第439話「天から抱きて」
天からゆっくりと降りてくる二人の姿は非常に異質に見えたことだろう。赤毛の獣人族は怯えながら、身を縮こまらせながら、とても威厳溢れる姿では無いし、エヴァンなんて外套を羽織った胸から無色透明な触手を生やしているのだから、天使や神からの使いだとは口が裂けてもいえないような、そんな二人ではあったが。何事もなく。そう
「…………………………なんですか、結局帰ってくるのですか」
【寂しいのかなと思ってね】
「…………妄想も豊かであるのは妬ましいです」
【おや、もう猫を被るのはやめたのかい。あっけないほど、それこそ自分の制御出来ない感情で簡単に剥がれてしまう仮面なんて着けない方がいいよ、醜いだけだし】
エヴァンは触手――『勇者』がここまで煽りに煽り、責め立てる姿は初めて見る。しかし、彼の今までを思えば、憎まれ口を叩くのは無理もないのだ。対の魔女というだけで、彼にとっては親の仇のようなものなのだから。
しかし、その言葉を受けてなお、感謝の魔女は平静であった。恐ろしいほどに。
「…………醜ければ、醜いほど自分は自分足り得るのです。それより、なぜ戻ってきたのかは、なぜ逃げたのか不思議ですので、誰か解答を提示していただけませんかね」
「ちょっと、あなたに聞きたいことがあってな」
「おや、貴方様からそう言われるのは珍しい。ですが、なぜ戻ってきたかの解答にはなっていますが、なぜ逃げたのかへの解答にはなっていませんし、それを自分は問いただしたいのですが」
触手の言っていた通り、感謝の魔女は逃げたことについて追及したいのだ。もっと言えば、自分の投げた質問には全て答えてもらいたいのだろう。しかし、エヴァンはなんと返すべきかを、降りてくる最中も考えていたのだが、明確かつ明瞭な答えを見つけられずにいた。
「…………ほら、貴方様。解答を」
ほんの数秒だけでも、黙っているだけでエヴァンを急かす感謝の魔女。まるで借金の取り立てのような相手を焦らせ、自滅へと導く手口ではあったが、そんなことで動揺してしまうほど、エヴァンは場数を踏んでいないわけじゃない。むしろ、逆だ。今、この時点での主導権は感謝の魔女でなく、エヴァンにある。
エヴァンが解答をする。主体はエヴァンにあって、感謝の魔女はそれを待つ側なのだ。ここで、焦らしに焦らして感謝の魔女の怒りを溜めてしまうのもいいが、それでは本来の目的――犠牲者の保護が叶わなくなってしまうには避けねばならない。
「…………貴方様?」
「そんな凄んでも、ちゃんと答えますよ。少しばかり、明日の天気はどうかと考えていたもので」
「…………悠長なことで、それだけ時間に余裕があるのなら、世界を救ってみてはいかがでしょうか」
エヴァンの言い訳に、感謝の魔女は皮肉をたっぷりと込めた質素な言葉を投げ掛ける。いや、投げつけた。口調は丁寧ではあっても、行動言動なんてそれとは真逆なことは、今に始まったことでない。
「そうですね。俺が世界を救う――それは、この後にすることでして、今するべきことは失踪者の保護なので、それが終わってからにしましょう。
それより、俺たちがなぜ逃げ出したのか、についてですが……」
ここまで引き伸ばすのが限界で、これ以上は感謝の魔女の情緒から察するに難しいだろう。 ゆえに、ここで適当な言葉を放つべきなのだろうが、エヴァンには一向に完璧な正解を導き出せずにいた。ふと、彼の視界に映り込む触手は、これまた優雅にたゆたっているものだから、呑気なものである。全てをエヴァンに任せておきながら、自分はことの成り行きを見守っているだけ。それだけでも、エヴァンはちょっとした愚痴でも言ってやりたい気分ではあったものの、本当に適当な言葉を選び取った。
「ちょっと、外の景色を見たくなったもので。いやはや、王都からの眺めはやはり最高ですね。なにより、この能力研究所に張られた魔術も素晴らしいものです。あれなら、『魔王』でさえも侵入を諦めてしまうことでしょう」
見た景色に、映っていた光景を思い出しただけのもの。そして、なにより感謝の魔女からの解答には程遠いものではあった。建前は気分転換としてだが、本質は感謝の魔女の悲鳴を聞かないために逃げたのだから、大嘘つきだと貶されても仕方の無いことではあった。
「………………ふむ、まぁ、良しとしますか」
しかし、感謝の魔女の反応は非常に淡白なものであった。これにはエヴァンも思わず拍子抜けの表情を、思わず顔に出してしまう。
「…………自分の悲鳴から逃げる判断は、見事なものです。それも外した天井から逃れたのですから、状況把握に決断力は見事なものです。普通であれば、必死に耐えるか来た道を走って、もしくは魔術で駆け抜ける方法をとるはずでしょう。もしくは大理石を掘って小さな穴に、閉じこもるかの奇抜な発想をするかもしれませんが、貴方様は広がる大空に逃げたのです。ほぼ正解です」
しかも、褒めてくるのだ。実際、行動したのはエヴァンではなく『勇者』なのだが、こればかりは感謝の魔女が指し示す「貴方様」が誰になるかを聞かねばいけない。それはそれで面倒だからこそ、エヴァンも触手も黙っていた。
「…………しかし、間違いがあるとすれば言い訳を最もらしいことを言えるようにしておかねば、自分はともかく勤勉の魔女を騙すことは難しいですよ」
「騙すなんてとんでもない」
「……………………まぁいいでしょう」
疑り深い瞳だったのだろう。前髪に隠れてしまった双眸は、きっとそんな色合いをしていたくらいには、感謝の魔女が黙っていた時間は脳内でエヴァンの言葉が真意がどうか審議していたのだ。しかし、結局、どちらでも変わりないと、問題ないと判断したのか話を切り替えるために、咳払いを一つ行う。
「色々と貴方様に話したいのは山々ですが、如何せん気分が乗りませんので、またの機会にさせていただきたいのです」
そう断りを入れた直後、感謝の魔女は顔も見えない真っ黒な――いや、黒ずんだ前髪に隠れた双眸をエミルの方へと向ける。
その動きだけで非常に恐ろしく、身が凍えるようなものではあった。
「…………そこの、なぜお前まで戻ってきた」
触手の言っていた通り、感謝の魔女はエミルを嫌っている。凄みをきかせ、圧力をのせ、根底から存在を否定するような、小馬鹿にもしていて、虚勢を張ることもなく、飾り付けたような声でもなく、低く、唸る。
しかし、威圧的な感謝の魔女への対策として、触手が提案した言葉を恐る恐る、エミルは呟く。か細く、不安に塗れたことを隠すこともない、怯えた声音で。
「………………感謝の魔女様に、感謝を伝えたくて」
信じ難いことに。信じられないほどに。エミルが呟いた言葉はこれ以上ないほど、感謝の魔女へ影響を与える。
「な、ななななななななななななななななな」
素早く後退る感謝の魔女。先ほどまでの、エミルを圧倒する態度は消え去り、変わりに酷く、これ以上ないほど恐怖を感じている感謝の魔女がそこにいた。
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