異聞『月の卯詐欺(うさぎ)』【KAC2022】-⑥

久浩香

異聞『月の卯詐欺(うさぎ)』

 キツネの高潔さは見事の一言に尽きる。


 彼は、彼の母によって腸を食い破られ、既に絶命しているであろうに、耳と口をひくひくと動かし、眼窩から飛び出た眼球から鮮血の涙を滴らせる母リスに、何ともいえぬ憐れを感じた。


 その時、まだ幼かった彼も、彼の母も、腹はくちていた。母リスが巣に残し、ゴソゴソとし始めたばかりの仔リス達を平らげたばかりだったのだ。彼の母は、もう、何も入らないといった風であったにも関わらず、帰ってきたばかりの母リスを、条件反射で捕え、喰らいついた。


 彼の毛が、ゾワッと逆立った。

 自分もやがて、この浅ましい母のように、食べたくもないのに、そこに餌があれば貪らねば気がすまぬようになるのか、という怖れを感じたのだ。

 そして、彼は肉食にくじきを戒める決心をした。


 始めから上手くいったわけではない。

 冬の何もない次期に、チョロチョロと這い回るネズミを見れば、その誘惑に、口一杯に唾液が貯まり、気づけば押さえつけていた。そっと前脚を浮かし、逃がしてやりはしたものの、傷ついたネズミが、その後、どれほど生きられたものかと思い、ならば、いっそ喰ってやった方がネズミの命を無駄にせずにすんだのではないか、と、オンオンと泣いた。


 それでも、1年、2年と経てば、平常心を保てるようになり、丘にある雑木林に自生の豆が生えているのを見つければ世話をして繁殖させ、種類を増やし、収穫した豆を主食として、自然に実る果実があれば、それを神様の恵みとして、感謝して齧っていた。


 乾々浄々。

 そうして育てた貴重な豆も、客人がやってくれば惜しげもなく振る舞い、その所為で腹を空かす事になっても、川の水で飢えをしのぎ、泳ぐ魚に手を伸ばすような真似もしなかった。


 そんな彼に弟子入りしていたのが、サルとウサギである。


「キツネ様。おいら、また、虫を食っちまいました」

 サルは高い木の上の木の実を摘みながら、その実に集る虫をバクバクと食べてしまった事を、ガックリと肩を落として報告した。


「まあ、仕方ないでしょう。食べる事は本能で、それに抗うのは、一朝一夕で身に着くものではありません」

 優し気な笑みで、キツネはサルに諭した。その言葉に、サルは目をキラキラさせて、

「あぁ。流石、キツネ様だ。おいらも早く、キツネ様のように、自分の食い物にも慕われるようになりたいっす」


 そんなサルの言葉に、菜っ葉をムグムグと食べていたウサギの耳がピンッと立った。


「本当にそう思うなら、ヤモリを食べるのは止めておきなさい。肉食にくじきの戒めは、自分が思わなければ叶うものではありませんよ」


 キツネの言葉にサルは、頭の後ろを掻いた。虫を食べた事を、殊の外、悔いてみせたのは、出かけに地面を這うヤモリの尻尾を踏んづけて、そのままゴクンと丸呑みしたからだ。ベロリと上唇を舐めた後、はたと気づいて、キョロキョロと周囲を見回したものの、誰の姿も見えなかったので、無かった事にしたのだ。


「責めているのではないのです。言ったでしょう。一朝一夕で身に着くものでは無いのです、と。それに今は、豆も無く、あなたが摘んできてくれる木の実に、私は感謝しているのです」


「肉食が当たり前だと、大変だね」

 ウサギは、澄ました顔で、一言だけ言うと、うつらうつらと船を漕ぎ、そのまま眠ってしまった。


 ウサギからは、かすかに血の匂いがする。

 彼は、自分で餌を取れないので、色々な草食獣たちの集落に行き、亡骸を土に埋める手伝いをしているのだ。そして、そのお礼として、菜っ葉や野菜を貰って帰ってきていた。


「キツネ様。なんで、ウサギは、ここに居るんでしょうかね? 元々、草食なんだから、肉食の戒めなんて無いのに」


「サルよ。良いではありませんか。ウサギにも何か思うところがあって、ここに居るのでしょう。さあ。そろそろ、私達もやすみましょう」


 そうして、3匹が眠った翌朝、彼等の前に、一人の老人が倒れていた。


 ★


 お腹を空かせた老人のため、サルは木の実を摘みに出かけ、キツネも「老人のためだから仕方ない」と、ブツブツと言い訳を唱えながら、川の魚を捕まえに出かけた。


 ウサギは、キツネが老人を介抱している間に、こっそりと席を外して、丘を下りるやいなや猛スピードで駆けた。


(やっほぅ。やったぜ。やっぱり来た)


 ウサギがキツネに弟子入りしたのは、この日の為であった。


 とはいっても、彼は、本当にこの日が来る事を信じていたわけではなく、“肉食を絶った狐”の傍に居ると言えば、彼の徳のお陰で、遺骸の仲間達が掘り起こして柔らかくなった土を、ヒョイヒョイと後ろ脚で跳ね上げて被せるだけで、キツネへの土産のおときも兼ねた、仕事量に見合わぬ御礼の品を貰えると目論んだだけであった。


 ピョンピョンと跳ねながら、急いでウサギがやって来たのは、鶏の集落であった。その集落の外れには、女盛りの雌鶏と、ようやく鶏になったばかりの若い雌鶏が一匹ずつ、それから沢山のヒヨコ達が住んでいた。

 そこは、ヒヨコ院であり、女盛りの雌鶏は、尼鶏であった。

 彼女は、自分で卵を産む事をしない代わりに、産みっぱなしにされた卵を温めて、孵化させていた。


「あ! ウサギ様」


 ウサギの姿を見て、若い雌鶏は、嬉しそうな声をあげた。ウサギはいつも、この孤児院にキツネの育てた豆や、サルの摘んだ木の実を差し入れていたので、彼女がヒヨコであった頃から慕われていた。


「尼鶏様の具合はどうだい?」

 ウサギが尋ねると、若鶏は、下を向いて、首を横に振った。


 尼鶏が病を患ったのは、尼になって間もなくの事だった。朝に起きられなくなったのだ。それでも、目覚めれば卵を集め、眠りながら温めていたのだが、病は少しずつ、彼女の昼を侵蝕し、起きていられる時間が短くなっていった。


「若鶏。君が以前、言ってた願いが叶うかもしれない」


 若鶏の願い──それは、尼鶏の病を治す事だった。

 自分の産んだ卵でさえ産みっぱなしであるのに、他の雌鶏の産んだ卵を温めるような既得な雌鶏は、尼鶏しかいない。今はまだ、若鶏も産卵経験が無く、他の雌鶏が産んだ卵をヒヨコ院に運ぶ手伝いをしているが、それも、卵を温めるのは尼鶏がしてくれているからだ。

 今はまだ若鶏も、好きな雄鶏がいるわけではないが、他の雌鶏が産んだ卵を温めるのには抵抗があった。だから、もし尼鶏がこのまま睡眠時間を増やし、そのまま死んでしまうような事になったら、卵は孵化する事なく腐り、集落が無くなってしまうのだ。


「え? どういう事ですか?」


「今朝、ボク達の住処の前で、老人が倒れていたんだ。でもそれは本当は、帝釈天様…神様なんだ。キツネ様の徳を試しにきたに違いないんだ。若鶏。ボクと一緒に来て。尼鶏様の病を治してくれるようにお願いしよう」


「え? …でも」


 若鶏が躊躇ったのは、今日の卵を集めていないからだ。


「ぐずぐずしてたら、神様が帰ってしまうよ。若鶏。君だって、本当は、卵運びなんか辞めて、素敵な雄鶏と交尾して、卵を産みたいと思ってるんだろう? 尼鶏様の病が治れば、そうできるようになるんだ。なぁに、ボクの背中に乗ったら、丘までなんてさ。そして、お願いだけしたら、瞬く間に帰って、今日の卵を集めればいい」


『素敵な雄鶏との交尾』の言葉に、若鶏は生唾を飲み込んだ。兎に背負われて、すぐに丘の麓まで辿りついた。麓には幾つかの兎小屋があった。ウサギは、若鶏を背中から下ろすと、


「若鶏。あの小屋の中に、神様への供物を用意しているんだ。ボクはあっちで準備する事があるから、悪いんだけど、取ってきてくれるかい?」


 ★


「ウサギさんや。この焼き鳥は、どのようにして用意したのかね?」


 老人は、目の前に差し出された、お皿にてんこ盛りになり、良い匂いが立ち昇る焼き鳥を指さして尋ねた。老人の横には、アクの強いドングリや、行き場が無くウロウロと回遊する魚の入った壺が置かれていた。


「はい。私は、鶏の集落へ赴き、本来なら埋葬されるべき雌鶏を、譲っていただいたのでございます。遺族の方も『キツネ様のお客人をもてなす為なら供養になる』と仰って下さり…」

 と、最後は、前脚で顔を隠し、言葉を濁した。


(へへっ。やっぱりだ。人間の姿をしてるんだ。そのまま出されても、とても食えるわけないじゃないか。ボクの様にちゃんと調理してやらないとな。さぁ、どうだ? これを食ってくれりゃ、まともに歓待できたのはボクだけって事だ。相手は神様だ。どんな素晴らしい褒美を貰えるのか…。上手くいきゃぁ、来世は人間に生まれ変わって贅沢三昧って事も…)


 そんな事を考えているウサギを他所に、老人はゆらゆらと像を歪ませて、帝釈天の本性に戻り、

「この!痴れ者がぁ!!」

 と怒声を飛ばした。


「やいやいやい! この嘘吐きウサギがっ! 私を騙せると思うたか! お前が、若い雌鶏を騙して殺害し、この焼き鳥をこしらえたのは、こちとら、まるっとお見通しなんだっ! お前。雌鶏に尼鶏の病気平癒を私に願わせようとしてたな。ああ、それは良い願いだ。叶えさせてやるよ。お前を、永遠に月の牢屋に縛り付け、薬作りをさせてやるぜっ!」


「ひぃっ」


 帝釈天は、金剛杵から繰り出した雷の縄でウサギを捕らえた。そして、


「キツネよ! 己が食う分の命をいくら救っても、他人にもてなす物なら命でも…っていうのは違う。もし、お前が、豆のカスでも私に出していれば、仏界で修業させる事を、少しは考えたかもしれないが…残念だ」


 と言い残して、消えた。


 キツネは、涙と鼻水を垂らしながら、皿の上の焼き鳥を「美味い!」と言って食い、サルもキツネに続いた。

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