第427話「感謝の怨者」


 もちろん、エヴァンの中にそういった考えに対しての疑いがなかったわけではない。むしろ、疑心暗鬼ではあった。しかし、それを決定づける確証たり得るものが無かったのもまた事実。ゆえに、悩んでいたのだ。

 だから、一瞬の油断とも呼べる思考を止めてしまったのだ。


【エヴァン。これをもう一度言っておくが、困るようなことはない。言ってもいいし、言わなくてもいいが、どうせ相手に心を見られてしまうのなら、全部言葉にしてしまってもいい。それか嫌がらせをしたいなら、別のことでも考えればいい。今日の晩飯の算段を立てていいし、新しい魔術を構築していってもいい。愛する家族のことでも考えればいい。まぁ、そんなことができたら苦労しないだろうがな】


「……分かっているなら、無茶な要求をしないでくれ」


 小さく笑うように、触手はぷるぷると震える。しかし、エヴァンはその言葉に恨みを抱いたわけでもなく、無理難題を突きつけられた不満を口にしたわけでもなく、やはり、『勇者』らしいとさえ感じたのだ。

 彼が『勇者』なのは、生まれた時からの宿命だと思っていたエヴァンであったが、実際は彼は必然のように、当然のように、論理的に考えても、空想上の暴論で考えても、避けて通れない運命のようなものではなく、成るべくして彼は『勇者』たりえた。


【そういうことだ。感謝の魔女。質問でもなんでもすればいいさ。ただ、返ってくるものがどんなものかは分からないがな】


「…………」


 触手からの挑戦的な問いに対して、感謝の魔女は石のように固まっていた体の一部分――頭だけが下を向き、小さく小さな、か細い声だけが床一面を染め上げていくように垂らしていく。


「…………あぁ、羨ましい」

 それは羨望であった。

「…………あぁ、狂ってしまいそう」

 それは妬心としんであった。

「…………あぁ、仲がいいのですね」

 それは焼きもちであった。

「…………あぁ、なんでも持っているのですね」

 それはないものねだりであった。

「…………あぁ、なんでも使えるんですね」

 それは貧乏な心であった。

「…………あぁ、自信があるんですね」

 それは喪失であった。

「…………あぁ、力があるんですね」

 それは非力な叫びであった。

「…………あぁ、魔術だって自由自在なんですね」

 それは自分の持っているものが特別でないことの証明であった。

「…………あぁ、魂だけでもこの世に顕現できるんですね」

 それは今までの研究を全て覆され努力が水の泡に消えていく瞬間であった。

「…………あぁ、信頼できる相手がいるなんて」

 それは羨望よりも。

「…………あぁ、信用足りる人がいるなんて」

 それは妬心よりも。

「…………あぁ、なんとなんと」

 今までのことを無駄にされた無気力以上に、感謝の魔女を突き動かし、感情の全てを揺さぶり人生そのものを崩しかねない衝撃を与えたのは。

「…………妬ましいことでしょうか」


 嫉妬である。


「…………妬ましい妬ましい」


 思わず、エヴァンや『勇者』が黙ってしまい、エミルの目が点になってしまうようなほど、感謝の魔女は変貌していった。

 呟けば呟くほど。吐き出せば吐き出すほど、それ以上に心の内側にドロドロとしたどす黒い感情と、激情が湧き上がっていき、それが彼女を飲み込むのはいとも簡単である。


【ありゃ、意外と心は脆弱なのね】


「いや、そんな呑気なことを」


 ――言っている場合じゃ。


 そうエヴァンは続きの言葉を吐こうとしたものの、怒号が、轟音が、地を揺るがす叫びが邪魔をした。

 音にもならず。ただ、大きな衝撃波のような、周りにいた人間全てに尻もちをつかせるのが容易いほどに、感謝の魔女は大きな大きな、悲鳴をあげる。


 地面は震え。髪は突風に吹き付けられたような勢いで流れていき。衝撃波に面している部分全てが圧を感じてしまうほど。地面で辛うじて呼吸していた男性が、呆気なく壁際まで吹き飛ばされるほどに。

 そして、感謝の魔女の地面が歪な形でくぼんでしまうほどに。

 轟声は、エヴァン達を拒絶する。


「――大丈夫かエミル!」


「……な、なんとか…………」


 まっさきに、エヴァンはエミルの体が吹き飛ばされないように支えながら、ジリジリと感謝の魔女から遠ざかるように後退る。

 しかし、その中でもエヴァンの声が聞こえるのは獣人族の証拠でもあったが、同時に獣人族でなければいい現状でもあった。


「……! エミル、耳が」


「気にしないでください。鼓膜は無事ですから、それより――」


 エミルの綺麗で、もふもふとした可愛らしい耳から血が流れてきていた。耳がいいからこそ。集音のために集中した血管が、感謝の魔女の怒声によって圧迫され、必要以上の振動を受け流血したのだ。

 しかし、エミルの言っている通り鼓膜が破れてしまい、聞こえていないわけではないのが、獣人族としての血が薄いことを誇るべき部分でもあった。

 悲痛な表情には変わりない。


「あぁ、とりあえずこの部屋から出るぞ」


【癇癪起こすなんてな。子どもみたいなやつだ】


「そんなこと言っていないで、魔術でも能力でもなんでも使ってくれ」


 エヴァンが焦燥感に駆られている最中でも、『勇者』は余裕の姿勢であった。それもそうだろう。恐らく、『勇者』はこの場所に触手として存在しているものの、外部からの干渉は受け付けていないのだ。この衝撃波の中でも、口を開けば肺が破裂してしまいそうな危機感を抱いてしまうような中でも、彼だけは平然と漂っているのだから。


【やれやれ、そういうのは所持者であるお前の役目だろうに。仕方ない】


 それでも、エヴァンからの要求に答える『勇者』は不満そうではあるものの、頼られるのもいいものだと言いたげな機嫌で、能力を発動する。

 それも、かなり危険で、とても日常では使えないようなものを。


【口も目も閉じなよ。落としてしまっても知らないからな】


「――」


 その忠告の直後、一瞬にしてエヴァンとエミルの体は上空へと飛び上がったのだ。

 勢いよくなんてものじゃない。

 それこそ、身構えていなければ命を落としてしまうのではないかと錯覚してしまうほどに、大きな王城を易々と飛び越え、更には山々よりも高くにまで飛び出したのだから。

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