第44話 生物の格

 ドラゴンの魔力が活性化していく。活性化した魔力が炎のように全身から立ち上って見える。

 ただの羽ばたき一つが、嵐の如く吹き荒れる風を起こす。咆哮は衝撃波となって響き渡り、爪や牙から迸る魔力が炎となって立ち塞がる全てを飲み込む。

 存在そのものが世界を焼き尽くす脅威となる。


「はぁ、ふぅ」


 魔力防御越しでもチリチリと肉が焼けるような感触にアリサは顔をしかめる。少し舐めていたかもしれない。ドラゴンは厄介だが倒せる相手だけど、格が違う。アリサの魔剣となっている竜王よりも遥かに強い。

 飛行魔術が乱される。維持しようとすれば魔力がゴリゴリと持っていかれる。けれど維持しなければ……。

 ドラゴンとの戦いにおいて安全なのは近距離である。翼によって起こされる魔力を帯びた嵐はドラゴン自身を巻き込まないように展開される。熱線もまた、ドラゴンをしっかり観察すれば、近くにいた方が避けるのは難しいことではない。咆哮も同様。ドラゴンの前方扇状の範囲に衝撃波が放たれるから頭の向いている方向を気をつければ良い。ドラゴンのその大きさ故に小回りが効かない点で飛行性能の差を埋める。


「っ! かっ、たい!」


 通らない。剣が鱗にすら触れない。


「っくっ……!」


 鱗一枚一枚に施される魔力障壁と魔術無効化の魔術が破壊の概念魔術がぶつかり合う。魔力障壁を破壊の概念魔術で破壊しても、魔術無効化の魔術に破壊の概念魔術が弾かれ、修復された魔力障壁と再びぶつかり合う。その繰り返し。

 魔術無効化の魔術を破壊の概念魔術で破壊するには、くっ。

 魔剣に施されている破壊の概念魔術の対象変更が間に合っていない。破壊対象が魔力障壁から魔術無効化の魔術の術式に変更される前に弾かれる。破壊の概念魔術が働かなければ、硬い鱗に弾かれるだけ。竜の牙を鍛え上げた剣でも、ドラゴンの鱗を真正面から貫くのは無理というわけだ。


「くっ」


 頬を流れた汗はすぐに風の中に消えた。翼を斬りつけるも、伝わる手応えは岩を殴ったような衝撃。アリサにはあまり経験の無い感触。

 いつもの熱したナイフでバターを斬る。そんな手応えなんて無いあっけなさ、水が上から下に流れるような当たり前の事実と同様に、この刃が振り下ろされればあらゆるものは一刀両断される。そんな常識がひっくり返されたような。

 アリサの攻撃が通じない。返ってくるのは手首が痺れる痛みと不快感。

 どうして。どうして破壊できない。

 指を鳴らせば敵は貫かれ、手を振るえば見えるもの全てを焼き払い。手を上げれば万物を押し流す。それがアリサという魔神王で。

 こんな、こんなに……何もできない……。


「ああああああああ!」


 制限解除。周囲の魔力が一気に流れ込んでくる。だけど、隔絶結界内での制限解除は、結界のために展開した魔力すら吸い尽くし、結界を強制解除させかねない。元々長くは保てない奥の手、それが世界を滅ぼす引き金になりかねない状況。

 なにより、ドラゴンを相手にした……これほどのドラゴンを相手にしたら、ドラゴンの活性化した魔力も吸い上げることになる。ドラゴンの活性化した魔力、それは人には強すぎる魔力だ。魔力酔いで済めば良い方。魔力回路が使い物にならなくなる可能性……いや。

でも、それでも、この一撃で……そう、この一撃で決める。

破壊の概念魔術を込めた魔力に指向性を持たせて放つ。

 これがアリサの全力。


「があああああああ!!!」


 攻撃の気配にドラゴンは咆哮を上げる。開かれた口に魔力が収束する。炎のように猛る魔力がさらに燃え上がる。


「! ははっ……」


 魔神王であるアリサが、感じる魔力の気配に押しつぶされてしまいそうだ。気を抜けば触れてもいないのに身体が燃え上がりそうな熱を持った魔力が膨れ上がる。


「それでも、アリサは最強だから」


 存在するなら、壊れないわけがない。それが破壊の概念魔術。

 放たれる熱線と破壊という意味を込められた魔力。どす黒い魔力の奔流と空気をも溶かす熱が衝突して、そして……


 


 瞼が重い。空気が焦げている。どうにか目を開けて今の状況を確認しようとするが、頭が疲れたと働くのを拒否した。


「……げほ、こほ……」


 生きている。身体が動かない。力が入らない。制限解除は強制終了されている。身体中が痛い、冷えていく。冷たさに痛みも消えていく。でも、痛い。寒い、熱い。命が、流れ出ていくような。

いや、どうやらその感覚は比喩でもないらしい。自分の手足が見つからない。吹き飛ばされたか。なるほど、本当に身体の中身が抜けて行ってるんだ……。

 隔絶結界は保たれている。奇跡だ、やはりアリサは最強で、でも……ドラゴンは……?

 倒さなきゃ、まだ、奥の手はある。追い込まれたから発動できる、最後の手が。ドラゴンを、見つけなきゃ。

 あぁ、痛い。これが破壊される痛みか……。息をすることすら苦しい。涙も出ない。それなのに、なんで歯を食いしばっているんだろう。


「いた! 魔神王……なによ……これ、……生きては、いる。すぐに治療する!」

「……かっ、くっ……ティナ……?」


 薄れぼやける視界に割り込んできたのは、最近知り合った金髪の結界魔術の名手の魔術師だった。高まる魔力を魔眼が捉えた。集中している。繊細な魔力の流れ。大魔術の気配。


「なに、して……」

「黙って。今魔術陣を用意する。すぐにできるから、結界で魔術陣を構築する練習はずっとしてきたんだから……」


 その言葉と共に魔術が起動する。結界魔術の複数同時起動。魔術陣を結界で……? そんな超絶技巧を……? アリサの身体が魔力による壁に持ち上げられる。

 それでも、聞かなきゃ……。


「どうして、ここに」

「魔神王程の魔術師でもここまで……それでも倒さなきゃこの世界は終わる、そういうことでしょ! 治癒魔術陣完成! 魔術起動!」


 魔術陣を、これほど正確な魔術陣を、結界で構築して……凄まじい記憶力。まるで手本を見ながら書いたような結界による魔術陣に魔力が巡り、温かな光に包まれる。ぬるま湯のような温もりに包まれて、そして手足が戻ってくる。

 そこで初めて気づいた違和感。結界で魔術陣を構築する。その発想自体をしたことが無いわけではない。ただ、結界で魔術陣を作って魔力を通したところで、結界が強化されるだけのはず。事象改変によって現象を確定させた時点でそれはその魔術として確定してしまい、追加で魔力を流してもその魔術の調整しかできない。

もしかして。結界として魔術を確定させていない。結界魔術を中途半端に止めて、壁にすることなく流動する魔力の状態のまま魔術陣としての形を保っている……?

でもそれは、中空に水で絵を描くような、そしてその形を完璧に保ったままなんて、そんな。

手足を生やすほどの治癒魔術はアリサだって使える。タクミに施したことだってある。

けれど、その高度な、しかも他人に施す治癒魔術を、流動し続ける魔力によって描いた魔術陣を保ち、そこに治癒魔術の陣を起動するためのの魔力を流す。完璧に魔力を乱さないまま。

あり得ない。けれど、今アリサに起きた事象改変、手足が戻っている。それの意味することは、できているということ。


「……教会でしか伝えられてない神級の治癒魔術、はぁ、昔たまたま見た禁書に載ってた魔術陣をチラ見した程度だけど、上手くいった……」

「ティナ、あなた……」

「これ、増血剤。すぐに飲んで。やることは終わってないはず。魔力が戻るまでもう少しかかるだろうけど。悔しいけど、あのドラゴンは魔神王がいなければ倒せない。今、タクミ君が相手しているけど」

「なっ……そんな……」

「……あなたでもそういう顔、するのね」

「え?」

「もっと冷酷だと思っていた。あたしは先に行く」


 ティナは自身の魔力を保管していた魔晶石を握り、空へと歩き出す。結界による足場構築で空中を移動なんて、器用なことをする。


「……死にかけるって、こんな感じなんだ」

 立ち上がるのを躊躇する自分がいる。間違いなく触れた自分の命の終わり、その一歩手前。

「……アリサが行かなければいけない」


 アリサが最強だから。

 アリサが魔神王だから。魔神王に恐怖はない。だから立てる。立てる……。

 足が、震えている。手足が戻ってきたはずなのに。魔力も戦えるだけの魔力は回復してきている。制限解除による反動も、先ほどの神級の治癒魔術によって回復している。なのに。


「なんで、立てない……」


 魔術が起動できない。魔力が足りないから? 違う。魔力はどんどん回復している。でも、手が震えている。血が足りないから? 違う。増血剤の出来はかなり良い。痛みも無い、治癒魔術は完璧にアリサの身体を治した。

 ……怖い?

 ありえない。アリサは魔神王で、最強で、だから恐怖なんて、だからすぐに立ち上がって、あのドラゴンを改めて倒しに行ける。行けるんだ。ほら、今ここにアリサの魔剣が。みなぎる魔力が威光となり誰がこの場における絶対者なのかを……。


「止まれ」


 アリサは、最強だから。


「止まれ、止まれ、止まれ、止まれ、止まれ」


 手の震えを止めて、生まれたての小動物のような足に鞭打って、立ち上がれ。

 早く、早く。止まれ止まれ止まれ。動け、歩け、走れ、飛べ。


「っ! タクミ!」


 見上げた空の先。ドラゴンの熱線を紙一重で掻い潜り、タクミが肉薄する。

 アリサの魔力とのぶつかり合いを受けてなお、ドラゴンは天を舞う。これが生物としての格の違い。単純な身体の頑強さがはっきりと明暗を分けた。

 空の上では戦いが続いている。アリサがこうして膝をついて何もできないままでも、戦っている。戦いは終わらない、アリサがこうしている間も続く。

 そしてアリサが選ばなくても、結果は訪れる。望む望まない関わらず、訪れるべくして訪れる。胸の内を占めるこの感情は何だろう。

 なんでアリサは今、楽になっている? 何とかなるのではないかと思っている? 

 もう、このまま任せて良いのではないかと思っている?

 楽になる? アリサが? アリサが逃げる? このまま膝をついてただ眺めて流されるままに結果に身を任せる?

 そんな、そんなことがあり得る? アリサが? アリサは最強で……でもアリサは、ドラゴンの渾身の一撃を受けきれなくて。今こうして死にかけた。

 国を、民を、そして最強であることをアリサは、失った。ならもう、アリサはなんなのだ。

 あぁ、そうか。もうアリサはアリサでは無いんだ。アリサをアリサとして成り立たせていた何かはもう、無い。アリサは全てを失ったんだ。

 もうアリサは……戦えない。今まで通り魔術を使うイメージができない。

 手を伸ばしても、もうあの空に、アリサの魔術は届かない。

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