第49話 進んでも進まなくても
「……そうですか」
頭ではわかっている。わかっていたこの結末は。でも。
「君がヒトであるうちに、せめてちゃんとお別れしたかったんだけど……構えるんだ?」
振り返った先、屋根の上に立っていたティナさんの顔は夕闇の影の中。
細く長い指先が、目尻を拭ったのが見えた。
「まぁ、誰でも死にたくないよね、特に君は、生きることへの意地はあたしも尊敬していた」
走り出す。とにかくここから離れなければと本能が警報を鳴らす。
「逃がさないよ」
魔力が空間に満ちていく。だめだ、濃度が高いところから離れなければ、この魔力の流れ方はここ数日の間に散々見て来た。
なんとか、なんとかしないと、結界に取り込まれたらマズい。
落ち着け、魔力の流れを感じろ、ドラゴンとの戦いの時のように殴れる一点を探せ。
「二人でちゃんと話そうか。隔絶結界」
「く、うおおおお!」
「無駄なこと……えっ」
魔力の濃度が特に濃い、流れが集中している一点に剣を叩き込む。
力業だ。隔絶結界、魔力の流れから見るに元となる空間の座標に魔力の起点を置いている。これを破壊すれば結界は簡単に崩壊する。
この魔力の起点が同時に結界と元の世界を繋ぐ命綱の役割を果たしている。だからこれなしではそもそも結界の展開ができない。筈だ。
その仮説通り、高まっていた魔力が散り散りに霧散していく。ことを確認することなく走り出す。いや、ちゃんと霧散している。とにかくティナさんの魔力が届かない範囲まで走る。
なんで逃げている、俺は。逃げる資格なんて無いだろ。なのになんで、身体能力強化の魔術までフルに使って走っている。
「くそっ、がっ!」
頭上スレスレを通過する魔力砲。ただ練り上げた魔力の塊を撃ち出すだけの攻撃。だが熟練の魔術師が使えば不可視の砲弾と成る。
魔術とも呼べない魔力操作の領域。だがティナさんはその分野において恐らく、アリサをも凌ぐかもしれない。狙い通り頭に当たれば、血の噴水を上げながらも頭部を失ったことにすら気づかず走り続ける首無し人形になっていただろう。
魔力の流れを感じて躱すが、弾速が、発射を感じ取った瞬間には弾着している。
焼けるような痛みに頬を抑えた。湿った感触、手の平は真っ赤に染まっている。
「くそっ……ん?」
けれどすぐに痛みが引いていく。かなり深く切れたはずなのに。
「それがドラゴンの因子だよ。優秀だった祖父を……あたしに殺させた因子。不可逆の変化、宿主となった身体を絶対に我が物に……ドラゴンにする。呪い」
「! いつの間に」
「もう身体に影響は出始めている。即死以外は怪我の内にも入らないでしょうね」
頬の傷が治っていた。ティナさんが目の前にいた。
近所の公園は昨日の事件の影響か、誰一人いない、静かなものだった。ティナさんが魔術陣の書かれた紙に魔力を込めて二枚投げる。人払いの結界と認識阻害の結界が起動したのがわかった。もう逃がさないということだろう。
「はぁ、はぁ」
次々に変わっていく状況、思考が、追いつかない。戦場では当たり前のことだろ。なのに……正しさが縛ってくる、正しさに縛られる。動け、動け。足を動かせ、頭を働かせろ。
ティナさんの杖が真っ直ぐに向けられる。一瞬の躊躇い。けれどすぐに攻撃を放つために魔力が流れ始める。本当の戦いなら致命的な躊躇いにも俺は動けなかった。いや、なにが「これが本当の戦いなら」だ。これは既に戦いだ。俺は今殺されようとしている。正しさに殺されなければいけない。
「……ごめん」
その呟きと共に魔術が起動する。あと瞬き一回分ほどの時間で俺の身体は穴あきチーズのようになるだろう。
これが永遠にも感じる一瞬か。反応不能な速さで向かってきている筈なんだけどな。
まだ、か。まだ。まだ生きているのか。来るはずの痛みが来ない。訪れるはずの死が、目の前で止まっていた。
「なに、が」
魔術ではない。俺の目の前に濃密な魔力の壁……いや、クッションか? わからない、とにかく濃密な魔力が目の前に、そして結界を阻んでいる。崩壊する結界、だがティナさんはすぐに修復し、魔力を突破しようとするが。
「ちぃっ、純粋な魔力量と出力の差か」
退いたのはティナさんだ。結界を解除し真っ直ぐに俺の上の空を睨んだ。
「魔神王! 状況がわからないのか!」
確かにそこにいる。感じる。君臨している。
アリサは感情を感じさせない、目の前の存在を値踏みする絶対者の目で俺たちを見下ろす。
「今理解した、だけどタクミ、誰が許可した」
「アリサ、どうして」
追撃で伸びてくる結界が次々に砕ける。魔力の流れの変化が早い。結界ですらないただの魔力の壁。層と言うべきか。魔力を術式を通さない分、一つ一つの動作が早い。
悔し気に顔を歪めながらティナさんは魔力砲を放つが、それも目の前の魔力の塊がカーテンのように揺れるだけ。
「起動しかけの魔術に純粋な魔力をぶつけることで魔術の起動を妨害する技術があることは知っている。けれど、だからって!」
「結界は壁としての形を成していても所詮は魔力。魔力砲も魔力の塊を撃ちだしているに過ぎない。同じ理屈で妨害できる」
「けれど、この濃度の純粋な魔力を? ……このっ!」
攻撃はついにアリサに向いた。殺到する結界の槍の束。けれどアリサがそこにただそこにいるだけで砕け散っていく。
アリサの視線はティナさんから俺に向く。
「タクミ、誰が、死ぬことを許した」
「だけど……」
「力を恐れないで。強大な力を持つ者、己の力を恐れればその刃が己に向くのは、自明の理」
「! 魔神王、あなた、彼をドラゴンにする気か!」
ティナさんの魔力が高まる。それは怒りか、使命感か。
「勘違いしないで」
アリサの手が、ティナさんに向いた。ゆっくりと、そして。
「っ! ぐぅ……っ」
「アリサ!」
苦悶の声を上げたのはティナさんじゃない。アリサだ。
「っ、くっ……だから、タクミ……恐怖は、乗り越え、て……」
何かの魔術を起動しようとしたのはわかった。けれど、高まっていた魔力が、ぷつっと、さながらコンセントをいきなり抜いたかのように途切れた。
落ちてくるアリサを受け止める。……なんで。身体が冷たい、呼吸が荒い。早鐘を打つ心音が受け止めている腕まで伝わってくる。
いや、それよりも感じるべきは。
「魔力切れ、じゃないか」
アリサの魔力の流れが、微弱だ。
「……そうりゃそうよ。昨日あんなに無茶な魔力運用して、そして今、無茶苦茶な魔力の使い方をした。切れない方が無理がある」
……それに、ドラゴンの魔力。人間には毒になる魔力が身体の中に残っているとも言っていた。その状態で、出てきて、あの魔力行使。
「……それじゃあタクミ君。邪魔して来た魔神王は倒れた。君にはここで死んでもらう。あなたを殺せば魔神王は黙っていないだろうけど。それでもやらなければいけない」
ティナさんの瞳は冷たい。情を殺し覚悟を決めた者の瞳だった。ドラゴンの因子に侵されるとは、そういうことなんだ。
だけど、ここで俺が殺されたら……復活したアリサはどうする。ティナさんを殺すか。その可能性を考えてティナさんはアリサを動けないうちに殺すのか。いや、そうしたらティナさんが向こうの世界に帰る手段の開発が。
そうだ。どうしてだ。
「ティナさん、どうしてそこまで……」
だって、俺の創造の概念魔術は、まだ未確定とはいえ。
「向こうの世界に帰るのなら」
そう。アリサはそういうことを言いたかったんだ。
「このドラゴンの因子の利用法を探す。そういう道は無いのですか?」
「無い。ドラゴンの因子はいつ爆発するかわからない、けれどいつか爆発する危険そのもの。あたしはそれをよく知っている。今生きている魔術師の中で、誰よりも知っている」
アリサを抱え飛びのく。衝撃による風圧すらない。砂埃も上がらない。ただ突然、さっきまで立っていた地面に穴が空く。それだけの現象。魔力による空間の分断。魔力の壁がそこに出現したからそこにあるものは当然押しのけられる。
それは生物でも例外ではない。
発動からのタイムラグも殆ど無し。繰り出される技術は凄まじくとも、それだけ仕組みは単純な魔術。
「いっ、ぐっ……」
ただ、痛みだけがあった。
誰かの右足が、さっきまで立っていた場所にある。立っている。どんな名刀よりも鋭く、血が噴き出していなければ元々そこにあったのではと、でも痛みが証明している。あれは俺の足だ。あるはずだった右足を見失って、それでもなお後ろに向け地面を蹴ろうとして盛大に空ぶって。
「がっ、はっ……くそっ」
内臓がグラグラと揺れる嫌な感覚を堪えながらアリサを上に放り転がる。地面に次々と開く穴。立っているのかこけそうになっているのか、何もわからないままアリサをキャッチして片足飛びで逃げる。遠くへ、一歩でも先へ。
……あれ。
あれ、地面は。俺はいつの間に空に? そのわりに地面が近い。空を蹴りだしたところで推進力を得られるわけもない。いや、違う、失ったのは地面じゃない。蹴りだす足だ。
突然地上で宙に放り出されて、重力に従い落ちていく。いや、落ちるなんてたいそうな距離じゃない。すぐに全身を突き抜ける衝撃と共に身体中の空気が押し出される。
「が、はっ、げほっ」
「大した忠義だね。自分の両足を失ってなお、魔神王を庇うなんて」
治癒魔術なんて、とくに手足を生やすような高度な治癒魔術なんて使えない。
詰んだ。俺はここでティナさんに殺される。
「……た、タクミ……諦め、るな」
微かな声。アリサの声。
「無茶言うなよ」
そう言いながらも、頭は再び逆転の一手を探す。
実際、少しずつ身体は再生を始めている。ドラゴンの因子の影響だ。
例えば今、俺がドラゴンの因子を受け入れれば。そうすればこの状況は切り抜けられる。
……それで良いのか?
再びこちらに向かってくる結界を感じた。
……これで良いのか。俺は死ぬのか。
手は勝手に動く、右手を狙っていた結界、作り上げた剣を振るった一瞬、感じる硬さ。振り下ろしを避けられ、そのまま勢い余って地面の石に剣を打ち付けたような、けれどすぐにヌルっと魔力に込められた意味が斬られ意味の無い魔力として霧散していく感触に変わる。
見えていないのに、感じる。重要なのは、感じたことを信じること、疑ったとたん、何もわからなくなる。
「あんまり痛めつけさせないでよ……」
殺到する攻撃を端から次々に斬っていく。流れ落ちていく命を感じながら。流れ落ちた命が、端から補われていくのを感じながら。
力を恐れてはいけない、か。
今この時、一瞬でも自分を疑い迷ったら死ぬ状況。
自分を信じなければ死ぬだけの状況。
一歩……進んでも進まなくても、死ぬ。
なら俺は。
「! ダメだ! タクミ君!」
自分の中のドラゴンの因子を、魔力で掴んだ。
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