第436話「相違」


 未だに脳みそが茹だってしまったエミルの気持ちは分からないでもない。むしろ、その反応が当たり前で当然であるからこそ、エヴァンと触手が異質すぎて歪に見えてしまう錯覚が起こってしまうだけ。実際は、エミルの理解力では追いつかない領域にあるのは、仕方の無いことなのだ。前例もなければ、具体的なものがあったわけではない。

 ただ、今までもそうだっただけで、解明されていなかったことが今になって解き明かされただけかもしれないが。


「とにかく、そういうこと。俺の中に『勇者』はいるけども、力は本調子とは遠いから俺が『勇者』の能力を使えるわけではない。……なぜか、コイツは俺の能力を使えるみたいだけども」


【逆に、君が使いこなせていないだけだよ】


 ぐうの音もでない正論を顔面に叩きつけられたエヴァンは、何も言えず痛みに苦しむ表情を残す。

 その通りでもあるからこそ、余計に響いていた。今まで感じていた心の傷を深く抉るようなものを、容易く使うほど『勇者』は存外残虐性を持ち合わせていたのだ。


「…………なんとなく分かりました――いえ、完全に分かったわけではないんですけども」


【俺がエヴァンの中にいるってことだけ分かればそれでいいよ。結論はそれで現実もそれなんだから】


「……はい。あの……それで、これからどうする感じでしょうか?」


 エミルは真下を自然な流れで見ようとして、慌ててエヴァンへと向き直る。考え事に集中していて、自分が高所恐怖症であることを一瞬だけ忘れてしまっていたのだ。逆に言えば、それだけの時間恐怖心を誤魔化せることができたのだから、エヴァンと触手のやり取りは意味のあるものであったという証明となる。


「どうするんだ? 『勇者』様よ。これ、どこに降りるかで今後の予定が狂うか、俺たちの人生が狂うかの二択になりそうだけども」


【まぁ、そうだね。今、能力研究所に降りればどうなるかは恐ろしいくらいだろうね。あえて、虎の寝床に侵入する愚か者になりたくはないし】


 触手のどこに目がついているのか分からない透明な状態でも、空気の境界線があやふやになっている箇所が僅かに――先端だけが下を向く。やはり、先端に目があるのかとエミルは興味が幾分か傾くものの、同じように下を見られないので、必死にエヴァンの外套を眺める。


「…………まだ、叫んでいるっぽいな」


【やれやれ。これじゃ、降りられないしどうしたものかな】


「……え、あそこに降りるつもりなのか?」


 エヴァンは少しばかり驚いて質問を投げる。能力研究所へ素直に降りる必要はないだろう。王都のどこかでもいいし、このままストラ領まで戻ってしまってもいいとさえ思えたエヴァンに反して、『勇者』は至極真っ当な言葉を返す。


【君、ここに来た目的を忘れちゃいけないよ。失踪者の捜索、もとい保護して連れて帰らなきゃいけないことが今回の依頼だったはずだろ?】


「いや、それは覚えているけども……」


 エヴァンの予測では、感謝の魔女のいた一室、その部屋に転がっていた男性がきっと失踪者だと仮定はできるものの、特定はできない。

 なにより、一番の問題が残ったまま能力研究所へのこのこ降りていくのは、非常に危険なのだ。


「感謝の魔女、あの悲鳴をまともに聞いたら気が狂うか正気を失うか、最悪人間でなくなるだろうし、あそこに戻るのは危険だと思う。もちろん、見捨てるつもりじゃないけども、ただ裸同然で行くのは自殺行為だろ」


 エヴァンの言うことは筋の通ったものである。今のエヴァン達が、感謝の魔女の怒号をまともに聞いていられる状態にないのは当然で、救いに行った者が救いを求める立場になってしまうのは一番避けねばいけないことなのだ。最優先は自身の命で、それが十全に守れているからこそ他者を救える余裕が生まれる。

 しかし、『勇者』は恐らく不敵な笑みを浮かべているのか、真下を向いていた先端をそのまま持ち上げると、エヴァンの目の前まで近づける。まるで、エヴァンの瞳に近づくように。まるで、エヴァンを睨みつけるように。


【君、俺を誰だと思っている?】


「触手だろ」


【今現在はね。こんなところで躓くなんて、今後が思いやられるし、これからの君達が立てた作戦が成功するかどうか不安になってきてしまって、俺は安心して寝ることができないよ。ほら、よくよく、今までの会話を掘り返して、読み返して考えてご覧】


 もちろん、触手がそんなことを言ったのはエヴァンに理解させるためではない。むしろ、エヴァンはある程度の予想はできていて、後はそれができるのかを考えているだけ。エヴァンの心の奥底に『勇者』が存在している状況は、すなわち、考えていることもほぼ筒抜けなのだから、あえて彼を責め立てる理由は一つしかない。

 この場でも、置いてけぼりにさせないような配慮。気遣い。エミル・ポセンドが会話に参加でき、更には今後の予定のためにも、必要な彼女の士気を高めるのに必要であった。


「…………もしかして」


 エミルが、エヴァンと『勇者』との会話に割り込んだのは、自分自身にも何かできることはないかというやる気――もしくは焦燥感の現れだとすれば。この状況で、この場面で、感謝の魔女の怒号が能力研究所を震わせている中で、気づくということは……彼女はまだ燃え尽きてはいないということ。


「エヴァンさんの『救世主』そのものを強化するんですか?」


【正解だよ。よくできました。ご褒美に俺が思いついた粗末な作戦を披露させてもらおうか。何、遠慮するな。お礼として、エミルさんには大事な役目を担ってもらうことにしよう】


「え……!?」


 驚いて見開かれた琥珀色の瞳は、無色透明な曇天が透けて見える触手を捉える。なぜか、表情だけでなく造形なんてよく見えない存在が、優しい笑みを浮かべている気がしたエミルであった。

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