第420話「感謝の体現者」


 飲み込めない言葉はどこへ向かう。

 理解できない出来事はどこへ浮いていく。

 ここまで、悪戦苦闘しながらやってきただけでも、褒められたものであったはずが、エヴァンとエミルが目の当たりにしたのは、冷酷な世界の欠片か。

 それとも、残酷な感情の断片か。

 激情に任せて、振り乱してしまえばどれほど楽だったか。どれほど、楽に死ねるのか。

 それを想像するのは容易いエヴァンであったが、ここで浸るべきは衝撃を受けた時の自分の心の行方ではなく、打開策を考えることである。

 打開策――つまりは、危険な場所の中でも、という提案にエミルが危機感を抱いていなくとも、体が動いた理由。それがある以上、すること自体を避ける方法を模索する必要があるのだ。


「機能しないて……どうやって、そんなことを」


 脳みそを動かすには時間が必要。考えを浮かべるには、時間が必要。それをまとめるのも、それを形にするのも時間が、圧倒的猶予が必須となる。

 そのための、質問。

 そのための、時間稼ぎ。

 友好的かつ、有効的かつ、相手にも筒抜けな博打の方法でもあるのだ。


「…………簡単です。貴方様が通ったあの見えない壁――そうですね。きっと慈善の魔女によって通ったあの門に、ちょっと細工をさせていただきました。なにも、通れる人間を制限するため以外の側面を持たせるために、ね。あえて、面倒くさい方法を取った次第です」


 慈善の魔女によって、教えてもらった侵入方法は、何一つ穴のあいていない門を通り抜ける方法は、あくまでも本質を隠すための建前に過ぎなかった。


「…………おかしいとは思いませんでしたか? 敵からの侵入を拒む門にしては杜撰だと。外壁を登って侵入だってできますし、いざとなれば空から飛んでくれば門なんてそれこそ無意味となります。それでも、歩いてくるであろう人物に、それも門を通りたがる律儀な人間だけを狙ったような門にしたのは」


「…………罠だったと」


「…………厳密に言えば、自分のいるところが罠と言えますけども、まぁその通りでもあります。あの門を潜るためには、何か一つを必要があり、貴方様はそれを置いてきただけに過ぎません。罠というよりかは、通行料を払っただけと言えますね」


「……それが、予感だと」


「…………予感というよりも、危機感。高いところに登れば、落ちた時のことを想像し。刃物で肉を切れば、指を切ってしまうことを考え。病気になれば、悪化して死んでしまうことを悲観し。『魔王』に殺されてしまうかもしれない世界に絶望する。そんな危機を感じないように、だけです」


 感謝の魔女は、微動だにせず。

 髪も揺らしている様子はないはずが、なぜか毛先が徐々に。床一面に散らばったボロボロの髪の毛の先が、エヴァンへと集まっていくように、動き始めていた。

 ゆっくりと。蛇が這い進むように。


「それは、俺たちを捕まえるために……ですか」


「…………いえ、捕まえてもいいんでしょうが、それをしてしまえば勤勉の魔女に怒られて殺されてしまうので、自分達が与えられた役目はそういった目的は含まれていませんよ。残念ですがね」


 心の底から残念だと思っているのか。溜め息混じりに吐き出す感謝の魔女。しかし、彼女の言葉に反して、光に照らされたどす黒い髪の毛は、エヴァンの体へ向かって進軍を続けている。

 それが分かっているからこそ、エミルも立ち塞がったまま。手を真横に伸ばし、エヴァンへと触れられないようにして、従者の務めを果たそうとしていた。


「…………言ったでしょう。自分がしたいのはエヴァン・レイ。貴方様と貴方様との対話だと。もし、それを邪魔されるのならば、それが叶わないとなれば、自分にも役目を果たさなければいけない責任もありますから、実力行使も辞さないのです」


「……分かりました」


 エミルの後ろから、低く、いつものエヴァンの声より少し雰囲気の違った声音が飛び出す。

 その言葉に思わずエミルは必死の形相で振り向くが、そこにいたのは先ほどまでの恐怖が見え隠れしていた怯え気味の青年ではなく。


「対話、と言いましたね。それが目的で、それ以上を求めてこないのならば、何も危害を加えてこないのなら、対話を、話をしましょう」


 未来を見据えた、希望を宿す、人々を救う勇者のような姿であった。

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