第434話「清空にて、漂う」


 もちろん。エティカがなんと手紙に書き残したか。そしてローナに手助けさせながら、どんな文章を残したか。それは簡単に口にできないもので、ここで記すには幾分かの時間がまだ掛かりそうなものとなるため、あえて、その後の経過を報告することで誤魔化すとすれば、その後無事、手紙――もとい依頼書が完成したエティカを、少し病弱な真っ白な肌を赤らめさせながら『魔王』が訪れる。その時に放った言葉は言わずもがな。エティカの準備を急かすものであった。しかし、酒が僅かに回った舌は、言葉のところどころで引っかかるくらいには、イラオの気分は上々であったため、エティカがそれから衣類の準備やいざという時のために貯めていた銀貨と銅貨、そしてエヴァンから度々渡されていた金貨を数枚、革袋へと押し込む。

 その時、『魔王』へ「櫛とかはあるの?」と聞けば、イラオは「そんなものないです」と当たり前のように答えるものだから、使い慣れた樫の木でできた櫛を入れる。もちろん、そんなものが必要なのかとイラオは問いただしたが、エティカは「エヴァンが来てくれるなら、綺麗でいたいの」と、恋する乙女らしい模範的回答を行うが、それを納得できないのがイラオだろう。

 あれやこれやと、必要になるものを革袋に詰めようとしても、多すぎるために最終的には小さなバックへ入れていくこととなる。ちょっとした小旅行みたいになってしまったが、事態は――彼女にこれから起こる出来事というのは、決して楽観的に考えられるものではないことを、エティカは重々承知の上であった。

 しかし、必要なものは必要なのだ。いるものはいるのだ。そうこうしていると、イラオの気分は徐々に苛立ちへと変わりそうになり始めたタイミングで、エティカは準備を終える。そして、黙する鴉の面々への挨拶もほどほどに、ヘレナのお腹にいる赤ん坊へも撫でることで挨拶として、エティカ――『魔王の器』は『魔王』によって誘拐されたのだ。


 では、それを早朝に行っていたならば、エヴァン達が王都に着き、慈善の魔女と遭遇し節制の魔女の目の前で、能力研究所の天井を突き飛ばした頃には、エティカ達は出立していたのだ。

 そして、場面を本来あるべきエヴァン・レイへと戻すと、彼と護衛のエミル・ポセンドは王都の全体を楽々と見下ろせる上空まで跳ね上がっていたのだ。


 曇天へ向かって飛び出し、今にも雨が降りそうな空ではあっても、エヴァンがふと、無意識にストラ領の方を見れば、何かが空を突き破ったような、歪な穴が奇妙な形になっているのを確認した。その一部分だけ、太陽の光がこぼれ落ちていく不思議な景色ではあったが、それよりもエヴァンは、下から撃ち落とさんとする怒声の方を気にしなければいけなかった。


「おい、『勇者』よ。空に飛び出たのはいいけども、これからどうするんだよ。このままじゃ、俺たち真っ逆さまに落ちてぺしゃんこだぞ」


「ぺ、ぺしゃんこ……!?」


 エヴァンからの忠告もとい疑問に、エミルの不安は増長されてしまったのか余計に体の震えが大きくなる。彼女は下を見れば震え、横を見れば意識が遠ざかるようなギリギリな状態であったのだ。どうにもエミルという人間は、高所が苦手なようだ。


【感謝の魔女の癇癪を逃れるために、一時しのぎで浮いているだけで、能力の効力が無くなれば地面に向かって急降下。そんなことを思っているなら、あんまり見くびらないで欲しいな】


「……それでも、これ浮くだけじゃないのか」


 エヴァンは胸から生えた無色透明の一本の触手に向かって、そう追及する。空間と存在の境界線だけ強調された、透明な姿が発動した能力は、エヴァンの推測通り浮くだけのもの。とても空中を漂って、優雅に地面へ着地するようなものではない。


【あの一瞬で、それを見抜くなんて成長したね】


「茶化すな。それより、どうするんだよ。このままじゃ――」


【でも残念、君が見ていたのは発動した能力だけなんだよね。能力の内容までは見ていない】


「……どういうことだよ」


 未だに能力研究所からは、感謝の魔女の悲鳴が――怒号が空気を揺さぶる中、触手は楽しげに、それも自慢げにゆらゆらと動く。どうして、そんな余裕があるのかも聞きたいエヴァンではあったが、そこはグッと我慢する。


【君が見たのは、君の中にあったはずの能力の残滓をただ使っただけ。それは『浮遊』というやつだったかな。君には、その『浮遊』という能力しか見ていなくて、どんな内容で発動させたかは見ていないんだよ】


「…………」


 考えても、エヴァンには思考が追いつかない。恐怖を紛らせるために会話に耳を澄ませていたエミルも同じように理解できないのか、首を傾げていた。

 しかし、それでも『勇者』は溜め息つくこともなく、優しげな声で語っていく。


【もちろん。『浮遊』の能力だけではここまで浮かぶことなんて無理さ。そして浮いた後だって、地面に向かって一直線だろうけど、君の中にあるのは残滓よりも強力な能力があるでしょう?】


「……お前、もしかして」


 エヴァンは、試したことはないものの、いつかできるのではないかと妄想していたことが蘇る。過去、思うだけ思って、結局自分には難しいだろうと諦めていたもの。それは思考の掃き溜めに押し込まれたものではあって、エヴァンの中に魂という存在で居座っている『勇者』にしかできないことではあった。


【そこまで言えばだいたい分かったかな? 君の『救世主』を使って、『浮遊』の能力を強化して浮かんだだけのものを、任意でゆっくりと地面へ着地するようにしたんだよ。いわゆる昇華というやつだね】


 この会話を聞いていても、エミルだけは未だに首を傾げていた。無理もない。エヴァンだって、そんな能力そのものをようなことが実際にできるとは思っていなかったのだから。

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