第433話「手紙」


 白銀の少女――エティカが二階の自室に戻れると、一息つく。ただ、部屋の中に漂っている空気がいつもと違うのは、心境の変化からかもしれないが、ふとエヴァンの香りがすると無性に寂しさが込み上げてくるのだ。

 そんな彼女が自然な流れで、ベッドに腰掛け、紅色の瞳がそういえばと捉えたのはエヴァンの使っている枕である。


「……」


 長年使っているからだろう。中にクッションの役目を果たすふわふわの綿か羊毛が入っているはずのものは、くしゃっとぺっちゃんこになってしまうほど、使い込まれている。エティカがローナと一緒に買い物へ行った時から使っている枕とは大違いであった。もっといい枕で寝ればいいのに。エティカは魔人族だから、眠りが浅くとも平気なのに。と、白銀の少女は思っていながら、流れる動きで、彼の使い込んでいる枕へ顔を埋める。


「…………ほへぇ」


 肺の細部にまで染み込ませるように吸い込み、吐き出すのは満足気な溜め息。落ち着く匂いで、ちょっと汗臭い匂いなのも、エティカにとっては臭いと感じるものではない。むしろ、心地よいのだ。


「……はぁ。いや、ダメダメ、時間無いんだから手紙書かなきゃ」


 名残惜しそうに、慌ててベッドから立ち上がり、机へと向かう。しばらくは、嗅ぐことができないからこそ、しばらくは会えないからこそ、じっくりと堪能したかった思いを引き摺りながら、彼女はお気に入りの羽根ペンと、そこそこ丈夫そうで質のいい紙を取り出す。


「……なんて書けば」


 しかし、思いつくことはほとんどない。いや、思いつくのは思いつくのだ。いくらでも、なんでも、無限なほどに。今、エティカが困っているのは、何を書くべきかを悩んでいるのだ。

 羽根ペンを真っ黒な液体へつけては、持ち上げ、つけては持ち上げを繰り返すも、なかなかの妙案は浮かんでこない。なにより、ロイアを待たせることになってしまえば、何を言われるか分からないからこそ、余計に焦燥感がエティカを駆り立てる。しかし、筆は一向に進まず数分間は一文字も書けていなかった。


「……ひとまず、書けるところだけでも書こう」


 そういって彼女が最初に書いたのは【エヴァンへ。】のたった一文のみであった。そして、そこから先に進むことはない。考えても考えても、ああでもないこうでもないの押し問答が自身の中で相撲をとりはじめる。

 難題でもないだろうに。難問でもないだろうに、エティカにとっては、何か意味あるものをエヴァンを助けられるものしたいと思っているからこそ、筆は迷走するのだ。とりあえず、好き勝手書いてしまってもいいのだろうが、それでは紙が無駄になってしまうし、最終的にどれがいいかで迷うのは目に見えているから、この一枚で済ませたい思いのエティカへ。机と紙を睨むような白銀の少女の背後――そこまで豪華ではなく、少し古ぼけた木目の扉から、ノックする音が響く。


「はい?」


「エティカちゃん。失礼します」


 声の主はローナ・テルシウス。紫髪の給仕であった。そんな彼女は、ゆっくりと扉を開き、一礼しながら入室、音もなく扉を閉める。いつもの彼女らしくない穏やかな所作であった。


「ローナちゃん? ロイアさんはどうしたの?」


 ローナの役目はロイアの面倒もとい子守り。白髪の少女が酒を選んでいる間、見守ることであったが、彼女はいつの間にかエティカの部屋に来ていたのだ。


「ロイア様は、今私があげた果実酒を飲んでいるから。準備ができたら声を掛けてとの言付けを貰ってるから、エティカちゃんの様子をみるついでに伝えようと思ったのだけど――」


 そのローナが目撃したのは、机に置かれた紙一枚に、羽根ペン。先なんて真っ黒のインクが滴ってしまうほどに、吸い込みすぎているものが。


「……悩んでいるみたいね」


「うん……。なんて書こうと思って」


 無理もないとローナは心の底で思う。初めて、世界のためにも動くのだから、決意なんてできていないだろうし、そもそもこれから行くのは『魔王』が普段住んでいる場所になるのだから。遠出なんてものではない。エヴァンが救いに行くまでの間、どのくらいの時間が掛かるかは分からないほど、遠くなのだから、何を残し何を伝え、いざという時の糧にしてもらえるようにするのは非常に難しいのだ。


「……そうね」


 しかし、ローナはあまり手紙なんて書いたことはもちろんない。むしろ、手紙を送る相手なんてそもそもいない。だからこそ、適材適所の話をするならば、不適切ではあるのだ。しかし、それでも彼女は少しばかりの提案をする。思いついたように、それでも彼にとっては効果的なものに。


「依頼書みたいに書くのはどうかしら? 冒険者組合へ依頼を出す依頼者が送るようなものにするのは」


 画期的な提案であった。

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