやめときな。救急車呼んだって病院たらい回しにされるのが落ちだから。無理だよ。」

といった。それが、ちょっと癪に障るような、言い方だったので、由紀子は、声を荒らげて、

「じゃあ、お医者さんに来てもらいましょうか?」

と、いうと、

「まあ、呼べたら幸運だ。」

と、杉ちゃんに言われた。

「じゃあどうしたらいいの!このまま放って置いたら水穂さんが!」

由紀子がそう言うと、

「だからねえ、無理なものは無理だから、とりあえず、薬を飲ませてさ、少し様子を見たら?病院に連れて行ったって、汚い物を見るきはないとか言われて、追い出されるだけだよ。それのほうがよっぽど可哀想だと思うけど?」

杉ちゃんにそう言われて由紀子は本当に頭に来てしまって、それに、もう薬の入った水のみも壊れてしまったため、

「いいわ、私が、病院につれていきます。今は、急患であれば見てくれるはずよ。だから私、行ってくる!」

と言って、水穂さんに背中に乗るように言った。

「よせ!やめろ!そんな事したら、水穂さんが可哀想だ、余計なことを感じさせるのは、やめたほうがいい!」

杉ちゃんはそういったが、由紀子は水穂さんを背中に乗せてしまった。

「おい!本当にやめろ!水穂さんが病院にたらい回しにされて、その間に、逝ったらどうするの。そしたらお前さんが、悲しい思いをすることになるんだぞ!」

由紀子は、杉ちゃんの言葉を無視して、製鉄所の玄関先まで行ってしまった。車椅子の杉ちゃんには由紀子を追いかけることはできなかった。杉ちゃんが、由紀子さん、むちゃしないでくれ!と叫んでいるのを無視して、由紀子は製鉄所の外へ飛び出し、近くにあった、成松クリニックという内科医院へ飛び込んだ。由紀子は、製鉄所の近くに病院が新しくできて良かったと思った。

「すみません、この人を見てやってくれますか。あの、すぐに見てやってもらいたいんです!」

由紀子がそう訴えると、受付は変な顔をした。

「申し訳ありませんが、うちは、予約した患者さんでないと、診察できないんですよ。」

受付の中年女性は、由紀子にそう言う。

「お願いします。この人、苦しんでいるんです。予約とか、そういうことも確かにあると思いますが、お願いできませんか!」

由紀子はもう一度訴えると、受付の女性は、水穂さんの着物を見た。もしかしたら、また、江戸時代からタイムスリップしたとか、そういうことを言われそうな気がした。確かに、紺色に、井桁かすりを入れた、銘仙の着物を着ているのであるが。

「そうですが、うちの病院では、そのような着物を着ている方を見ることはできません。ほかを当たってください。」

受付は冷たい顔で言った。

「これだけ頼んでもですか。治療費は、ちゃんと私払います!保険が効かないとか、そういうことでも構いません、お願いします!」

由紀子は急いで言った。

「ですが、そういう特殊な事情のある方はうちの病院の名誉に関わりますので。」

「そんな事どうでもいいじゃないですか!命が平等だとか、思った事ないんですか!」

思わず由紀子がそう言うと、近くにあったソファー席に座っていた、スーツ姿の女性が由紀子の近くにやってきた。なんでも、目立ちそうな黄色いスーツを身に着けた、ちょっと、周りの人とは違う身分の女性であることは間違いない。

「ああ、伊達先生、申し訳ありません。うるさいですよね。すぐに辞めさせますから。」

と、受付は急いでその女性に言った。先生と言うからには、どこか学校の先生とか、大学教授とか、そういう人だろうかと由紀子は思った。

「いえ、大丈夫です。私の事は、後でいいですから、この男性を見てやってください。私は、後で構いません。」

と、偉そうな女性は、そういった。それがあんまり意外だったのか受付の女性は、口を開けたまま、塞がらなかった。

「ほら、早くこの患者さん、見てやらないと、たいへんなことになるんじゃありませんの?」

そう言われて、受付の女性は、

「はい、ではちょっとこちらにいらしてください。」

と、由紀子と水穂さんを診察室に連れて行く。医者はまだ若い女性の医者で、水穂さんの着物を見ると、やっぱり嫌そうな顔をしたが、先程の黄色いスーツの女性が診察室へやってきて、

「手を抜いてはいけませんよ。成松先生。どんな身分の人だって、医療を受ける権利は、保証されています。」

と、言ったので、成松先生と呼ばれた医者も手を抜けなかったようだ。由紀子は、成松先生の指示で、水穂さんを処置室のベッドへ寝かせてあげた。成松先生に、内容物を吸引してもらって、その後で点滴を打ってもらったら、水穂さんはやっと、静かになって、苦しむのをやめてくれた。

「あ、ありがとうございました!本当に、ありがとうございました!」

由紀子は急いで、その黄色いスーツを着た女性に頭を下げた。女性は、良いのよだけ言って、指を口に当てた。由紀子がその通りに黙ると、水穂さんが楽になってぐっすり眠っている声が聞こえてきた。

「あの、この男性の治療費ですが、」

と、成松医師が言うと、

「ええ、いくらかかって?私がちゃんと支払いますから。クレジット支払い、この病院ではできますよね?」

と、女性はそういうことを言って、医者に向けてクレジットカードを差し出した。医者も、看護師も、それ以上のことは言えなかったらしい。受付の女性が、急いでそれを受け取って、

「ご署名をお願いします。」

と、黄色いスーツの女性に紙とボールペンを渡した。彼女はそれを受け取って、署名欄に、

「伊達さつき」

と署名した。そういうわけで、この女性の名は、伊達さつきさんということがわかったが、一体どんな人物なのだろう?何をしている人なのかわからなくて、由紀子は、ちょっと怖くなった。

「ありがとうございます。じゃあ、この男性が目を覚ましたら、もうお帰りに鳴って結構ですから。一時間ほど眠ると思いますが、もう心配は要りませんので。」

と、成松医師が、いかにも嫌そうな感じでそういうことを言った。由紀子はもう一度頭を下げたが、成松医師も看護師も、嫌そうな顔をしていた。確かに、水穂さんのような人を、病院に入れても嫌だし、どうせ治療実績にならない患者さんが来られても面白くないのだろう。

「ほら、ちゃんと言わなければだめでしょう成松先生。ちゃんと、この人に、病状とか、そういう事をちゃんと言わなければいけませんよ。」

と、伊達さつきさんが、医者を叱るように言った。医者を叱ることができるのは、高名な身分で無いとできないはずだ。成松先生は、伊達さつきさんの言葉を聞いて、

「はい、そうですね。まあ、おそらく、短時間でしか持たないのでは無いですかね。」

とぶっきらぼうに言った。

「それじゃあだめよ。患者さんに対して手を抜いては行けないわ。ちゃんと、説明してあげなくちゃ。」

と伊達さつきさんがそう言うと、

「はい、すみません。でも、それで事実ですよ。もう肺が限界だと思いますよ。多分、このまま治療をしても、できないんじゃないかな。」

成松先生はまた言った。

「そうかも知れませんが、患者さんやご家族の方を安心させてやることが、医療従事者の勤めなのではありませんか?医療従事者は、日本で一番えらいわけではないんです。患者さんがあって、医療従事者です。それを忘れないでください!」

伊達さつきさんは、彼女を叱るように言った。

「その患者さんが、そういう身分であっても、医療従事者は、患者さんに寄り添わなければなりません。それは、例えば、インドのダリットだって、同じことだと思いますわ。そうでしょう?」

成松先生は、伊達さつきさんに言われて、また嫌そうな顔したが、伊達さつきさんに、訴えられてはたまらないと思ったのか、

「そうですね。誰でも医療を受ける権利はありますね。まあ、こんな重病人を抱えてご家族の方も大変でしょうが、自分を大切に、ゆっくり過ごしてください。」

とだけ言った。

「まあ、仕方ないわね。そういうことを言うんじゃ、同和問題はまだ解決できないということね。日本では差別したりいじめたりした人物を、罰する法律がまだないから。それも、考え直さなきゃいけないでしょうね。」

と、伊達さつきさんは、そう言った。なんだか、他の人は、彼女に何も言えなそうだった。ただ、水穂さんだけが、静かに眠っていた。それだけだった。

「じゃあ、一時間して、目が冷めたら、お帰りくださいね。」

と、成松先生は、由紀子たちに偉そうな目つきをして、診察室に戻ってしまった。由紀子は、薬は貰えないのかと言ったが、反応はなかった。伊達さつきさんも、ちょっとまってくださいといったが、医者も看護師も、嫌そうな顔で、二人を見捨てたままいつもの体制に戻ってしまった。

由紀子は、水穂さんのそばに居たいと思って、その場を離れずにいた。不思議なことに、伊達さつきさんも、水穂さんのそばを離れなかった。

「あの、今日は本当にありがとうございました。ああして言ってくれなかったら、水穂さんは、どうなっていたのかわかりません。本当に、今日はありがとうございました。」

と、由紀子はもう一度頭を下げると、伊達さんは、また指を口に当てた。

「静かに。今は、彼を安心して眠らせてあげることでしょう。」

由紀子は、この伊達さつきさんという人が、たしかに見かけはきれいに黄色のスーツなんか着て着飾っているが、顔を見ると、かなり年を取っていることを知った。所々に白髪が見られるし、顔にはシワもある。もしかしたら、由紀子と変わらないくらいの息子さんか娘さんがいる人なのかもしれない。

「でも、せめて、お礼だけはしないと。」

と、由紀子は、急いでそう言うが、

「若い人は、元気でいいわね。じゃあ、もしまた、彼のことで、なにかあったら、いつでも相談にいらっしゃい。連絡先は、この名刺の裏に電話番号があるわ。常識の時間であれば、いつでもお電話よこしてくださって大丈夫よ。」

と、伊達さつきさんは、由紀子に名刺を一枚渡した。名刺には、伊達さつきと名前を書いてあって、裏には確かにスマートフォンの番号が明記されている。何をしている方だろうと、由紀子は思ったが、

「今どき珍しいわね。そうやって好きな人を、病院にまで連れてくるんだから。よほど勇気のある女性だわ。あなたの恋が成功しますように、祈りますね。」

と、伊達さんはにこやかに笑った。由紀子は、思わずまた、

「本当にありがとうございました!」

と涙をこぼしてそう言うが、伊達さんは、また指を口に当てた。

「あーあ、由紀子さん、大丈夫かなあ。また、汚いやつを見る医者なんていないとか、そういうことを、言われちゃって、泣いてるんじゃないのかな。」

杉ちゃんは、水穂さんの布団を眺めながら、そういうことを言った。用事から戻ってきたジョチさんが、

「由紀子さんも、水穂さんがよくなってくれることを、祈ってやるしかできないことを、わかってもらわないとかえって有害になってしまいますね。」

と、杉ちゃんに言った。

「由紀子さんが病院に連れ出して、たらい回しにされている間に、水穂さんはあの世ゆきになっちまうことだけは、どうしても避けたいんだが、、、。本当は僕が止められればよかったんだけどさ。由紀子さんは、歩けて、僕は歩けないからね。」

「仕方ないじゃありませんか。杉ちゃんは、できることをしたんですよ。それのせいで自分を責めるなと豪語したのは誰ですか?」

と、ジョチさんは杉ちゃんに言うと、製鉄所の前を、高級車が通りかかった音がした。それは、製鉄所の玄関前で止まった。そして、ありがとうございましたという女性の声がする。それと同時に、

「本当にすみませんでした。」

という水穂さんの声も聞こえてくる。

「あれ!水穂さんの声だ!」

と、杉ちゃんが言うと、製鉄所の引き戸がガラッと開いて、只今戻りましたと由紀子が戻ってきた。高級車は、おい待て!と杉ちゃんが言ったのと同時に、走り去ってしまった。

「只今戻りました。さあ、水穂さん休みましょう。今日は大変だったでしょうから、よく眠って休むことだわ。」

由紀子は、背負っていた水穂さんを、布団の上におろして、掛ふとんをかけてあげた。水穂さんは、すみませんと一言だけ言って、まだ、薬がきいているのだろうか、すぐに眠ってしまった。

「一体どうしたんだ。水穂さん、何かあったのか。」

杉ちゃんにそう言われて、由紀子は、指を口に当てた。そうですね、とジョチさんが言ったので、杉ちゃんたちは、水穂さんが眠っている四畳半を出て、隣の食堂に行った。

「由紀子さん、一体どうしたんだよ。たらい回しにされたのかと思ったけど、ちゃんと治療してもらえたの?」

杉ちゃんがそうきくと、

「はい。とても偉い女性の方が、助けてくれたんです。それで、水穂さんはちゃんとやってもらえました。」

と、由紀子はそう答えたのであった。

「とても偉いとはどういうことかな?」

杉ちゃんがまた聞くと、

「誰か大学病院の教授とか、そういう人が、見に来られたんでしょうか?」

ジョチさんがまた聞いた。

「それはわかりませんが、とにかくとても偉い方だと思います。ちゃんと、水穂さんのことをわかってくれて、同和問題はまだ解決できていないと言ってくださいました。」

と、由紀子は答えた。

「はあ。そういう言葉を使うんじゃ、机の上でなにかしているバカなやつにしか見えない。」

と、杉ちゃんが言うと、

「違います!そんな事ありません!とても優しくて親切な人でした!」

と由紀子は言った。

「偉い人って誰だよ。名前を言ってみな。」

と杉ちゃんが言うので、由紀子は財布をカバンから出して、先程渡された名刺を取り出した。

「伊達さつき。」

ジョチさんが、その名を読み上げる。

「理事長さん、ご存知なんですか?」

と、由紀子はジョチさんに聞く。

「はい。知ってますよ。伊達さつきさんは、僕が擁立した、八重垣麻也子さんが、立候補したときに、対抗馬として出馬した女性ですよ。あのときは、小選挙区で、八重垣さんの代わりに当選したんですよ。」

ジョチさんは静かに言った。

「つまり、この伊達さつきという人は、国会議員?」

と、杉ちゃんが言うとジョチさんは、はいそうですといった。由紀子はなるほどとおもった。そういう女性であれば、医者の女性を叱ることもできるだろう。

「まあ正確には現役で国会議員ではありませんが、一期だけ議員を勤めました。でも、おかしいですね。」

と、ジョチさんは言った。

「なんですか?」

と由紀子は聞くと、

「はい。確か、国会議員をやめた直後から、伊達さつきではなく、出島さつきと名乗っていました。四年間だけ議員をしていましたが、出島という人に求婚され、二期目の選挙には立候補しなかったんです。それで出島さつきと姓名を変更し、普通の主婦をしているのが、何より楽しいんだと、言っていましたけどね。」

とジョチさんは説明した。

「はあ、主婦をしているのが、何より楽しいんだと言っていた人物が、旧姓の伊達さつきに戻り、また政治活動を始めたのか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「そういうことになりますね。議員をしていたときは、偉い美女で、彼女のことは伊達政宗の女性版と言われていました。容姿が美しかったものですから、結婚後も出馬してほしいと要望があったようです。ですが、彼女はそのようなことを一切しなかったので、当時流行っていた相撲取りと同じ苗字だった事から、出ぬ出ぬ出島と言われていましたよ。」

と、ジョチさんは、昔の事を思い出すように言った。

「へえ、まあ運が良かったとしか、言いようが無いねえ。だってその美人さんは、水穂さんのことを本気で助けたかどうかも疑わしいしね。まあ、政治家なんて、自分の名誉のためにしか動かないダメなやつだからな。はははは。」

杉ちゃんは、そういったのであるが、由紀子は、伊達さつきという人は、そういうことをするような人では無いと思った。

「きっと水穂さんが、あまりにもきれいな人だったんで、思わず憐憫をたれたんじゃないの。」

「杉ちゃんの言うとおりかもしれませんね。また次の選挙に立候補したくて、水穂さんを助けたことで、実績を作りたかったんじゃないでしょうか?」

二人はそう言っているが、由紀子はそうだとは思えなかった。あの伊達さつきと呼ばれている人は、決して悪い人では無いような気がした。

「それにしても、娘さんはどうしたんですかね。伊達さつきさんは。」

と、ジョチさんは、ちょっと思い出すような顔をしていった。

「誰か、家族がいたのか?そうか、出島と名乗るようなら、家族が居たって、おかしくないか。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ。娘さんがいたはずなんですよ。確かね、名前は出島めい子さんとかいいましたよ。それでは、娘さんも、伊達めい子と名乗っているのでしょうか?」

ジョチさんは、そう発言した。







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