第419話「感謝の被験者」


 感謝の魔女は、足元に転がっている辛うじて息をしている男を跨ぐと、徐々にエヴァンへと近づいていく。

 彼女は対話を求める。そのために、近づくのが最適だと結論を導き出したゆえの結論だろうが、その行動はエヴァンを後ずさりさせるには、充分すぎるもので、二人の間の距離は一切縮まることはなく、寧ろ、間に一つの影が割り込む。


「…………何をする、クソ。邪魔だどけ」


 先ほどまでの丁寧な言葉遣いはどこへやら、介入してきた者に向かって暴言を吐きつける感謝の魔女。

 割り込んできたのは、誰でもない。他でもない。


「……い、嫌です。エヴァンさんにこれ以上近づくのは、駄目です。これ以上近づくつもりなら、私が犠牲となってこの人を逃がします」


 エミル・ポセンド。

 赤毛の髪を逆立てる勢いで、警戒態勢の彼女が割り込んで、間に入って、エヴァンの身の安全を確保しようと感謝の魔女の前に立ち塞がったのだ。


「エミル……!」


 その姿に、エヴァンは焦ってエミルの行動を案じる。

 相手は感謝の魔女で、人間を実験体にしようと苦しくも思わない倫理観が欠如した対の魔女なのだから。

 だから、エミルの行動そのものはエヴァンの脳内を真っ白にさせるには充分で、同時に過去の記憶を想起させるのに容易い状況を作り出した。


 ――殿をつとめるつもりでここにいる。


 決意に漲った琥珀色の双眸が描いたのは、そんな覚悟の言葉。エヴァンを貫き、エヴァンの気持ちをなんとしてでも二人無事に帰ることを最優先にさせた行動。言動。

 彼女は、まさしく、その通りにしようとしているのだ。エヴァンの思い描いていた楽観視よりも、冷たい現実を見てしまった危機感から。


「…………エヴァン・レイ。どうかこの邪魔くさい小娘を退かせていただけませんか。お手数をお掛けするのが申し訳ないので、自分が手を下すことも可能ですが」


「少し、時間をください」


 エヴァンは慌てて、エミルの手を引っ張り自分の近くへと寄せる。

 その様子に、感謝の魔女は一瞬だけ不穏な気配を漂わせるが、エヴァンの手が離れたことを確認するとその気配は一瞬で消え去った。

 しかし、問題は、エミルの行動。勇気ある言動である。


「……エミルなんで、どうして」


「……申し訳ないです。せっかくここまで来られたのに、これまでのエヴァンさんの勇気やら覚悟やら苦労を無駄にさせるようなことになってしまって」


「いや、そんなことは――それより、なんで。嫌な予感がしたからか?」


 小声で、エミルとの会話を行うエヴァンであったが、彼女がなにか危機を感じ取れば逃げることは事前に決めてはいた。しかし、エヴァンにとって危機感は一切無かった。それも、対話という危険とは程遠い方法に、彼女が今までの出来事よりも危険だと判断した理由が知りたいのだ。


 しかし、エヴァンからの問いにエミルはゆっくりと首を横に振ってしまう。それは、否定を意味し、そして残酷な現実を突きつけることでもある。


「……んです……。嫌な予感も、身が凍える恐怖も、脳を揺さぶる警告も、足が竦むような現実も、一切」


「…………え」


「おかしいとは思っていたんです。慈善の魔女様に会った時も、節制の魔女様に会った時も、ここに入って気を失いかけた時も、実験体だと言われた男性を目撃した時も、廊下を歩いている時も、この部屋を目の前にした時も、中に駆け込んで行った時も、暗闇の中にいる時も、今感謝の魔女様と対面していても。

 一切、んです」


 頼ったものが機能していない。

 頼るべきだったものが、いつの間にか効果を発揮できないものとなっている。

 獣人族特有の危機感が、一切、無くなっている。

 それは、今までの中に引き返すチャンスや、機会、絶好の場面があったはず。それを逃し、自ら危険な場所に裸で突き進んでいるのと一緒であった。


「……それって」


「…………気づくのが遅いですね。エヴァン・レイ」


 エヴァンとエミルの会話を盗み聞きしていた感謝の魔女は、口を挟む。先ほど、エミルに邪魔された仕返しだと言わんばかりの、怨嗟を声に込めて。


「…………貴方様が、ここに来るまでそちらの小娘のとやらは、機能しないようにしております。いえ、厳密に言えば、自分とエヴァン・レイが対面するまでの限定的な効果ではありましたが、貴方様がここまで来て頂けたので、結果としては成功といえるでしょうね」

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