一章②

    ***


 犬神の事件から少しして、事件のなかにできた華の傷がえた頃、夫である一ノ宮当主の朔からお誘いがあった。

 事件解決の報酬となっていた、海の見える別荘を見せてくれるというのだ。

 新しく式神となった犬神のあらしまれたきずあとは残念ながら痛々しく残ってしまい、今後もれいに痕が消えることはないだろうという診断だった。

 華自身はたたり神を相手にしてそれぐらいで済んで良かったなと楽観的だったが、傷痕を見るたびに嵐が落ち込んでしまうので、傷痕が見えるノースリーブのような服を着られなくなってしまった。

 しかし嵐を落ち込ませてしまうことを考えれば、ノースリーブが着られないぐらいなんてことない。

 時折傷痕が引きつるように痛むので式神達は心配して止めたが、せっかくの朔のお誘いを断ってしまうほどではないと、華は大喜びで別荘行きを了承した。

 そうして朔と一緒にやって来たのは、一ノ宮の屋敷から車で二時間ほどの場所にある海の見える町だ。

「わあ、すごーい。海だ海だ!」

 走る車の窓から顔をのぞかせると、海風に乗って潮の香りがする。

 普段では感じることのない匂いにテンションも上がるというもの。

「こら、危ないから顔を出すなよ」

「はーい」

 海を間近にしても冷静な朔に𠮟られ、華は大人しく座り直す。

『あるじ様、あれが海?』

 華の髪に止まっていたちようの式神のあずはが華から離れて、興味深そうに車内をひらひらと舞うように飛ぶと、舌っ足らずな声が聞こえてきた。

「あずはは海見たことなかったっけ?」

『ないよ』

 華とて見慣れたものではないが海に行ったことは何度かある。

 確か小学生の時の遠足や中学生の時の修学旅行だったろうか。

 小学校、中学校は普通の学校だったために、式神のあずはは連れていけなかったのだ。

 一瀬家は、皆で旅行なんてするような仲のいい家族ではなかった。

 なので、華も海のある場所に来るほど遠出するのは久しぶりだ。

 必要以上にテンションがおかしくなるのは目をつぶってもらいたい。

 報酬となっている別荘は海沿いではなく、海を見渡せる高台の絶景の場所にあった。

 海に遊びに行くには少し遠いが、景色は文句なしであった。

 しかも、元は一ノ宮が所有していた別荘とあって、門から中の全容が分からないほどに敷地が広い。

 門前で止まった車の中から落ち着きなくきょろきょろしているのを、朔があきれるように見ている。

「落ち着け。別荘は逃げないぞ」

「分かってるけど、楽しみなんだもん。ねえ、本当にこの別荘をもらってもいいの?」

 まだ中に入って建物を確認していないが、きっと豪邸が存在しているに違いないと確信させる門構えに、華は浮足立つ。

「ああ、約束だからな。すでに名義も華に変更してあるから、名実ともに華の別荘だ」

「やったー。ありがとう、朔!」

 両手を上げて満面の笑みを浮かべる華に、朔は口角を上げて意地悪く笑う。

「礼なら言葉じゃなく態度で示せ」

「たとえば?」

 なんとなくよろしくない空気を感じながらも問いかけた華を、朔は囲い込むように腕に閉じ込めた。

「ちょ、ちょっと! 近い!」

「近付いてるんだ、この鈍感が」

 慌てふためく華を前に不敵な笑みを浮かべる朔は、華のあごつかむ。

「少しは俺にれたか?」

 今にも唇がくっつきそうな距離に、カッと華は顔を赤くする。

 柱石の結界を張るために契約で結ばれた夫婦だったが、朔の心変わりにより柱石の結界の強化が完了した後も夫婦関係を続行することになった。

 だまし討ちのようなやり方だったが、なんだかんだで仲良くやっている。

 一ノ宮という大きな後ろ盾を得た今の状況は、一瀬家を出て頼る者をなくしてしまった華には願ってもないことだった。

 最初こそ落ちこぼれと歓迎されていなかった華だったが、あおいみやびという人型の式神を有していると知られるようになってからは、一ノ宮家の使用人だけでなく、朔の実母であるからも認められるようになり、居心地は正直悪くない。

 一瀬家では一人で取っていた食事も、一ノ宮家では家族がそろってする。

 最初は一人の方が気楽でいいのにと思っていた華だが、他愛ないことを話しながらの食事は心を落ち着かなくさせると同時に美味おいしく感じられた。

 自分はこういう家族のだんらんを望んでいたのではないかと思わされてしまう。

 一瀬家ではどう転んでも得られなかったものが、一ノ宮家には当たり前のように存在しているのだ。

 なので、一ノ宮の家で暮らしていくことに否やはないのだが、問題となるのが朔である。

 契約上の妻でしかないのに、以前からキスをしてきたりと押しが強かった朔は、結婚継続を主張して以降、さらにスキンシップが激しくなった。

 隙あらば唇を奪い、肩に手を回し、抱き締めたりと、色恋事に疎い華はほんろうされっぱなしだ。

 今もここぞとばかりに顔を近付けてくる朔にパニック状態だが、華には頼れる式神達がいた。

「くぉるあ! あるじになにしてんだあ! このエロじじい!」

 ヤンキーのごとく舌先を巻きながら叫び、車の扉を開けると朔をり飛ばして華から強制的に離したのは、背に大剣を携え男性の姿をした葵。

 そして、すかさず天女のような容姿の雅が華の手を取って車の外に連れ出す。

 二人は華に対してかなり過保護だった。

「さ、主様。お早くお降りください」

「ありがと、葵、雅」

 ほっとあんする華が車内に目を向けると、葵に蹴られた朔が変な格好で倒れていた。

 その顔は不満を隠そうともしていない。

「またお前らか」

「またはこっちの台詞せりふだ! 主が嫌がってんだろ!」

「今、口説いてる最中なんだから外野は黙ってろ。夫婦の問題だ」

「なにが夫婦だ。主を騙しておいてほざくな!」

 ぎゃんぎゃんと、華の番犬のごとく朔にみ付く葵。

 本当の犬神である嵐も姿を見せ、戸惑ったようにしている。

『私も華の式神として、葵の応援に入るべきか?』

「嵐はいいからね。神様が入ってきたらお遊びじゃなくなってくるし」

 見た目こそ可愛らしい黒い犬だが、犬神である嵐が本気で排除に動いたら朔の身が危険なことになる。

『ふむ、なるほど。あれは遊んでいるのか。あれだな、けんするほど仲がいいというやつか』

 少々人の世のことに疎い嵐は本気で感心していて、華は苦笑するしかなかった。

「ねえ、遊んでないで中に入ろうよ。早くどんな別荘か探検したいし」

 車の中と外で言い合いをしていた朔と葵の注意が華に向けられ、ようやく騒ぐのをやめる。

「それもそうだな。暗くなる前に掃除しておく必要があるから」

 朔は車から降りてくると、服に付いた葵の足跡を払った。

 一ノ宮の屋敷では和服を着ていることが多い朔だが、今日は珍しくジーンズにシャツといったラフな格好をしていた。

 なんでも動きやすい服装でいる必要があるようで、華にも動きやすい服にするように求めたため、白いクロップドパンツに花柄のブラウスを着ていた。

「えっ、掃除してないの?」

「建物の中はれいにしている。問題は外だ」

「草刈りでもするの?」

「行けば分かる」

 朔は多くを語らず、華達が乗っていた車の後から別の車でついてきていた一ノ宮の使用人に門を開けさせていた。

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