一幕目 再会はトラックと共に③

 トラックの! 噂の元凶。和歌子の高校デビューを邪魔した張本人。和歌子は口をパクパクと開閉させる。

「ああ、昨日の。そういえば、うちのクラスだったな」

 トラックのイケメンが口にした言葉に、和歌子は混乱した。今、なんて。

 よく見ると、彼の右手には黒い生徒名簿。このクラスを示す「一年C組」という文字もあった。

 誰かが、「席について」と言っている。昨日のうちに決まった学級委員長だろう。バラバラだった生徒が、一斉に自分の席へと戻っていく。和歌子も、流されるままに着席した。

 起立、礼、着席。朝のあいさつをして……中学と、あまり変わらない光景。

 教壇には、トラックのイケメンがいる。

「昨日、いなかった生徒もいるから、改めて自己紹介しておこうか」

 和歌子はどんどん目を丸くしていった。

くらよしたけつぐ。武嗣先生でも、タケちゃんでも、好きに呼んでいいぞー」

 この人……うちの担任なんだ。

 黒板に名前を書き、気さくに笑う顔が絵になる。まるで、スポーツ用品のポスター。クラスの女子が、何人か目の色を変えていた。

 しかし、騙されてはいけない。

 武嗣のせいで、和歌子は今、意味不明な噂を流されているのだから……!

 平穏な人生を脅かす害悪だ。あいつには、絶対近寄らないほうがいい。和歌子の本能が、そう訴えていた。

 和歌子の決意を知ってか知らずか、武嗣は元気にホームルームをはじめる。


 本日のスケジュールは、ほとんどオリエンテーションだ。高校の授業科目の説明や、各科目の担当教師の紹介、学校の施設を巡るなどなど。

 社会科のえき先生は、優しそう。数学の先生は、ちょっと厳しそうだ。わざわざ、各科目の教員がオリエンテーションに顔を出してくれるのは、歓迎されている気がして心強い。

 家庭科のなんじよう先生は、疲れた様子なのが心配だった。若い女の先生なのに、目の下にクマがあり、十歳くらいは老けて見える。

「和歌子ちゃん、部活決めた?」

 次の時間は、体育館に移動して部活動紹介だった。各部活がステージから、新入生にプレゼンテーションしてくれるらしい。この学校は、新入生に対してかなり歓迎的だ。中学からの生徒も多いのに。とはいえ、熱心なのは和歌子にとってはありがたい。

「何部にしようかなぁ。手芸部とか、美術部なんて楽しそうだよ」

 明日華は、目次が印刷されたプリントを手に、和歌子に声をかけてきた。団体行動で移動中の私語は禁止と言い渡されていたが、小声で話す生徒は多い。教員たちも、このくらいは大目に見ているようだった。

「わたし、部活には入らないことにしてるから……」

 せっかく話しかけてもらったのに、和歌子は素っ気なく返してしまう。

「なんで? 楽しいかもよ?」

「目立ちたくないの」

 和歌子は明日華から顔をそらして、苦笑いした。

 目立ちたくない。和歌子の行動は、その一点だけ一貫している。

 理由は明確だ。けれども、明日華に言えるようなたぐいのものではなかった。明日華だけではない。おそらく、他の誰にも言えない、和歌子だけの秘密だ。両親にも打ち明けていない。

「そうなの?」

「うーん。面倒でしょ?」

 和歌子は適当に誤魔化しながら、ゆっくり歩く。体育館へ移動する生徒の列は長くて、だるい。しかし、このまま従っていれば、休憩時間内に到着するのだろう。前を行かず、ぼんやりと従っているだけで、それなりに過ごせるのは都合がいい。

「あ……やば」

 ぼんやりしすぎていた……。

 体育館に到着する直前、和歌子は自分が手ぶらなのに気がついてしまう。教室に体育館シューズを忘れていた。机のうえに出したところまでは覚えているのに、持っていない。ぼうっとするにも、ほどがある。

「ごめん、体育館シューズ忘れた……とってくる」

 駆け出す和歌子の手を、明日華がつかんだ。

かぎ、閉まってるよ。先生に借りないと」

「たしかに……」

 手ぶらで教室へ戻っても、開かない。和歌子は面倒だったが、いったん、列の先頭まで行くことにする。鍵は担任の武嗣が持っているはずだ。

 あの先生には、話しかけたくないんだけどなぁ……。

 気が進まないながら、和歌子は前へ向かって歩く。探すまでもなく武嗣は目立つ。長身のおかげで、男子と一緒にいても頭一つ抜けていた。

「どうした、牛渕」

 和歌子が声をかけると、武嗣は気さくにこたえてくれる。トラックのときと同じく、まぶしいと感じる表情だ。和歌子は、一瞬、ひるんでしまうが、ぐっとこらえながら眼鏡を指で押しあげる。

「体育館シューズを忘れたので、鍵を貸してください」

「なんだよ、お前。忘れ物ないか、ちゃんと声かけただろ」

 聞いていませんでした。とは言えず、和歌子は苦笑いだけで返す。武嗣はスーツのポケットを探ろうと手を入れる。が、動きを止めた。

「わかった。先生と教室行くぞ」

「え……一人で大丈夫ですよ」

「迷子になるだろ」

「なりませんよ」

「俺は新任のころ、迷って授業に遅刻したんだよ」

「はあ、そうなんですか。それはお可哀想に」

「可愛い生徒に同じ体験をしてほしくないわけだ、先生は」

「え、ええ……わたしは方向音痴じゃないので、ご心配はないと思いますが……」

 余計なお世話ー! と、言おうとするが、ぐっと我慢する。

 武嗣は和歌子の困惑など露知らず、「ほら急ぐぞ」と、和歌子の手をつかんだ。

「わ、わかりました」

 あまり引っ張られるのも気恥ずかしいし、和歌子は歩調を速めた。そうやって歩くと、行きよりも速く教室へ戻れてしまう。集団よりも、少人数のほうが機動力があるので、当たり前か。

「ありがとうございます」

 鍵を開けてもらって、和歌子はひかえめに頭をさげた。

「なあ、牛渕」

 置き去りにされた体育館シューズを回収していると、武嗣が声を投げかけてくる。和歌子は何気なく、顔をあげた。

「お前、中学は千葉だって聞いたが、陸上部だったのか?」

「え? 陸上……やっていません、けど……なんでですか?」

 中学は帰宅部だったが、そこまで言う必要はないだろう。和歌子は武嗣と目をあわせないようにしながら受け答えする。

「いや……あの間合いで、牛渕のほうが速いとは思わなかったんだよ」

 ぼやくような言葉に、和歌子の背筋に汗が流れる。

 昨日の話だ。トラックが迫るとき、歩道から明日華まで距離があった。それを一秒もかけず縮めた、和歌子の瞬発力に対しての評価だ。

 この人……動体視力も判断力も、けたちがいに高い。

 和歌子は、どう誤魔化そうか悩んでしまう。まさか、これを確認するために、わざわざ教室まで同行したのか。

「火事場の馬鹿力ですよ。あのときは夢中で、全然覚えてないんです」

 和歌子は苦しい言い訳をしながら、教室の入り口をふり返った。

 けれども、そこに武嗣の姿はなく、気づいたときには、

「う」

 近い。

 いつの間にか、和歌子のすぐうしろまで、武嗣が迫っていた。移動した気配なんてなかったのに。

「あと……その眼鏡、度が入ってないだろ」

 いきなり、なにを言うのかと思えば。だが、和歌子はとっさに返事ができなかった。

 武嗣の指摘どおりだからだ。和歌子の眼鏡は、である。

 よく観察すれば、わかることだ。しかし、そこまで見られていたのは想定外で油断していた。

「ファッション、でもないよな?」

 顔をのぞき込まれていると、目の前に壁がそびえているようだ。いつでも逃げられるのに、道をふさがれた気分。こうなれば、真正面から切りひらきたくなってくる……いや、合戦みたいな思考はやめよう。

「前に、どこかで会ったか?」

 前とは、昨日の話ではない。もっと以前を示しているのだ。

 どこかで――。

 和歌子は首を横にふった。

「せ、先生、近い……です」

 武嗣がこちらを凝視するので、和歌子は一歩さがった。この顔を間近で見ているのは心臓に悪い。

「……悪かった」

 指摘されてまずいと感じたのか、武嗣は和歌子と距離をとる。

「昨日が初対面ですよ。先生みたいなイケメン、前に会ってたら覚えてますってば」

 雑な答え方をしながら、和歌子は眼鏡をかけなおす。

「部活紹介、はじまっちゃうので早く戻りましょう。遅刻はイヤですよ」

 和歌子は早口で告げて、武嗣の横をすり抜けた。武嗣は、なにか言いたげだったが、時計を確認して息をつく。もうほとんど時間がなかった。

 和歌子たちは、体育館へと向かう。


       3


 部活紹介も存外凝っており、文化祭のような活気だった。ちょっと出鼻をくじかれてしまったが、まだまだ高校生活はこれからだ。いくらでも巻き返せるような気がする。

 担任には要注意だ……和歌子について、なにか勘づいている。

「それじゃあ、明日あしたも元気に登校するように」

 ホームルームの終わりを宣言する武嗣を、和歌子はにらんでいた。けれども、不意にこちらへ視線を向けられてうつむく。避けられているのを察しているのか、武嗣はなにも言わず名簿を手に、教室を出ようとした。

「あ……吉沢、帰りに職員室へ寄ってくれないか」

 武嗣は、ふと思い出したように、明日華へ声をかけていた。

 だが、明日華の返事はない。和歌子も明日華をふり返って確認する。

「吉沢?」

 武嗣はげんそうにまゆを寄せて、明日華のもとへ向かおうとした。

「ねえねえ、先生。彼女いるんですかー?」

「指輪ないよね。結婚してないんでしょ?」

 けれども、別の生徒に声をかけられ、足を止める。顔のせいか、なにかと女子グループからのお声がけが多い。本人は、それを自覚していないのか、さわやかすぎる笑顔で返していた。

「ずっと片思い中」

 へー……あの顔で片思い、ねぇ。なんでだろう。トラック止める超人だから? 和歌子は興味がないふりをして、席を立つ。

「明日華ちゃん、先生呼んでるよ」

 和歌子は教室のうしろへと向かった。

「…………」

 しかし、明日華は和歌子にも無反応だった。

 ぼうっとした表情で窓の外を見つめている。

「明日華ちゃん」

 そんな明日華に、和歌子はもう一度声をかける。今度はボリュームをおさえて、語りかけるように。

「…………」

 ああ、なるほど……やっぱり、このままにはしておけない。急いだほうがよさそうだ。

 きやしやな明日華の肩に手を置き、耳元でささやいた。

「あなたのことは、見えてる」

 すると、明日華の顔が動く。

 言葉はない。ただ、唇の両端を不自然につりあげている様は――明日華の顔ではなかった。仮面のごとく、別人の表情が貼りついている。

 和歌子はとくに反応せず、そのままそいつと睨みあった。

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