一幕目 再会はトラックと共に④
「――あれ? 和歌子ちゃん?」
ほどなくして、明日華が
穏やかに和歌子を呼び、首を傾げた。
「ホームルーム、終わったの? あたし、居眠りでもしてたのかなぁ……? 最近、本当に駄目かも」
悩ましげに息をつきながら、明日華は机の横にかけていた
「うん。クラスに
和歌子は何事もなかったみたいに笑顔を繕った。すると、明日華もクスリと笑い返す。
「緊張してたら、眠れないんじゃない?」
「逆の人も、いるかもしれないよ」
「そうかなぁ……あたし、遠足前は眠れなかったタイプだけど」
「遠足と高校は違うからね」
帰り支度を済ませた明日華と一緒に、和歌子は足早に教室を出る。入り口では、まだ武嗣と女子グループが雑談をしていた。
今は急ぐ。明日華に、さきほど武嗣が呼んでいたと、和歌子は伝えないままにした。
「明日華ちゃんの家はどこ?」
「七里ガ浜のほう」
「じゃあ、わたしと一緒だね。ちょうどいい」
一刻も早く、明日華を連れて学校を離れたい。
雪ノ下大学附属は、校舎がほぼひとかたまりに集中している。
高校のすぐ隣には、大学のキャンパス。その向こうには小学校と中学校もあり、大きな敷地内にすべておさまっている。学園と呼んでも差し
学校を出ると、景観がガラリと変わった。朱塗りの本宮が特徴の鶴岡八幡宮、その参道が、和歌子たちの通学路でもある。敷地内を通り抜けるのが一番便利なのだ。それでも、和歌子たちが境内を横切る際は、きちんと立ち止まって一礼する。
「和歌子ちゃん、中学は千葉だったの?」
「うん。家はこっちなんだけど……小中の間は、ずっと
「だから、家が近いのに会ったことなかったんだね。なんで、千葉行ってたの?」
なんで、と聞かれて和歌子は苦笑いする。あまり話したくない。それを明日華も察したらしく、「別に話さなくていいんだよ」と、つけ足す。
若干気まずくなって、和歌子の歯切れが悪くなる。それでも、明日華は道中、明るく話題をふってくれた。鎌倉が久しぶりなら、今度一緒にカフェへ入ろうとか、どこのお店が
「…………」
けれども、電車をおりたころから、明日華の口数が減る。
「明日華ちゃん」
ぼんやりとしている。というのは、マイルドな表現だろう。顔から生気が抜け落ちている。能面みたいな一定の表情を保ち、ただ和歌子に従って歩いていた。
「明日華ちゃん、がんばって」
これは、正常な人間の状態ではない。
和歌子は明日華の身になにが起きたのか知っている。昨日、明日華がトラックの前へ出たときから、和歌子にはソレが見えていた。
「ついたよ」
目的地へ
牛渕神社の境内だ。
普段から、人の出入りが少ない神社である。今日も例外ではなく、周囲に人影はなかった。実家としては寂しいが、和歌子には好都合だ。
「…………」
明日華は、人形みたいに
そろそろ、限界か。
和歌子はキッと睨みつける。
その背後に揺らめく黒い影を。
「ここなら、誰もいないから」
度の入っていない眼鏡を、ポケットにしまう。
「明日華ちゃんから、離れてくれないかな」
明日華の肩に、くっきりと顔が浮かぶ。目を見開き、
ずっと。
ずっと、和歌子は、その影を目視していた。
『――゛し゛い……寒……熱、い……』
影がどんどん濃くなっていった。顔だけではなく、頭にのった
着物のうえから腹当を装備した軽装の武者だった。前面の胴だけを守るもので、背中の防御はガラ空きだ。敵に背を向けて逃げることをよしとせず、後方の防備が軽視された時代の装甲である。
永い歳月、現世に
こいつに
「苦しいんだよね」
答えはない。が、和歌子は身を
悪鬼が明日華から離れていた。
目にも留まらぬ速さで和歌子との距離を縮め、爪の
『あ……゛あッ……』
悪鬼が乾いたうめき声をあげる。
和歌子は間髪を
横目で明日華を確認すると、意識を失って倒れている。残念だが、すぐに助け起こしには行けない。
悪鬼の追撃が地を
『苦し――゛寄゛越゛せ』
言葉のようなものを発しながら、悪鬼は和歌子を追いかける。時折、
その様に、和歌子は目を背けたくなる。
悪鬼の攻撃はやまない。
和歌子の
「――――ッ」
すれすれのところで、悪鬼の爪が顔の横をとおりすぎる。
和歌子がかわしたわけではない。
「牛渕、大丈夫か!?」
悪鬼の腕をつかんでいる者がいた。攻撃の軌道がそれ、鋭い爪は和歌子に届かなかったのだ。
救われた――されど、和歌子の気は緩まない。
「先生……」
悪鬼の腕をとり、背負い投げで地面へ投げ飛ばしたのは、和歌子が知る人物だった。
構えは、力任せの
蔵慶武嗣は、和歌子を背に
トラックを受け止めたときと同じだ。常人ではあんな攻撃を受け流せない。そもそも、悪鬼の姿を視認することすら
だから、関わりたくないのに。
この人は、きっとわたしと同類だから――。
「学校から、女子生徒の自宅まで
和歌子は思わず
「吉沢に用があったんだが……やっぱり、お前にも見えてたんだな」
武嗣は悪鬼を示しながら答える。
学校で明日華を呼び出そうとしたのは、武嗣にもこの悪鬼が確認できていたからだ。そして、和歌子たちを追ってきた。
「牛渕は逃げろ。ここは――」
「ここは、
和歌子は言いながら、本殿へ向かって駆け出した。武嗣が「どういう――?」と呼び止めているが、無視する。
その間にも、悪鬼は和歌子を狙って跳躍していた。獣のごとく飛びつきながら、悪鬼は和歌子に牙を向ける。
「はぁッ!」
けれども、その牙は阻まれた。武嗣が繰り出した跳び
和歌子はふり向きもせず、両手で本殿の扉を開けた。
薄暗い本殿に、夕陽が射し込む。
炎のような陽を反射するのは、つやつやと黒く光る
牛渕神社に
逸話というものは、往々にして変わっていき、真偽がわからなくなる。牛渕神社にある太刀が本物の薄緑であるという証明など、誰にもできない。
源頼光が
「迷うな、和歌子」
和歌子は自分の脚を軽く
安置された薄緑をつかみとると、意外に軽い。されど、女子供が
刃の波紋が
本殿の前では、武嗣が悪鬼を地面にねじ伏せていた。
このまま武嗣にまかせておけば、悪鬼は倒されるだろう。亡者の魂は永遠に失われる。
でも、それでは……駄目だった。
「先生、どいてください!」
和歌子は薄緑を両手でにぎり、叫んだ。
剣道など習ったことはない。もちろん、今まで真剣の扱いを教えてくれる者もいなかった。だが、和歌子にはわかる。
覚えていた。
「牛渕……?」
武嗣が目を丸くしている。
その腕から隙をついて、悪鬼が逃げ出す。
向かってくる悪鬼に対し、和歌子は足を踏み出した。太刀を上段に構えて、
刃にまばゆい光が宿った。
夕陽の色ではない。
金色の光だ。刃自体が光を放っている。
邪を斬り
所有者と名前を変えながら、受け継がれてきた源の太刀――薄緑。
和歌子は、その刃を悪鬼へとふりおろす。悪鬼の爪が和歌子の肌へと届く前に、刃は肉を裂き、骨を断つ。
一刀両断だった。
切断された悪鬼の身体が、地面に落ちる。
血は飛び散らず、断面から身体が少しずつ
『゛あ……゛あ……』
和歌子は、悪鬼の前に膝をついた。
『あり……がとう……ご――』
最期に伸ばされた手。和歌子が触れると、悪鬼の口はかすかに言葉を紡いだ。薄緑を脇に置き、和歌子は両手でにぎりしめてやる。
「苦しかったね。よくがんばったよ、あなたは」
こういうとき、どう言えばいいのか迷う。結局、和歌子は自分の言葉で悪鬼に声をかけた。
心なしか、
未練を残したまま死に、成仏せずに現世へ残る魂がある。基本的には害とならないが、長い時間をかけて、苦しみ続ける者もいた。
後悔や未練、痛み、渇き……なんらかの苦を抱え、それらが蓄積し、
悪鬼は苦しみから逃れようと、生者の気を奪うのだ。
薄緑という太刀は、悪鬼の魂を斬り、浄化へと導く光を放つ。それが代々の所有者にのみ口承されてきた力だ。
和歌子は、かつての所有者たちに継がれる力を使えた。
「その太刀――」
薄緑を手に立ちあがる和歌子を前に、武嗣が
人前で薄緑を使ったのは初めてだ。
「これは、その……いろいろあって」
和歌子は、なにを言われるのかと身構えた。
しかし、武嗣の表情はパッと明るくなる。
まるで、飼い主を見つけた大型の忠犬だった。
「
「ひえっ」
呼ばれた途端、和歌子は変な声が出た。懐かしいような、むず
それは、和歌子の呼称――前世での呼ばれ方だった。
牛渕和歌子には、もう一つの人生を生きた記憶がある。今より、もっと前の世に生まれ、戦って、そして死んだ。
「九郎様にございましょう? ああ、いろいろ納得いたしました」
源
日本史の教科書で言うところの、源義経。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟にして、源平合戦の功労者。現代まで記録や伝説が残り、様々な創作の題材にもなっている。
そんな武将の記憶があるなんて、自分でもときどき信じられない。関連のテレビや書籍を見かけるたびに、そわそわする。あ、でも、歴史の授業で範囲になったときは、大いに楽をさせてもらった。
しかし、誰にも打ち明けていない。
「えーっと……? 一応、聞きますけど……どちらさま、ですかねぇ?」
和歌子をそう呼ぶということは……武嗣も、同じように前世の記憶がある人間。しかも、源氏の関係者。正直に言うと心当たりはある。だが、人違いもありえるので、一応は聞いておいた。
和歌子は相手の出方をうかがい、身を小さくする。
「
和歌子は大きなため息とともに、頭を抱えた。
そうじゃないかと思ってたけどさぁ……。
武蔵坊弁慶も、義経と同時代を生きていた。もとは
知りあいどころか、超身内だわ!
「また会えるとは、思っていませんでした」
武嗣は感極まった様子で、和歌子の手をとった。
ぎゅっとにぎられた両手が、たまらなく熱い。学校で手を引かれたときとは、違った熱量を感じた。
「というか、さっきまでとテンションと態度が変わってませんか。先生もっと、生徒にはフランクに接してましたよね。いつの間にか、敬語なんですけど」
「そんな細かいことはどうだってよいではないですか」
「どうでもよくないです。とても大事なことです」
和歌子は、武嗣の手を払おうとするが、解放してもらえなかった。びくともしない。
「う……」
正直……武嗣と弁慶は全然顔が似ていない。面影なんて、まったくなかった。それなのに、こうやって
外見は別人なのに、中身は一緒。やりにくすぎて、脳内を修正するのが大変だ。
「よくぞご無事で」
「無事って……ばっちり死にましたけどね」
苦笑いで返すが、武嗣には関係ないようだった。
「しかし、こうして、また出会えましたので」
「そう……だけど。あの、やっぱり敬語やめません? 違和感が……顔と中身のギャップで、気分悪い」
「そんなにありますか? 変わらないでしょう?」
「その顔で言いますか。変わりすぎじゃないですか。あなたも……わたしも!」
彼には、和歌子が義経に見えていると言うのだろうか。今の和歌子に、華々しい武功をあげた武者の面影などない。性別だって違う。身長だって伸びた。
すっかり変わってしまった和歌子にも、前世どおりの態度で接してくれるのが申し訳なかった。
「ここで巡り会えたのも、運命でしょう」
まっすぐな視線が刺さる。
武嗣の言葉には嘘偽りがなく、
「この武蔵坊、あなたをお守りします」
「いや、そんな大袈裟――」
武嗣は、和歌子の手をつかんだまま、すっと
「今世も絶対におそばを離れません。いっそ結婚しましょう!」
「だから、大袈裟――は?」
ん?
今、なんて?
空耳だったかな。ケッコン?
「はあ……?」
もう一度問う声は、えらく間抜けになってしまった。それなのに、武嗣は和歌子を見あげて、
「名案でしょう?」
「どこが!」
「今、思いつきました」
「思いつきで言わないでもらえますか。あなた、いつもいつもそうやって……そこまで頭悪くないくせに、なんで思考を放棄するんですか」
「決断が早くて好ましいと、褒めてくださったのは、あなた様でしょう」
「何百年前の価値観から出た褒め言葉ですか、賞味期限切れですよ!」
今度は、ちゃんと反論できた。和歌子は武嗣の手を払いのけて、目線をあわせる。今世でまで、主人面して上からしゃべりたくない。
「わたしは、もう! 前世とか忘れたいんです。静かに生きたいんです。平凡で目立たない普通の女として暮らすんです!」
和歌子は力強く主張した。早口で
思い起こせば、前世は悲惨な有様だった。功績を立てたくて必死で、結果、兄の頼朝と対立して敗れた。現代において義経は英雄として語られるが、そんなもの、どうだっていい。大事なのは結果だ。
和歌子は、ポケットにしまっていた眼鏡をかける。
もうあんな人生、ごめんだ。
二度目は静かに生きてやる。そう、心に決めていた。
「だったら、好都合。平穏な家庭のお手伝いを」
「人の話聞いてましたか。ノット・フォー・ミーです」
平凡な暮らしがしたい。高校を卒業したら大学へ進学して、一般企業か官公庁に就職。三十がくる前に結婚して、子供は二人くらい。できれば、女の子。そんな幸せな人生設計――なのに……なのに……なのに。なのに。なのに、なのになのに!
「もう、わたしのことは、放っておいてください!」
和歌子は武嗣に叫んでいた。
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