第1話

 一人として外の空気を吸わない晴天下、私は先月買って以来ベッド下に放置していた仮想世界ターミナルを取り出し、蟀谷に差し込んだ。周り、と言っても友達は一匹たりとて居ないのでメディアに聞く限り、脳味噌に直接埋め込むのが楽と言って身体変工を持て囃しているらしいが、私みたいな人間の精神世界に交わればありがちなバグが天国へと誘うだろうから、分離式を購入した。

 無知から味わう知の旨さを知る私は下調べを最低限に留めながら、挿入した感覚は確かに出血時にも似たエクスタシー、白目に泡を浮かべたまま気付けばこの世界に居た。目が覚めるなり能良のら犬湖いぬこと言うらしい彼女と出会い、開始早々話し掛けられるという想定外の幸福に流され、無償のツアーガイドを依頼している。このボランティア精神、皮肉抜きに私には到底真似出来ない。何年から何人に向けてその愛を振り撒いてきたのだろう。

 事に至った理由は創作に尽きるが大別すれば三つあり、第一は意識の表現が可能になると踏んだから。意識とはプラグインした脳だけでなく身体、環境含めた内にある得体の知れない物、という通念を飛び越えて強い自意識のある私は仮想表現で人類をリード出来るという自信があった。具体的には考え無し、強いて言えば私自身が既に作品だけど。第二は高次の表現が可能になるから。これまで私はただ只管小説を書き続ければいつか必ず報われると信じて、躁鬱を繰り返しながら活動してきた。しかし運の悪さ故何年経っても状況は変わらず努力の方向性を反省した結果、芸術全般に対する愛着を自覚し、高度で虚構的な表現を取れる仮想世界はこれ以上無い理想郷だと分かった。最後は宣伝になるから。仮想世界サービス開始より数年しか経たない今、人口の一パーセントも体験していない媒体を先駆的に触れること自体価値となり、そこで繋がりを持ち作品を発表出来れば、一人パソコンに向き合うだけだったあの日々とは比較ならない宣伝効果が実感されると思った。あまりビジネス的な凡人思想に耽りたくはないけど私の価値を歴史に残したい以上、最低限の妥協は要されてしまった。

 他には仮想作品を見物したい、好い加減実在人物と話したい等と言った細々した目的を用意しながら、この場の創作において文芸は凡そ役に立たないだろうけど、あくまで私は小説家として創作の未来を志す。下らない伝統価値に囚われた身だとしても、やはり私は言語表現の感性が最も秀でていると自覚するから。情報を自然言語の介入抜きに授受、記録出来る今や識字率が下がって当然とは思うけど、作品媒体としての文字の価値は薄れるべきではないしそう簡単に薄れるような物ではないと思われ、どうにかして読書、脚本、物語性と言った要素を、その方面が恐らく十分ではない現状に取り込めないか考えている。だが上手く進まなければ私が最後の小説家になるやもしれず、それはそれで良い響きなので構わない。仮想世界の外側から更に新しい媒体が出現しようと、私が生きて意識を表出する限りその再現に向けて挑戦する。それが言葉を通じて実行出来れば私にとって都合が良い、それだけだ。

「ここはワールドQwi_0etbnの中心部、Qwi_0etbn2016、2017、2080、2081を周囲とする、現実世界から初めて転入してきた者が目覚める場所」

「画像上では何度となく見た景色ですけど、実際に降り立つと自分の身体に仮想空気が纏わりついて、当事者意識が違いますね」振り回した頭から把握するのは奇抜なビルやスタジアム、既存の空想科学やサイバーパンクを生真面目に踏襲した世界観で、私がプログラミングすればもっと胸を躍らせたり沈めたり出来るのにと思った。尤も不自然な言語は只今勉強中で、近い内に革命を起こしてやろうとは企んでいるけど。それは兎も角この世界でも流動感ある呼吸、意識が出来ると分かってまずは安心した。

「先程現れていたパネルはどうやれば出せます?」

「肘関節を広げた状態で人差し指を三秒間突き出せば表示される。ここではプロフィールやログイン状況、累計在仮時間と言った住民情報、フレンドリスト、メッセージリスト、ワールドマップ、設定等の確認が出来る。関心を惹こうとして長文駄文の自己紹介を作り上げる人が偶に居るけど、どうせ注視されないからパパっと済ませれば良いよ。はい、フレンド申請」

「あ、有難うございます」烏を模るマークの通知を見ると、夜祭のように如何にも明媚な闇を背に右眼を広げる彼女がアイコンに映る。対する私は戦後兵士のように棒立ち無表情、面接会が開かれれば一次審査落ちは間違い無いと思った。

「パネルと同一平面上をタッチすれば閉じる。全体ワールドは六十四掛ける六十四の四千九十六地区に分かれていて、ノースウェスト、ノースイースト、サウスイースト、サウスウェストと大まかに地域毎の特色があるけど一聞が一見に勝つはずない。サウス方向から時計回りに散歩しよう」犬湖は垂らしていた手を背後へ伸ばしたかと思えば、私の腕を奪って晴朗に足を踏み出した。仮想世界初の接触は生身より温かいとさえ感じた。デビュー早々こうして御膳立てを受けるとは想定していなかったので、嬉しいような面倒臭いような、贅沢な感情を抱えて付いていく。

「その前に、君の住所は何処?」

「……………………つくばの方ですけど」虚を突いた質問に私の中の微々たる常識が髪を引っ張ったが、現実情報に最早大した価値は無いと割り切って告げた。

「ふむふむ、つまりあの辺りか」私も犬湖さんの個人情報が知りたいです、という冗談は通じるか怪しかったので控える。

「それは置いといて、歩きながら仮想世界解説の続きをしよう。ワールドには全体ワールドと個人ワールドの二種類があり、今わたし達を包んでいるのが約四千地区ある全体ワールド。このワールドの外に何があるかと言えばまた別の全体ワールドで、Qwi_0etbn住人のわたし達が境界を超えることは不可能。ノース64を訪れた際には確かめてみると良いよ」

「私達は檻の中に居る訳ですね」

「だけど閉所恐怖症を引き起こすには広過ぎるね。個人ワールドは全体ワールド内にてそれとは別次元の空間として作られ、五段階のアクセス制限を設定することでセキュリティを守ることが出来る」

「セキュリティが必要とされる程裏社会にも浸透したのですかね。最先端で牧歌的な風土のイメージがありましたけど」

「危険は予め排除しておく管理人の周到さだろうよ。因みにこの世界でも仮想身体の自由の観点から自他共に傷害可能、死ねば現実に引き戻される猶予無く天国への直行便に乗る。流石にご存じよね?」

「それは知っていますけど、例えば転入直後に犬湖さんが仮想ナイフを振り下ろしていたら私に抵抗する手段はあるのか疑問に思えます」

「この世界はどのワールドだろうと常時全域で監視映像が記録されていて、事件が起きた際には仮想警察が調べ上げるから殺人を侵す馬鹿は居ない。オブジェクト盗難、誹謗中傷を始めとした軽犯罪も二回警告でアカウント抹消となるけど、性格面に難は自覚される?」

「受精卵時代から清廉潔白なので全く問題無いですね」

「それなら健全なコミュニティを築けそうだ。実は振釧ふるくしさん、Qwi_0etbnの仮想警察、に案内序でに為人を見極めて欲しいと頼まれて趣味と実益を両立し始めたの。無報酬だけど。チップくらい寄越せっての」そんな彼女の財布事情を覗こうとパネルを開いたが仮想口座は見当たらなかった。しかし悪口が一度しか許されない世界とは、表現の自由に不安を感じてきた。

「アクセス制限の段階に話を戻すと、レベル五は自分のみを出入可能とし、レベル四は自分と許容した他者まで、以下許容者と命名すると、レベル三は自分と許容者の許容者、即ち二次許容者まで、レベル二は自分と三次許容者までが出入可能、レベル一は完全出入自由の公共領域となる。四次以降は設ける意味が無に等しいからね。仮想警察には関係無い話だけど。他のアクセス条件として、全体ワールド初期開発時に配置されたアクセスポイントを自分も他者も視認する要件がある。例えば住居モデルの場合、外観は全体ワールドに属するオブジェクトだが中身は独立した個人ワールドで自在に装飾され、アクセスポイントの玄関が視えた地点でその中へ飛ぶことが出来る。設定は二十四時間の間隔を空けてアクセスポイントの可視範囲に居ればいつでも変更可能」

「へぇ、ボタン一つの直帰は叶わないのですね。そうするとレベル五か四が無難な気がしますけど」

「実際半数弱の人はそうしているけど、イベント運営等で交流の幅が広い人達はレベル二、一と開放していることが多いかな」

「この世界でまで人肌を求めるのですね」現実に絶望し切った人間が集まる場だと思っていたけど。

「君も求めに来たのでしょう?」

 そう言われてギクリと汗が噴き出る様を客観視した。


「…………さて、ここまで歩けば分かるように一地区縦断に徒歩二十分は要され、このままブラブラする限り夜は四回以上迎えられる。あ、太陽は無いけど昼夜は切り替えられるから」

 渋谷、池袋、秋葉原辺りに産毛が生えたような想像通りの造形が続いて、他の連中はこれらに態々感動する演技をするのかどうか、という思いの裏側にある悩みを代弁してくれた。

「そこで出番となるのが仮想能力の一つ、テレポート。わたし達はアクセス許可地において視認する先へ自在に瞬間移動出来る」

 手を上げて、言うと瞬きする間に彼女が消えた。地平線へと吸い込まれたかと思って屈めば、私の左肩に重みが加わった。

「びえうゃっ」

「うわごめん、そんな驚かないでよ」私の性格にそぐわない声を漏らしてしまった。体勢は同じだったけれど最後にチラリとこちらを視たことを失念していた。

「……次、私に仕掛ける時は十メートル離れた前方からお願いします」

「えへへごめんて。やり方は、目的地を視認しながら片手の親指と人差し指を立てて手首を振る。所謂拳銃を打つポーズね」

 言いながら構えた見本に従って彼女の後ろへ指先を飛ばすと、記憶の境目無く視界の異なる場所に居た。ほぅこれは色々と応用が利きそうで、現実で使えないのは勿体無い。よし復讐するぞと手を伸ばすより先に彼女はクルンと振り返り、私に微笑んだ。

「引っ掛かる訳ないでしょう?こちとら草創期から在仮しているのだから」

「冗談ですよ、冗談」

「しつこい煽りは減点対象だぞ。全体ワールドに境界がある限り仮想警察から逃げられるとは考えない方が良いよ」考える訳無いけれど設定画面を開くと「退仮」の二文字があったので最悪これを撫でれば良い気がした。

「具体的なテレポ範囲はある程度の明視が必要で、現実と同じ前方水平百二十度、距離にして精々百メートル前後か。当然視力、天候、昼夜に影響を受ける」

「雨降るんですか」

「偶にね。その日は人通りが減って経済的デメリットしかないと思っていたけど、最近考えが変わって、晴ればかりだと人間の心は狂ってしまうのではないかと想像した。この辺の話は何処かの誰かが訴えている気がするからこれ以上は止そう」

「現実の二番煎じみたいな現象ばかりですね。それは良いとして視力を増強する装置が売っていたりはしないのですか?」

「無限の広さではないから要らないと思うけど、この先にはあるかもしれない。という訳ではい、レッツテレポート」ジェスチャーする彼女に合わせて私も恥を忍び、瞼を狭めて遠くへ飛んだ。着いた場所は五歩分のズレ、これなら置いてけぼりになることはないだろう。もう少し飛ぼう、という誘いを受け入れて続け様に六十回程テレポートする。

 そうして新たな視界には目立ちたがりの景観とは一風変わり、より現実的でファッショナブルな街並みだった。人集りがあちこちに沸く店には仮想感のある看板や商品が覗けた。

「最初からテレポートすれば、と不平を言うかもしれないけどこれでテレポートの有難味が分かったでしょう?」

「有難味と同時に車酔いに似た酩酊感を覚えました」

「今日中にも慣れるだろうよ。それでここ、サウスウェストはアバター関連の産業が光り輝く地域。店先や店内でアバター・衣装の試着、購入、レンタルが出来て人通りは常に多い。夜は居酒屋エリアがライトアップされて黄土色の声と雰囲気に変貌する。他にも個人ワールド制作に役立ちそうなグッズが目白押しだから、困った時はここに来るべし」

「確かに情報収集にはピッタリですね」成るべく自家製オブジェクトに覆われて生きていたい私が金銭を差し出すかは別として。「ギャハハ!気持ち悪ぃ!」と叫ぶあの兎アバターのような人格形成に至るとしたら関わり合いにはなりたくない。設定でボイスを切れば良いか、と思ったが善良市民まで無視することになり別問題が起こりかねない。

「特定の相手をブロックしたりミュートしたり出来ますか?」

「それが出来ないのだよね。メッセージやアクセスは選り好み出来るけど、路上の出来事は揉め事に発展しかねないから仮想警察の仕事となっているの。だから君はわたしから逃れられない、という冗談」

「逆も然りですね」しかし飲み会ね。酒まで現実から輸入して定着するとは無芸なこと甚だしい。仮想世界であろうと自意識過剰な私が無礼講の場に馴染めないのは、この時点で分かり切っていた。

「アバターについて説明すると、住民情報にデフォルトや購入済みの全アバターが掲載されていて、選択すれば直ぐに変更が適用される。アバターに関する制限には三方向二メートル以内、透明アバター不可、その他法的事項があるから、巨神兵となって街を蹂躙する悪夢は夢に終わる。アバター頭上には必ず名前が表示される」見上げると確かに私の本名が晒されていた。

「初期状態の君は現実の容姿をデフォルメしたものであるはずだけど、簡素な造りだから個性を出すにはオーダーメイドなり改変なりした方が良いよ。ただ現実とあまりに異なる体格は事故の元だから、初めは身の丈に合った人型がお薦め」改めて窺う周りには人型のアバターが多く、お化け屋敷に勤務していそうな者は一割未満に留まった。もっとカオスなパレードを思っていたのに同調圧力はここまで侵略したのかい。

「これでは新参者として差別されますかね?」

「直接口にはしないだろうけど変えた方が友達は作りやすいと思う。わたしは購入した物を改変ショップで弄ってオリジナリティを高めた」と言う割にはそこまで目新しくはないので、三次元表現さえ掘り出す余地は残っていないのかと思ってしまった。

「どうする?今からショッピングする?」

「……いや、やはり自分で創りたいので先入観は未然に防ぎます」

「お、造形師希望?良いねぇ将来有望」

「あはは」そうではないけど何も考えず笑った。店先の浮遊する鏡に私が映り、自分より先に犬湖に姿を視られたことを思い出す。私自身は気にしないけどこれが世間の思想に合わない容姿ならどうしようかと、懸念が増幅した。

「静香さんは何故この世界に来たの?」

「あ、いや、実は私小説を書いているんです。だけど全く認められず、現実世界が生き辛くなった先に仮想世界の薫りを嗅ぎ付けて、前人未踏の文章を絡めた活動を創始しようと思い立ちました」意識の件まで深入りするのは避けておいた。

「へぇ小説か。美術、音楽、演劇系の人は多いけどそちらの方面は少ないかもしれない。だけど文字の学習が必須ではないこの地で成功するのは難しいだろうよ」

「普通の人はそう思いますよね。それでも私は挑戦したいのですが」休み時間の図書室とは縁遠そうな犬湖はほぉん、頑張って、と愛想笑いで応じてくれた。一般に知れ渡っていない現状が最大の原因だと思うけどね。

「仮想世界についてはどれくらい知っている?」

「メディア越しに認知する程度です。五年前から噂には聞いていましたけど、積極的に情報収集を始めたのが先月以降、能力の発動モーションなんて知り得ませんでした」当時は小説だけ書き続ければ良いと信じていたから。

「環境構築はしっかりしているけどまだまだ狭い世界だから」

「このワールド人口が幾らくらいか分かります?」

「んー、二千人満たないと思う。つまり居住者零という夕張以上の過疎地区、規模は違うけど、それが特にサウスイーストに集中して存在する。少子化さえ止まれば今後継続して人口増加するだろうし、上下座標の縛りが無いから過密になる恐れは無い」

「そんな狭い世界に、犬湖さんは何故転入したのです?案内、交流の為?」

「それはわたしのデリケートな部位に抵触するから、また今度話そう?」

「ご、ごめんなさい」

「一つ言えるのはわたしが七年前、この世界の狭義の幕開けから仮想生活を続けて、毎日新しい住人を迎え入れているということ。じゃあまたテレポートしようか」彼女は静かに指を差して消える。


「ここがノースウェスト、居住施設、食品館中心のベッドタウン。言わずもがな食事は活動効率に直結するから摂るべきだよ。タワーマンション等の装いは華やかだけど閑静さが実情、さっきまでと比べると面白くないかもしれない」

 ベクトルを変えながら四百回近くテレポートした先には、黒やブルーで恰好付けた建築が密集していた。仮想世界の輪郭が益々リアルと化し、異なるのは交通手段の有無くらいではないかと悟った。

 休憩がてら五分の間散策した後、「つまらないからノースイースト側に行こうか」犬湖から正直な感想文が提出されると、目まぐるしく視界をコマ送りさせた。辺りは夕暮れ時、何にせよ地区一周には手早いテレポートが要求された。

 約百二十回で半分ゲロを零しながら頭を持ち上げると、持続していた洒落気が崩れ、面白味に欠ける二十階建てのマンションが眼前に建っていた。今になって仮想世界だろうと夢溢れるのは都市部だけ、予算の付かない地方はビジュアル的に手抜き、つまり人工知能か何かに作らせた造形を採用しているのだと気付いた。

「ここが静香ちゃんの住むマンションになります。えー、地区名は213か」突然犬湖の口から重大発表が行われた。

「何故犬湖さんが私の居住予定地をお知りで?」

「現実と仮想の住所は大まかに対応しているからノースウェストのこの近辺とは初めに分かった。テレポートで遠回りする間に振釧さんに連絡して正確な位置を教えてもらった。これも案内人の役目さ」おいプライバシーはどうなっているのだ。寧ろこの次元に至るとそんな概念下らないのか。何より犬湖と出会わなかったら路肩に迷い続けていただろうに。

「ずっと気になっていましたけど、退仮をしたら私の身体はどうなります?器が残るとしたら怪しい奴に襲われたりしません?」

「その為に仮想住所がある。どうしても怖いなら定時にアクセス制限をレベル五にすると良い。退仮すれば動作停止するので寝床で眠り始めた上で退仮するか、そのまま眠り続けるのが薦められる。後者を選んで二十四時間在仮する人が大多数だけど。何にせよ睡眠は取らないと現実の身体に支障を来すから注意しよう」道理で徹夜で一万字書き切ったような疲労感が足元から昇る訳だ。

「居住について一応説明すると、仮想世界住人はアカウントと住民票が紐付けられ、居住空間のアクセスポイントへ割り振られる。引越しでもしない限り外観は変更出来ない。部屋に入れば葡萄色のゲートが出現し、入居者情報とアクセス制限の登録が求められるから指示に従うこと。部屋は空いているなら何処でも良いはずだから早速適当に選びなさいな」背中を押されて、私と市民のどちらを馬鹿にしているのか分からない施設を、下手に華があるよりは良かろうと解釈する。

「じゃあ三階か四階にします……」部屋まで特定されてあげようと階段を上る手前、犬湖が制止する。

「わたし達にはもう一つの能力があるの」そう言って右手の親指と人差し指で摘まむような仕草をすると、彼女の黒い靴底がコンクリートに別れを告げた。透明な靴のアバターに変えた訳ではないのは三階まで昇り詰めたことから明らかだった。

「私達、浮けるんですか」自分の持っていた潜在性に恐怖が浮き出る。

「空中にはテレポート出来ない代わりに浮遊が出来る。やり方はこの通り、進行方向に合わせて指を摘まむ。上昇、落下共に等速なので怪我の心配無し」上から目線で平然と言う彼女だが、今まで目に留まらなかったのは必死にテレポートを続けてきたからか。それとも景観上の問題で蠅のように飛び回るのは忌避されるのか。人間の創り出した物より人間自身の方がロマンに溢れているのは意外だ。

「よいしょと…………これで基本中の基本は教えられたかな。後の手続きは好い大人の君なら出来ると思うから任せる。今日はもう暮れてきたから半周で終えておこうか。もう半周はお互いの都合が合えば明日にでも、メッセージで呼べば直ぐ迎えに来るから」

 降りてきた犬湖はふぅと深呼吸して「お疲れ様」笑い掛け愛嬌を絶やさなかった。真赤な他人の初体験に半日掛けて付き合ってくれるとは、彼女の活動は下心を切り捨てた真の慈善事業だと分かると同時に、何か彼女のことが気になり出した。

「あ、言い忘れていたけどメッセージはアクセス制限関係無いからドシドシ送り付けて良いよ。じゃあ今後こそ、お疲れ様」最後に振り返って手を空に掲げる彼女。

「有難うございました」

 言い切るより先に赤髪は夕焼けに消えた。彼女が何処に住んでいるかを聞いておけば良かったと後悔しつつ、三階最奥の部屋の空きを確かめようと進むと、黒髪のすらりと伸びた女とすれ違う。その香りの刺激から早く退仮したいと急かされた。

 他人と話したのはいつ以来だろう。本来の対人能力欠損を隠して流暢に会話を運べただろうか。取り敢えず、デビュー戦は勝利と見なして良いではないだろうか。

 ターミナルを引き抜いた。

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