第29話 アリサとの夏へ。


 夏休み最初の朝、リビングに向かうと、既に沙良は家に来ていた。


「おはよう、匠海君。休日なのに珍しく早起きだね。もう少ししたら起こそうと思ってたよ」

「あぁ、おはよう」

「どうしたのその頬」

「ちょっとな。転んだ」


 どうやら目に見えてわかるくらいには痕があるらしい。今は良いが。どうでも。

 息を吸って、吐いた。


「あのさ、沙良」


 俺の声に何を感じたのか、沙良は朝食を作る手を止めて、顔を上げる。


「なに?」

「俺に、聞きたいこと、あるんだろ」


 沙良はパチリと瞬きを一つ。一瞬顔を伏せて。


「うん」


 帰って来たのは硬い声。だが、ここで誤魔化すわけにはいかない。沙良も同じことを思っていたようで。


「うん、まぁ、とりあえず、座りなよ」


 コンロの火が止まる音。コーヒーマシンが稼働する音。少しして、マグカップを二つ持った沙良がテーブルに座る。


「はい」

「あぁ、ありがとう」


 それから、ほんの少しの無言の時間。でもどうしてか長く感じられた。沙良は俯いて、じっとコーヒーに映る自分を見ていた。俺はじっと待つ。決意を何度も決め直して。沙良の言葉を、じっと待つ。逃げないように何度も心に鞭を打つ。

 微かなマグカップがテーブルに置かれる音に、顔を上げた。気がつけば、俺も俯いていたらしい。怯えるな。ちゃんと話すと、決めたのだから。


「匠海君。私ね、見てたんだ。宿泊体験学習の夜。アリサちゃんと二人で会ってるとこ」


 予想外の切り口に言葉が詰まる。


「匠海君がね、知ってるようで知らない人になった、気がしてさ」


 沙良は、寂し気に微笑む。


「最初は、アリサちゃんが来たから、色々改めたのかな、なんて思ってたんだけど、それにしたって、流石に変わり過ぎかなって。何だろう、二、三個歳を重ねました、みたいな。昨日と今日で変わり過ぎだよ、なんて思ってた」


 沙良の的確な指摘に、グッと手を握りしめる。


「でも、根っこの部分はちゃんと匠海君で、それで何度も納得しようとして、でも、戸惑っちゃって、それで、変な態度になっちゃって、あはは」


 恥ずかしそうに気まずそうに笑って、沙良は目を逸らす。言葉を途切れさせる。

 よし、俺が、答える番だ。


「実は……信じられないような話かもしれない、頭がおかしくなったと思われるかもしれない、けれど……」


 唇を湿らせるためにマグカップに口を付ける。優しい苦みが流れ込んでくる。


「けれど……」


 口が、上手く動かない。覚悟を決めたんだ。俺は。沙良とちゃんと話すと。ここで言葉を詰まらせてどうする。

 何を怖がっているんだ。

 沙良の前でまだ綺麗な振りをしたいのか、俺は。往生際が悪い。それでも、口が上手く、動いてくれなかった。

 そんな俺に沙良が向けたのは、微笑みだった。柔らかく包み込んでくれるような笑みだった。


「匠海君。大丈夫だよ。良いよ」

「でも」

「匠海君がちゃんと話そうとしてくれたの伝わった。正直に頑張って打ち明けようとしてくれたのわかった。それで十分だよ。疑ってごめん。変な態度になって、ごめん」


 沙良は頭を下げた。だけど、それは。


「沙良は、悪くない。何一つ、悪くない」

「ううん、私も、怖がっちゃったんだ。最初から、こんな風に話す時間を作るべきだった。匠海君に、作ってもらっちゃった。だから、ありがとう」


 沙良はどうしてか謝って、どうしてか礼を言う。悪いのは、俺なのに。

 このまま終わっても良かった。丸く収まった。でも、それでは、駄目だから。アリサに言ったことの責任を、逃げるなという言葉の責任を、取れないから。


「……これだけは、言わせてくれ」

「うん。聞く」

「……俺は、罪を犯した。誰にも裁けない罪だ。でも、間違いなく、大罪だ」


 息を一つ、二つ。飲みこんで、言葉をどうにか繋げる。


「裁けないけど、絶対に許されない。本来なら、沙良の近くにいて良い人間じゃない」

「それを決めるのは、匠海君じゃないよ」

「だけど、俺の罪は」

「決めるのは、匠海君じゃない。私だよ」


 その声に思わず、俺は言いかけたことを飲み込んだ。


「匠海君が何をしでかしたなんて知らないし、私にとって大して重要じゃないよ。その人の過去の失敗とか悪行ばかり見てそれが許される事無く、今のその人自身をちゃんと見ないなんてこと、私はしない。そんなことがまかり通るなら、生き辛過ぎるよ、この世界」


 沙良の目、覚悟の決まった目に容赦なく射抜かれる。


「匠海君は匠海君。私にとっての匠海君はいつだって、今ここにいる匠海君。それが、今の私の答えだよ。だから、どんな罪なのかは知らないけど、今ちゃんとしているのなら、それで良いよ」


 気がついたら、何かが込み上げていた。温かい何かが。慌てて目元を拭った。そっと差し出されたティッシュを受け取る。


「だからさ、寂しいこと、言わないでよ。匠海君が私のこと、嫌いじゃないのなら、傍にいて欲しいな」


 頷く事しかできない。ただひたすらに、首を縦に振った。


「き、嫌いなわけ、無い」


 どうにか絞り出した言葉、ぼやける視界の向こうで、沙良は顔を綻ばせる。


「ありがとう」

「そ、それは、こっちの、台詞、だ。ありがとう、沙良」

「それと、んー。変なこと言うけど。なんか言いたくなったから。おかえりなさい。匠海君」

「ただいま。沙良」


 足音が聞こえる。ゆっくりと降りてくる。その音に沙良は小さく笑って。


「はい、この話は終わり。アリサちゃんの前では、かっこつけたいでしょ」

「うっせ」


 しっかりと目元を拭いて、マグカップに残ったコーヒーを一気に流し込んだ。


「そうそう、今日、アリサちゃん借りるね」

「ん? おう」

「楽しみにしててね」

「? 何をだ?」


 疑問符を浮かべる俺に、沙良は笑みだけを残した。




 そして、八月。夏は真っ盛り。その日は朝から暑かった。冷房の効いた部屋から一歩も出たくなくなるくらい。

 今日は花火大会。夏休みの宿題はとっくに終わって、正直暇だ。アリサは昼頃から沙良と用事があると言っていない。安達は部活の遠征とか言ってたし。佐竹も試合だと言っていない。本当に、暇だ。

 そろそろ準備しなきゃな。いや、場所取りのことを考えるならもう遅いのか。

 時刻は十七時。一時間前だ。


「タクミ」


 玄関の方から声がした。


「はいはい。今行きますよ、っと」


 ソファーから身体を起こして、財布とスマホをポケットに突っ込む。リビングの扉を開ける。


「行こう」

「……おう」

「? どうかした?」


 アリサが首を傾げる。アップにまとめられた髪。白を基調に、水色の朝顔模様の浴衣。余程俺が変な顔をしているのか、首を傾げて、心配そうな感情を少し覗かせる。


「……変?」

「そんなことない。似合っている。似合い過ぎて、言葉を失ったって奴だ」

「そう。良かった」


 興味無さげにそっと逸らした顔。けれど、口元に、微かな笑みが浮かんでいるのに気づいて、顔が熱くなった。


「行くぞ。沙良はどうした?」

「外で待ってる。見せておいでって言われた」

「なんだよ。ったく」


 扉を開けた。温い風に出迎えられる。


「あっ、来たね。ふふっ、その顔。ご好評みたいで何よりだよ」


 やはりあの浴衣は沙良が選んだみたいで、心の中で拍手を送る。


「沙良も似合ってるぞ」


 ピンクの朝顔柄の浴衣に、浴衣の色に合わせたピンクの花の髪留め。正直、見た瞬間、心臓が喜び跳ねた。二人並ぶと非常に絵になる。


「ふふっ。ありがと。そういうこと、言えるようになったんだね」

「うっせ」


 夏の何かが溶けたような匂いの中、俺達は歩き出す。踏みしめるように、噛みしめるように。どこか浮かれた街の中を歩いていく。


「アリサ、この光景は、お前が守ったんだ」

「……ん。忘れないでおく」

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