第48話 変化
家に帰ってシャワーを浴びた。リビングに入るとアリサはじっとテレビ画を見つめていた。その内容はニュース。夕方のニュースはどこも同じ内容。街一つに響き渡った謎の轟音。そして住民が一斉に三十分程度意識を失っていたという大事件である。
道路のあちこちでは事故が発生。火災が発生した家もある。他にも色々な事故が。沙良の無事を確認して帰るにも公共交通機関は一斉に麻痺を起こして回復の目途が立たず、パトカーや救急車や消防車、報道機関の車とすれ違いながら帰った。
アリサが無かったことにできる範囲を余裕で超えていた。
「……今からでも!」
「どうする気だよ」
「治療して回る」
「無茶だ。魔力の回復はまだ……」
「けれど!……けれど」
魔力の感じ方が変わると、アリサの魔力ですら微細ながら変化を感じられる。濃密な魔力の層。その僅かな乱れを今の俺は感じている。
普段のアリサの魔力はある時は清流である時は鏡のように澄んだ湖で。
「アリサ、明らかに本調子じゃない」
どこか異物が混ざっている。青々とした木々の葉に数枚の紅葉が混ざっているような。微かな違和感だ。
「なんか変な魔力混じってないか?」
「そう。そこまでわかるか。……ドラゴンの魔力を少し取り込んだせい」
「ヤバいのか?」
「ヒトには強すぎる」
「……世界の狭間にある純度の高い魔力のようなものか」
「原因としては対極の位置にあるけど。純度の高い魔力をドラゴンの魔術で活性化させてる」
瞬間、頭の中に浮かぶ知識。世界の狭間と自身の魔力炉の間にパスを作り、直接魔力を取り込みドラゴンの魔術で活性化させ自身の魔力とすることで、無限の魔力を得るための技術。
ドラゴンですら世界の狭間の魔力はそのままでは扱えないからこそのワンクッション。
強い魔力による魔術は扱いは難しいが強力なものになる。
なんなんだこれは、本当にドラゴンの魔術とやらの知識が俺の中にある。足し算や引き算みたいに幼稚園の頃から使っている馴染みの当たり前の常識のように刷り込まれている。
自分の身体をドラゴンの魔術が使えるように作り変えれば、俺はアリサにとっての無限の魔力炉になれるのか。
アリサが考えた術式を俺が実行する。魔力量があっても出力が足りなければ意味は無いか。いや、この理論なら俺自身の魔力出力も上げられる。アリサとぶつかり合えるくらいには。いや、もしかしたら押し勝てるかもしれない。
そう、ヒトであることを捨てれば……捨てれば……。
「タクミ」
「ん?」
「沙良の様子を見てくる」
「あぁ……うん」
アリサの足音が遠ざかっていく。魔術が起動する気配はアリサが認識阻害を自分に施したのだろう。
顔を抑える。なんで俺は今、真剣にヒトとしての自分を捨てようとしていた。それを実行してどうするんだ。アリサやティナさんを元の世界に返した後のことを考えていないのか。
己が身をドラゴンに近づける。血を浴びたことで……血を取り込んだことで俺はいつでも自分の身体を作り変えることができる。
はっきりと感じていた。自身の身体の奥底に確かに住みついた、ドラゴンの因子を。そして囁く、力が欲しいのならと。
囁く、身体の奥から囁いてくる。
より強い力を。必要だろう。世界を超えるのならと。
浮かんでくる映像。空の上。下に見える街。ドラゴンはそれをただ一度の攻撃で瓦礫すら残さず更地へと変える。ただちょっと深くため息を吐くような感覚で。
また映像が見える。
陣地を敷いているのは魔術師の集団だ。何層にも結界を張り巡らせ、その向こうで魔術師の集団が攻撃魔術を詠唱している。
ドラゴンはそれを退屈そうに見下ろしている。避けようとする気配もない。
光が世界を焼く。光は収束し真っ直ぐにドラゴンに向かう。ドラゴンを飲み込む。
光が収まり白く染まった世界に色が戻るが。ドラゴンは変わらず悠々と飛んでいる。魔術無効化の術式が即座に修復され、魔力障壁は徐々に修復されていく。どうやら魔術無効化の術式にも処理限界のようなものがあるらしい。全身に施したそれの八割を破壊した魔術師の集団は魔力切れで顔を青くしながらも己の敗北を悟り逃げ始める。
ドラゴンはため息を吐く。それで十分だった。落ちていく魔力の砲弾。近づく全てを蒸発させるような熱を持ったそれは地面に着弾した瞬間に炸裂する。再び光に包まれる世界。
風に乗って火の粉が舞う。残り火で空が燃える。さながら終末の景色だ。
活性化した魔力が暴れた結果だとわかった。
世界の狭間で巨大な魔力の塊の衝突によって起こる爆発による魔力波や膨大な魔力の滞留によって起こる魔力嵐が世界に影響を及ぼす魔力災害、それがどういうものなのかよくわからない。だが、今見えている光景もまた魔力災害だとわかった。
ありえない現象だ。空間が燃えているのだ。科学で説明できるのだろうか。
気がつけば視界一帯が炎の嵐に包まれていた。収まる気配はない。だが今見ている光景はドラゴンの記憶だといい加減理解した。先百年はこの炎の嵐は収まらないと。そして燃えているのは空気でも空間でもなく、この辺一帯に満ちていた魔力だと。活性化した魔力が燃え、別の魔力を活性化させ燃え上がらせるという反応が収まるのが百年後だ。
これがドラゴンだ。環境すら作り変えてしまう力。ドラゴンが暴れる。それすなわち魔力災害だと。俺にもこれができるだけの知識が備わったと。
「さぁ、俺もこの力を得よう」
「圧倒的な、生態系の頂点に君臨する力を」
「俺も、力を。全てを思い通りにする力を……」
待て……待て。俺は、そんな、そこまでの力は……。
バネ仕掛けの人形のように飛び起きた。
「はぁ、は」
呼吸が落ち着かない。べったりと張り付いた下着がエアコンの風で冷えて気持ち悪い。
「はぁ……なんなんだよ」
結局昨日はアリサにこのことを話すタイミングが無かった。早めに話した方が良いのはわかるけど、アリサの表情はどこか重苦しい雰囲気をまとっている。
微かに胎動する魔力は微弱なもの。自分の内にあるというのに、こうして意識しなければ感じ取れないような、そんな。弱々しく吹けば消えそうな。なのにどうしてだろう、恐れすら感じる。その恐れが、意識しなければ感じ取れない存在を忘れさせてくれない。
力、力か……。
欲しいかと言われたら……。
でも、俺にはそれよりも……。
いつも通り、沙良やアリサとご飯を食べて、沙良が淹れたコーヒーを飲んで。
それからそろそろ終わりを意識し始める夏休み、新学期の予習をして過ごす中でも、心臓は早鐘を打ち続けた。ちゃんと息をしている筈なのに、足りている筈の酸素を求めて必要以上に息を吸ってふらつく。
初めて戦場に立った時のような、右も左も上も下も何も信じられない。見えている光景にすら騙されているような。
流し込んだ水すら上手く喉を通らない。少しずつ飲み下していく。
神聖な場、何かの儀式の如く音を立てないように食べなければいけないような、そんな緊張感の中、ドラゴンが嘲る。食らいたいように食らいたいだけ食らえと。
くそっ、死んだのなら大人しくしていろ。
「匠海くん、その、大丈夫?」
「ん?」
「具合悪そうだけど。時々顔しかめてるし」
「あぁ、いや。エアコン効き過ぎたのかな……ちょっと外行ってくるよ」
「う、うん……」
背中から感じる視線の正体はわかっている、アリサだ。
探るような視線だ、魔力の流れを感じ取れば魔眼を凝らしているのがわかる。
アリサの魔眼でわかるのだろうか、この残り火が。
残り火も、育てれば再び大火となる。
……俺は、死ぬしかないのか。
ようやく理解した、俺がアリサにもティナさんにもドラゴンの因子のことを打ち明けない理由が。俺は怖いんだ、どうにもならない、殺すしかないとなることが。
「……そうか、俺はもしかしたら、殺されるのか」
外に出て見上げた夏の夕方の空。茜色に染まる昼と夜の狭間。夕方と言う名のどっちつかずな時間。
アリサやティナさんを助けたい。沙良を守りたい。でもそのために一番手っ取り早いのはドラゴンの因子を持つ俺が死ぬこと。
ティナさんもアリサもドラゴンの血を浴びていない。
ドラゴンの遺体は……確かアリサが回収していた。
だから残る不安要素は俺だけ。けれど俺は……。
「はぁ……」
どうしたら良いんだろう。どうにかしなければいけないのに、俺はただ、俺を殺すしかないという答えが怖くて、結論をひたすら先送りにしている。
「わかっているんだね」
魔力の流れが見える。
容赦のない。明確な殺意。
「タクミ君、そう。その通りなんだよ。本当に申し訳ないけど……最後にはこんなことになって。でも君だって、自分の住む世界を壊したくないでしょ」
殺意は形を成す。不可視の魔力の壁。
「ドラゴンの血はあらゆる傷、病を癒す万能の薬である……その話には続きがあってね」
真っ直ぐに伸びてくる防御不能の無数の槍。結界とは魔力で空間を分断する。その理屈のもと繰り出される致命の一撃。
「ドラゴンの因子。適応できなければ魔力を食い尽くされ死に、適応した者はその身体をドラゴンに作り変える」
無意識に作っていた破壊の概念魔術を宿した剣。作ってどうする。いや、わかる。どこを斬るべきか、わかる。今までとは違う。ティナさんの攻撃を感じられる。わけもわからず支援されていた俺はもういない。
「ドラゴンの因子を不活性化させて薬として使用できるようになるまでの歴史も随分と長いんだよ。犠牲者も大量に出たし研究の中止を命令された時期もある。それだけ危ないものでもある。そんな危ないものをタクミ君、君は原液をそのまま浴びて傷を癒した。そしてその様子。聞こえてるんでしょ、ドラゴンの声が」
「っ!」
伸びて来た結界と剣の衝突。甲高い音が響き、痺れるような手応えだけが残った。
「取り込んだドラゴンの因子を取り除いたり不活性化させることは不可能とされている。そしてドラゴンの因子に抗えた者もいない。だからねタクミ君、殺すしかないんだ、君を」
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