第28話 背負って生きて帰ろう。

 アリサは、世界の穴から目を逸らさない。今にも、一歩足を踏み出して、魔神が構築した道に飛び込もうとしている。そう見える。

 俺は、今のアリサに、なんて声をかければ良い。手を掴んで、帰るな。そう言えたら良い。向こうの世界に帰っても、アリサに待っているのは……それでも、アリサが帰りたいというなら、俺は、止めてはいけない。


「良い。気にしなくて。伝わってる、困っているの」

「アリサ。俺は」


 いや。違う。

 正直な気持ちを伝えなくて、俺は、後悔したじゃないか。五年前の痛みを、俺はもう忘れたのか。


「俺はっ!」

「あなたとの約束がある。サラとも約束した」


 アリサは遮るように、凛としたよく通る声で続けた。


「アリサは気にいってる、この世界。それと……アリサと、もっと一緒にいたい。あなたが言ったこと。恩は必ず返す。叶える。あなたがアリサを望むなら」

「なっ……聞いてたのか。というか、俺、口に出てたのか」

「ん。叫んでた。思いっきり」

「そ、そっか」

「好き? アリサのこと」

「言わせんな。帰るぞ」

「クスッ……ん。帰ろう」


 微かに、アリサは微笑んだ。空はすっかり帳を下ろして、一日の終わりを告げていた。

 結局のところ、この話は。

 気になっている女の子と、一緒に夏休みを過ごすために、男子高校生が全力で頑張った。それだけの話だ。


「ありがとう。アリサ」

「ん。ん……アリサも。ありがとう。タクミ……ん……グスッ」


 振り返ったアリサの目から、キラリと何かが零れた。


「アリサ?」

「何でも……無い……な、い。ない、から」


 アリサの声が、歪んだ。何かを堪えるように。

 けれど、漏れる声は止まらない。きらりと光りが零れた。

 抑え込んでいた何かが、自分を保っていた何かが崩れてしまったかのように、ぽろぽろと。


「守れ、なかった……民を、アリサは……守れなかった」


 俯いて零れた涙は、地面に染みを作り消えいていく。


「どうにかできる状況じゃ、なかっただろ」


 違う。そんな言葉に意味はない。アリサだって、その程度のこと、わかっている。自分の足りない部分を理解して、改めようとすることができる人だから。

 いや、そういう人だから、か。


「父上の思惑に気づかず、従った。アリサは。父上の野望を叶えるための魔道具の素材集めをして、アリサは……」


 過去の自分を責める。その愚かさを、無意味さを、アリサはわかっている。


「……アリサは悪くない。それだって、あいつが騙したようなものだからで」

「悪い、騙される方が」


 とめどなく零れ落ちていく。涙と共に溢れる言葉。


「どうしたら、良かった……どうすれば良い、これから」


 アリサは、強い、強くあろうとして、確かに強かった。だから、罪に溺れる。

 今、アリサに必要な言葉。俺は、アリサに……。いや、わかっているだろ。でも……いや……逃げるな。わからないふりして、何もできないふりして、逃げるな。


「……どうしようもねぇよ。もう」


 優しい言葉なんて、今、意味が無い。アリサに、意味は無い。だから。

 俺に言う資格は無いかもしれない。失った筈の日々を取り戻した俺に、言う資格は無いかもしれない。だけど。それでも。言えるのは、俺だけだから。


「アリサは今、ここで生きているんだ。わかるか」

「でも。もう、いない、民は。民がいない王なんて。民を守れなかった王なんて」


 思わず手が伸びた。肩を掴んで、顔を上げさせる。……アリサの目を真っ直ぐに見る。弱々しい。俺の知っているアリサの目じゃない。


「死なせた、沢山の兵を、民を。失格、王として。アリサは」

「それでも、アリサは生きている。ここで何もできなくなるのが、アリサの目指してきた魔神王なのか」

「意味なんて無い、もう魔神王に。弱い。アリサは。民は、許さない、アリサを」


 違う。違うんだ。アリサは。強い。

 戦う強さだけじゃない。揺るがない心の強さ。意志の強さ。真っ直ぐな強さだ。その強さを支えていたものを失ったからって、強くあった今までを失わせるなんて、否定させるなんて。


「俺は、アリサの強さが、羨ましいんだ。憧れたんだ」

「強くない。アリサは、何も、守れなかった」

「守ったじゃないか。この世界を」

「でも。アリサは。果たせなかった王としての責務。罪。これは、アリサの、罪」

「それでも、守ったんだよ。目の前の世界は。今いるこの世界は、アリサのおかげで今も無事なんだ。それに……誰も、残って無いわけじゃない。俺がいる。騎士がまだ一人、残っている」


 肩を掴んでいた手を離して、跪いた。俺は騎士。魔神王のじゃない。アリサの騎士だ。


「生きてくれ。民が許さないのはその通りかもしれない。王として罪を犯したかもしれない。でも、罪は、赦されるものでも、裁かれるものでもない」


 勢いで、自分で放った言葉に気づかされる。

 そうか。そうだ。そうだよな。結局のところ、これだけなんだ。


「アリサ、俺は、この世界に帰るために、戦争の理由も知らずに、ただ自分がこの世界に帰るために、沢山の魔人族を殺した。これが俺の罪。戦争の理由なんて、知らなかった。今日、初めて知った」 


 アリサの目は、じっと探るように俺の瞳の奥を覗いていた。臆病な気持ちをグッと抑え込む。逸らさない。絶対に。


「ここでアリサに殺されても文句は言えない。だけど、アリサが裁かないなら、この世界の誰も俺を裁けない。そうなれば、自分の罪に自分でできることなんて、一つだけなんだよ」


 投げ出すことも、逃げ出すことも、忘れることも、一つの選択肢だろう。でも。そんなことアリサは選ばない。俺の知っているアリサは、選ばない。だから、一つだけ。


「全部を背負って、生きてくれ。今は、生きてくれ。今を、生きてくれ」


 アリサの絶望を、俺は理解できないかもしれない。でも、それでも。絶望の中の歩き方は、知っている。

 エゴかもしれない。でも、それでも。俺は、アリサの強さを知っている。だからこそ、言う。はっきりと。


「逃げるな。俺と一緒に、自分の生き様を最後まで全うして、それからで良いだろ。自分を責めることに溺れるのは」


 今、赦されなくても、今、裁かれなくても、いずれは来る。俺にも、アリサにも、その時は。向き合わされる日が。償いを求められる日が、罰せられる日が。きっと世界は、そんな風にできている。

 だから、その時のために、罪は背負っていくんだ。


「立って」


 言われた通り立ち上がった瞬間見えたのは、思い切り手を振りかぶるアリサで。

 甲高い音が聞こえた時には、既に俺は宙を舞い地面に叩きつけられた。アリサに頬を打たれ、吹っ飛ばされたと遅れて気づいた。

 噛みしめる。口の中に感じる鉄の味を、歯を食いしばって、頬に染みるように広がるアリサの手のひらの感触、その余韻。


「……生意気。騎士が……タクミ、魔術しかないアリサだけど。あなたの言葉に、応える」


 差し出された手を握って立ち上がる。そっと手が伸ばされて、今まさに打った頬をアリサは柔らかく撫でる。腫れてきそうな感じはあるが、アリサは治さない。俺もそれを求めない。

 決意を込めた眼を真っ直ぐに見返した。


「逃げない。アリサは」

「あぁ。だから今日は、帰ろう」


 今度こそ。帰ろう。


「ん……うっ」


 唐突にアリサがふらつき、そのまま寄りかかるように俺に身体を預けた。


「反動か?」

「そう……拘束解放の反動。……運んで帰って」

「仰せのままに」


 アリサを背負って山を下りる。夜でもすっかり温かい季節になってしまった。俺も結構クタクタだけど、背中に感じる温もりも、重さも、全部心地良い。

 逃げるなと、言ってしまった。アリサに、面と向かって、逃げるなと。それなら、俺は。俺の言葉を嘘にしないために。

 沙良とちゃんと話そう。今度こそ、逃げずに。言い訳は、もうしない。自分にも、沙良にも。

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