昼間の月

大垣

昼間の月

 僕は家で昼飯を食べた後、いずれ訪れるであろう眠気を紛らわせるために一人散歩に出掛けた。特別行く宛もないので、僕はいつものように数キロ離れた川を目指して歩いた。

 外はすっかり春の陽気で、太陽の光に当たりながら歩いていると少し汗ばむほどだった。途中にあった民家の垣根から、立派なハクモクレンの木が伸びて、白い花をたくさん着けていた。僕がそれを見上げていると、下の方でがさりと動く音がした。僕は少しかがんでみると、垣根の下の雑草の中に灰色の猫が一匹いた。猫は置物のようにこちらを見たまま固まっていた。僕は猫と少し目を合わせていたが、余り人の家の垣根を覗いているのもきまりが悪いのでその場を後にした。


 またしばらく歩き、大きなショッピング・モールを横目に踏切を渡ると、川に出た。僕は土手の上の道を歩いた。ランニングをする人や、僕と同じように散歩をしている人がちらほらいた。川はこの辺りでは一番大きく、春に似つかわしいゆっくりとした流れをしていて、日差しを照り返してきらきらと輝くのが美しかった。

 それを見ながら僕は土手を歩いていると、大きな工場の建物の傍まで来た。これは製紙工場で、この川の水を利用しているらしかった。入口の辺りで中年の男が座って煙草を吸って休んでいた。工場の煙突からは白い煙がもうもうと沸き上がるのが見えた。その時僕は、煙の少し上にあるものに気がついた。それは月だった。昼間の月だった。


 月はぼんやりと霞がかって、空の青に半分溶け込むようにして浮かんでいた。輝かない月は夜よりもはっきりとクレーターの窪みが見てとれた。

 僕は昼間の月が好きだった。月は昼と夜で別々の星であるような気がした。夜の月の闇の中で輝く異質で超越的な美しさより、そのクレーターの見える昼間の月の現実的な様子が好きだった。夜の月はそれが地球と同じ星だと思うには余りにも綺麗過ぎていた。

 昼間の月は静かで、何の主張もせず、誰からも見向きもされず、ただそこに浮かんでいた。今にも消えてしまいそうなくらい希薄な存在だった。

 しかしそうであるからこそ、僕はあそこに月があるのだと、宇宙の中に本当に浮かんでいるのだと思うことができた。それはある種の親近感でもあった。僕は昼間の月を見て様々なことを考えた。そこにある冷たい土くれのことや、ぼろぼろに崩れていまう石ころのこと、僅かな大気のこと、流れている時間のこと…。そこには餅をつく兎もかぐや姫も宇宙人もいなかった。世界中の人間が昔からその魔力に魅了され、羨望を持って注いだ詩や音楽さえも無かった。昼間の月へ向けられた視線は誠実で対等でア・プリオリなものだった。

 しかしながらそれでも月は月で、地球から足を離せない僕にとって手に届かない存在であるのには変わりなかった。つまりは昼間の月はそうした現実と非現実の間に位置していた。


 僕はそんな昼間の月を眺めながら、ぼんやりと川の音を聞きながら歩いた。するとすれ違った自転車が、後ろでキイッとブレーキを軋ませるのが聞こえた。

 「よぉ。久しぶり。」

 昔の同級生だった。名前は確か…。

 「散歩か?何見てたんだ?」

 「え?」

 「上、ずっと見てたろ。」

 「別に。何も見てないよ。」

 「そうか?まぁいいや。声掛けといて悪いんだけど、俺急いでるんだよ。バイトでな。じゃあな。」

 「うん。」

 僕はまた歩き始めた。歩きながら彼の名字を思い出そうと思ったが出てこなかった。彼とは同級生というだけでこれといって親しい訳でもなかった。

彼もまた僕にさほど興味はないはずだった。

 そろそろ家に帰ろうと思い、土手を降りて信号を一つ渡ると、さっきまで見ていた月のことはすっかり忘れてしまっていた。

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昼間の月 大垣 @ogaki999

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