第38話 まるで大海に放り出されたような

 「アリサちゃん! わかった? 男の子をそんな更衣室に一緒に連れ込むなんてしちゃだめだからね!」

「? そういうもの?」

「きょとんとしてもダメ!」


 あの後アリサが。『タクミならアリサが引き込んだだけ』と自ら弁護してくれたおかげで、沙良からの誤解はある程度は解けたと言っても良いだろう。誤解ではないけど誤解である。

 可愛過ぎて直視できない、どこか気まずい状況になったのは本当なのだから。

 水着を買うだけで帰るのもどこか勿体ないから、フードコートのアイスクリーム屋で買った三段重ねのアイスを三人並んでベンチで食べている。口の中で弾けるラムネ味が清涼感と共に爽やかな甘みを口の中に広げる。


「美味しい……」


 そう呟くアリサにほっと息を吐く。

 同時に、少しだけ息が詰まる気がした。

 手出しができない状態で、一方的に事態だけが悪化していく。いつまた戦いになるかはわからない。

 俺はアリサに何ができるのだろう。

 少し早めに食べ終わって、立ち上がる。


「ちょっと向こう見てくる」


 それだけ告げて歩き出す。

 無力だ。俺は。

 そりゃそうか。アリサを出し抜けるほどの魔術師が周到に用意した計画なのだろう。俺がどうにかできるわけ無いんだ。でも。それでも。


「無力だな」


 零れた呟きは確かに響いた音だ。でも、夏休みの雑踏の前では誰の耳に届かず、掻き消える。


「無力だ」


 力はあるかもしれない。けれど、今目の前に広がる立ち向かわなきゃいけない何かがひたすら大きくて。遠くて。

 足元が覚束なくて、自分の身体すら、吹けば飛ぶようなもののように思えてくる。

 俺は今、大地を踏みしめて立てているのか。向かうべき先を見据えているのか。

 ダメだな。

 遠い。

 青空の果て、その向こうの暗闇に散りばめられた星々のように、遠い。目指さなければいけない先が、途方もなく先の方で。

 ゆらゆらと、ゆらゆらと……。

 ふと見たショウウィンドウのガラス。そこに映った自分の顔、その目。遠い、どこ

までも遠い目。果てしない目。寄り辺の無い、迷子の子どものような目をしていた。


「タクミ」

「……アリサ?」


 手の中に仄かな温もりがある。覚えのある柔らかさ。なんだろう。持ち上げて見る。


「沙良が探している」

「え」

「早く戻ろう」


 アリサの手だ。覚束なかった足元が、おぼろげだった現実感が、引き戻されていくのを感じる。いつだって前を歩いている。そんな背中がどこまでも照らしてくれている気がして、眩しかった。

 アリサ……俺は、そんなにも……。

 なんでアリサは……。

 いや、わかっている。

 俺はやっぱり、弱い。

 アリサは強いと言ってくれるが、それでも足りないんだ。

 強く、ならなきゃいけないんだ。きっと。戦いは、まだ終わってない。




 「へぇ。真面目にやってるじゃん」


 部屋の扉が開く音とともに、ティナさんが当然のように俺の部屋に入ってきた。

 目を開ける。座禅の姿勢で、じっと魔力を高め、循環させる。魔術師の基本的な修行にして一番重要な修行だ。


「自分の実力の限界を感じたので」


 教えてくれた当の本人であるティナさんが言うに、優れた魔術師は盛れなく毎朝毎晩やっているらしい。地味な修行だが、その重要性に気づけるかどうかもまた、魔術師の重要な資質であるとか。

 その点で言えば、俺は魔術師としての素質は無いと思う。この修行に意味を見出せなかったから。でも。やろう。

 やり続ければ、何かに気づけるかもしれないから。


「今更かもしれませんけど」

「良いんじゃない? 何かを掴んで急激に実力が伸びていくなんて、魔術師の世界ではよくあることだし。ベテラン魔術師の積み重ねた時間で得た技術を一瞬で追い抜いていく、天才というのはいつの世にもいるものだよ」

「自分が天才だなんて、自惚れも良いところですが、頑張ってみます」

「……話しながらも魔力の循環に乱れが殆ど無い、改めて、センスはあると思うよ」

「ありがとうございます」


 自分の部屋に魔力を巡らせ続ける。魔力でこの部屋にあるあらゆるものを感じ取る。隙間なく満たし続ける。これを維持し続ける。時に収束させ、密度を高めて発散させる。そして部屋を魔力で満たし循環させる。これをひたすら繰り返す。繰り返すほどに循環していく魔力の量が増えていく。それを操り切る。


「驚いたのはこの修行、魔神王は部屋で一人の時は常にやっているみたいなんだよね」

「えっ」

「本当、凄まじい魔術師だよ」


 そう言ってティナさんは扉を閉め、俺の目の前に座る。


「さて、改めて二人で話したくてね。あ、魔力の循環は続けたままで。これもまた修行だよ」

「はい」

「よし。いやはや久しぶりだね、こんな風に話すの」

「そうですね」


 胡坐をかいて頬杖突いて、言葉を選ぶようにもごもごと口の中を動かす。本題まで遠回りして、それでもなお口ごもる。ティナさんにとっては相当話しづらいことらしい。

 こういう時は静かに待つだけ。あの五年の間に身に着けたティナさんとの関わり方。急かしてもダメ、気を使って別の話題を振ったら結局本題に入れないまま時間が過ぎるなんてことはよくあったこと。


「うん。よし。……君はさ、魔神王の何なの?」

「騎士になりました」

「じゃあやっぱり敵だ。裏切り者だ」

「そうなりますね」


 言葉とは裏腹にカラカラとティナさんは笑う。


「まぁ、今のあたしはそれを咎めてもしょうがない状況だけどね。うん。わかっている。魔神王に見限られたらあたしは本格的に帰る手段を失う。なんなら命を失う。君は無理矢理呼び出された世界での望まない戦いから解放された」


 噛み締めるようにそう言って。


「本当、あたし、どうしたら良いんだろ」


 どこか遠い目。そんな目を、似たような目を今日どこかで見た気がする。


「古代語の勉強して覚えたは良いけど、隔絶結界、神業だよ、本当」

「……やっぱり、そうですよね」

「古代語を読み解けるようになったおかげでさ、術式を見ているだけで、如何に滅茶苦茶な魔力運用しているのかがよくわかる。これを開発した魔術師はきっと正気じゃなかったんだよ」

「そ、そこまでですか」

「この世界の食べる道具、箸、だっけ? あれを滅茶苦茶長くして、それで豆を摘まんで食べろって言われてる感じ。はぁ、こっちの世界の言葉も勉強しなきゃいけないのに」


 なるほど、確かにかなりの器用さと、その長い箸を操り切る力が必要になるわけだ。


「むしろたったの一日で古代語を覚えたのが驚きですよ」

「勉強したらすっと入ってくるんだよね、魂が理解している感じがする。確かに魔術に最適な言語だよ。魔人族が隠匿するわけだ」


 そしてティナさんは消え入りそうな声でつぶやく。


「本当、何が天才なんだって」


 か細く、迷子の子どものような声で。


「本当に帰れるのかな……遠いよ……」


 大海原に一人小舟で放り出されたような。

 あぁ、そっか。

 頼りになる人だ。色んな事を教えてくれた。いつだってサポートしてくれたし時には前に立ってくれた。それでも。

 それでもティナさんは、今は同い年の女の子で。


「きっと見つけます」


 根拠なんて無い。何をすれば良いかなんてわからない。でも。


「きっと、帰れますから」


 それしか言えない。この言葉を嘘にしないために駆けずり回るしかない。でも。

 何をビビってるんだ、俺は。平和な世界に、日常に随分と早く慣れたものだ。できるできないじゃない。やるしかないんだ。

 覚悟を決め直せ。世界に中指を建てる覚悟を。

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