第425話「感謝の亡者」


 異様な光景だ。

 見る者がいるならば、そう思うだろう。

 悪魔の仕業だ。

 信心深き者が見たなら、大声で糾弾するだろう。

 エヴァンの胸元から突如生えた一本の触手は、まるでクラゲのように細々と、風も吹いていないのに揺らいでいるのだから。


「…………まさか、ふむ。もしかしなくとも、貴方様は『勇者』様ということでしょうか」


 されども感謝の魔女は、面白そうなものを見れたからだろうか。好奇心に突き動かされた子どものような弾んだ声音で、尋ねる。

 しかし、それに答えられるかどうかの能力が触手に備わっていないのか、ただただ、ゆらゆらと上下左右に戯れているだけに過ぎない。


「…………返事はないですか。それもいいです。それでもいいです。存在を確認できたのなら、それだけで充分ですから」


 感謝の魔女は、答えを得られたのかそう返すと、再び触手が胸から生えたエヴァンへと視線を合わせる。


「…………貴方様の中に『勇者』様がいることは確認できました。それで」


「……それで?」


「…………会話をされることはあるのでしょうか? 存在を確認できたからといって、自分の質問の返答となっていないことは明白でしょう。それに、貴方様は黙っていただけで、悩んでいただけで、答えを返していない」


 それもそうである。

 エヴァンの胸から触手が一本伸びたところで、それは『勇者』の存在が明らかになっただけで、感謝の魔女のしていた質問への返答とはなっていない。むしろ、感謝の魔女は誤魔化されそうになっていると被害妄想を抱いていてもおかしくない。

 だからこそ、エヴァンは何らかの言葉を返そうと口をゆっくり開こうとすると。


「…………いいんですよ。自分が提案していたものでも。質問を投げ掛けそれに答えていく。答えにくければ答えなければいい。そういう条件でも構いませんよ。えぇ、それが一番妥協できるべき点ではないでしょうか」


「……いや、それじゃ――」


 エヴァンがその提案をやんわりと断ろうとすると、胸から生えた透明で、空間との境界線のみが青白い線を描いている触手が彼の目の前に突如、立ち塞がる。

 真っ直ぐ、眼前を支配するように。

 その突然の行動に、エヴァンが吐き出そうとした言葉は止まってしまったが、触手が――『勇者』がしたかったことは、エヴァンに続きを言わせないことであったのだ。


【全く、勝手に話を進めてしまう。そういうのは良くないぞ。俺だって当事者なんだから】


 不意に響く、幼い男の子の声。

 どこから発せられているのか、エミルはその場を見回すものの、周りには呼吸のみを許された全裸の男性達で、男児の姿や声を発せられる人物はいない。

 ただ、エミルがそんな反応をしていても、エヴァンや感謝の魔女は誰が言ったのか分かっている。一切、周りを見渡すこともなく、発声源を探さず、一点に集中する。


「…………無意味に見渡すな小娘。鬱陶しい。ここにいるだろうが」


【感謝の魔女と言ったか。あんた、女性にだけはきつい口調になるんだな】


 感謝の魔女が、キョロキョロしていたエミルへ怒号にも似た威圧を掛けて、エヴァンの胸から伸びた触手へ向けて顎で促していたが、その様子を『勇者』は言及したのだ。


「…………いえ、これでも優しい方ですよ『勇者』様。殺していないだけ、温情を掛けていると思っていただけてもいいくらいに」


【そっか。まぁ、そういう思想やらなんやらは興味が無いからいいや】


 感謝の魔女は頭を下げるものの、それを本当に無関心な声が叩きつける。

 その一連の流れを見ていたエミルであったが、なぜそのようなことが起きているのか、不思議でたまらない表情をして行く末を眺める。

 ここで何か介入してしまえば、自分を庇ってもらっている『勇者』と呼ばれる触手に無駄な仕事を与えてしまう。そう思えば、口を閉ざし、それでも恐怖にある中でも好奇心はあるのか、頭の中ではどうして声が出ているのかの解明へと向かっているのだ。


「…………それで、『勇者』様。当事者だということは、何か意見があるとお見受けしましたが、何か提案でもあるのでしょうか?」


【いや? そういうのはあんた達ですればいいだろう。別段


「…………では、『救世主』様に聞けばいいのですね」


【あぁ、ただそうだな。あんまりファ――エヴァンだけに任せてしまうのは良くないからな。あんたの邪魔だけしようと思っただけさ】


 その言葉に感謝の魔女は睨みつけるかどうか微妙な表情を作っている気配が漂う。実際、悪餓鬼のような発想をしていた『勇者』の言葉にいい思いなんてしないだろが、ここまで丁寧にしてきたからこそ、ここで覆し崩してしまうのは、非常にもったいないと判断したのか。感謝の魔女は、触手へと向いた視線をエヴァンの双眸へと向ける。

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