第32話 吸うのは禁止

 「助かったよ。沙良」

「良いよ。女の子ことだし。私に任せて」

「あぁ、また頼むわ」

「うん。それじゃあ、また夕飯の時に行くから」

「あぁ。ありがとう」


 沙良と別れ家に帰り少しして。どすっと鈍い音が聞こえた。アリサの部屋から。


「大丈夫か! アリサ! あっ」

「……丁度良かった。手伝って」


 尻もちをついて少し困ったように眉を寄せて、腕を後ろに回してしかし目的のものを上手く掴めず、芋虫のようにのたうち始める。

 何をしていたか。どうやらアリサは試しに下着を付けようとしていたそうで。はい、下着姿です。上の下着を上手く付けられないようでほぼ外れていて。


「あー。うん。手伝うので、はい、背中向けてください」

「ん。お願い」


 へ、へぇ……こ、こんな感じなんだ、これを、引っかければ良いのか? これを片手で外せるようになるとなんかプロとか言われるとか聞いたことはあるけど。


「……た、多分これで大丈夫」

「ん。……術式に記憶……これでよし」

「術式に記憶?」

「これですぐに着替えられるようになった」

「……気になったんだが、アリサって風呂、どうしてるんだ?」

「? 一緒に入る?」

「いや、そうは言ってない」

「そう」

「アリサの肌も髪も、沙良がびっくりするくらい綺麗だろ。でも」


 聞いたことがある。男用のシャンプーは髪というより頭皮の洗浄がメインで、髪への使用感はあまりよくないとか、ボディソープは女性には肌への刺激が強いとか。


「難しいことはしていない。油を落とし過ぎず、しかし過剰に分泌させずに肌や髪の潤いを保つ。魔術なら容易」

「あぁ、うん」

「でも今日買ったもので多少楽になるのは確か」


 アリサはそう言って指を鳴らす。魔術陣が出現し、手の中に現れるのは先ほどまで持っていた紙袋、そして下着の上にお気に入りの『最強』Tシャツが降りてくるように現れる。


「サラから聞く限り、この発明は素晴らしいと思う」

「やっぱ清潔感は大事か」

「当然。魔神王は常に民の前に立っても問題ない姿であるべき」


 トンと胸を叩いて見せる姿には、微笑ましさを感じる。そっか……。


「ふーん」

「……なにしてるの?」

「いや、別に、何も。すぅーーーっ」

「え? なに? え?」


 初めて聞いた気がする。アリサのこんなにも動揺した声は。でも。


「これが……」

「近くない、あなた」

「気のせいだ」


 どうしよう、ずっとこうしていられる。なんか落ち着く。


「……匠海?」


 じっと見上げてくるアリサの視線を受け止めながら、俺は呼吸し続ける。そう、呼吸だ。生き物は呼吸をするのだ。呼吸とは生命活動の源。


「すぅー……はぁー」

「何も言わずに、呼吸し続けないで」


 肺を満たすのは清潔感のある甘さ。目を閉じれば穏やかな太陽に照らされて広い高原のお花畑で横になっているような気分を味わえる。そしてその奥、深く息を吸えば、ミルクのような甘さを感じさせる香りがさらに深く、深く呼吸することを求めてくる。もっと欲しくなる。


「すぅー、ぶへらっ!」


 巻き起こった竜巻に吹っ飛ばされてひっくり返された。


「……もう終わり。ダメ」

「えっ……?」

「えっ、じゃない。匂い、かがないで」

「あ、え……。すまない。無意識だ。アリサ吸い」

「アリサ吸い……? とにかくそれは、禁止。もうしてはダメ」


 そう言って尻もちをついた俺の胸をペシペシと叩いてくる。


「もう……臭くはないと思うけど、だからって……もう」

「いや、うん。ごめん。悪かった」

「もう良い。アリサも恥ずかしかっただけ。急に吹っ飛ばしたのはアリサが悪い」

「あ、あぁ」


 しかしながら危険だ、アリサ吸い。これはもはや魔術ではないか、いつまでも吸っていられたぞ。


「……あなた、なんか残念そう。……だめ、もう吸っちゃ」

「わかってるわかってる」

「アリサ吸いは禁止。厳命」


 余程怒っているのか、本当に恥ずかしかったのか、ケシケシと蹴ってくるが、それもどこか心地良いと感じるのは、アリサとの時間を楽しい、なんて思っているから。そうだろうな。




 夢を見た。異世界にいた頃の夢だ。


「まずは魔力の流れを感じて。魔力が流れている、全身に魔力が満ちている。魔力と共に存在している。それは当たり前。でもその当たり前を知覚することが魔術師として上達する、その一歩なの。さぁ、魔力を感じて」


 この声は、ティナさんか。俺が一番お世話になった人だ。


「世界から取り込んだ魔力を魔力炉で高める。魔力回路に流す。それをもっと意識的に、そして意識的にやっていることを無意識的にやるの」

「……意味がわからないです」

「そうだねぇ……いつも食べてる食事。漫然と出されたものを食べるのと、自分のために考えて出してもらった料理を食べるのって違うじゃん?」

「まぁ、それは」


 元いた世界の話だが、アスリートは身体作りのために食事メニューから考えるという。


「それと同じこと。なんとなくで取り込んでなんとなくで放出する魔力と、しっかりと取り込んだ魔力をしっかりと練り込んで放出する魔力は全然違う。出力から魔力ロス、魔力の操作精度、全部違ってくる。それを意識的にやって、そして無意識的にできるようになって欲しいの」


 ティナさんはいつも熱心に教えてくれる。だからわからないことはわからないと言えたし、話を一から十まで聞き漏らさず聞きたくなった。

 あの世界の言葉を教えてくれたのも、魔力のちゃんとした使い方を教えてくれたのも。

 いや、それだけではない。あの世界での生きる術、その全てを教えてくれたのは、ティナさんだった。

 あんな帰り方じゃなかったら、ちゃんとお礼を言って帰れたのだろうか。

 意外とやり残したことあるんだな、あの世界で。いや、全部やり切ったと思えることの方が、生きてる上でレアなのかな。

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