一幕目 再会はトラックと共に②

 遠くから救急車の音が聞こえてきた。誰かが通報してくれたのだろう。

 和歌子は、我に返って女の子に怪我がないかたしかめる。軽い擦り傷がある程度で、大きな異常はなさそうだ。気を失って、すやすやと眠っている。

「…………」

 和歌子は女の子の肩に、じっと目を凝らした。が、ほどなくして、救急隊員から声をかけられて意識をそらされる。

 そのあとは、とにかく忙しかった。

 和歌子は救急隊員から説明を求められ、可能な限り答える。それで思考が精一杯になってしまった。なにせ、トラックは止まったが前面が大破しており、しかしながら、目立った怪我人はいない。どう説明すればいいのやら。

 とりあえず、和歌子は精密検査を受けることになる。あとで聞いた話だが、トラックの運転手もショックで気を失っただけで、無傷だったらしい。

 病院で検査を受けるため、入学式は欠席。両親に迎えにきてもらった。

 結局、搬送先の病院でもバタバタとして、警察から事情聴取されたせいで……車道に出た女の子とも、助けてくれた男性とも、ゆっくり話すことはできなかった。


 高校デビュー初日、学校にすら辿たどり着けず。

 いろいろありすぎて、情報の処理が追いつかなかった。


       2


 もしや、わたしの高校デビュー……失敗したのでは?

 高校生活二日目にして、和歌子はそのような感想を抱かざるを得なかった。


「あれが噂の一年生?」

「暴走トラック受け止めたって、マジ?」

「うわ、本当に無傷なんだけど……!」

「つっよ」

 廊下を歩いていると、ひそひそと聞こえてくる話し声。他人よりも耳のいい和歌子が悪いのかもしれないけれど、せめて本人の視界に入らない場所でささやいてほしい。

「な、なんなの……この噂……? わたしのこと?」

 ひそひそと語られる話が飛躍しすぎていて、和歌子は表情が固まる。学校へ行く途中から視線を感じていたが、校内へ入ると、より顕著になった。

 それ、本当にわたしのことで、あってますか?

 飛び交う単語が意味不明だ。

 暴走トラックを無傷で受け止めた? なんの話でしょう。身に覚えがない。

 いや……身に覚えは、ある。

 和歌子は、昨日の朝のできごとを思い起こした。事故、いや、事件?

 トラックにかれそうになったのは本当だ。車道に歩き出た女の子を助けようと、つい飛び出してしまった。けれども、トラックを受け止めたのは和歌子ではない。

 通りすがりの男性。顔は俳優業でもしているのかというほどよかった。和歌子の記憶には、おそらく実物よりも美化された姿で残っている。

 名前を聞いていない――聞いておけばよかった。あんな名前も知らない通りすがりのせいで、和歌子は今、あらぬ噂の的にされているのだから!

「おかしい。絶対におかしい……!」

 目立たず、おごらず、平穏に。

 これが、和歌子のモットーだった。

 人生で一番大事なことだ。適当に穏便に、静かに暮らしていく。これこそが、和歌子の理想。

 和歌子はこのモットーを忘れなかった。徒競走では常に真ん中の順位を狙い、他の生徒や先生の目に留まる行為は避けていた。

 目立ってもいいことはないし、上に行きたいとも思わない。上昇志向を否定するつもりはないが、和歌子にとっては御免だった……なのに、高校入学早々、わけのわからない噂が立っている。これは、重大なアクシデントだった。

 頭を抱えながら、和歌子はふわふわとした足どりで教室へ向かう。

 その間にも噂話は聞こえてくる。訂正したくとも、和歌子に話しかけられているわけではないので、なんともできない。

「お……おはようございまーす……」

 それでも、ファーストインプレッションは大事だ。

 和歌子は教室へ入る際、「昨日からいましたよ~」的な顔であいさつした。

「…………」

「…………」

 和歌子にあいさつを返すクラスメイトは誰もおらず、妙な沈黙が漂う。気まずい。和歌子は、どうしたものかと息をついた。

「あの子でしょ」

「トラックの……」

「怪力女……」

 やっぱり、同じ噂が聞こえてきた。なんという拡散力。

 完全に、出遅れた。しかも、身に覚えのない理由で避けられている。なんで。

「あの……牛渕さん、だよね?」

 教室のうしろで呆然としていると、おっとりとした声がした。まさか、この状況で自分に話しかけてくれるとは思わず、和歌子は返事が遅れてしまう。

「え、は、はい」

 ピシッと背筋を伸ばすと、女の子が笑いかけてくれた。

 ほっそりとした手足がお人形みたいだ。和歌子よりもずいぶん小柄で、「愛らしい」というが似合う。と言っても、和歌子は身長一七〇センチなので、たいていの女子より背が高い。単純に、女の子らしくてうらやましかった。

 三つ編みされた髪を見て、なんとなくピンと来る。

「あ……昨日の子、ですか?」

「うん、昨日はありがとう」

 にっこりと、満面の笑みが浮かぶ。

よしざわっていうの。よろしくおねがいします」

 ていねいに頭をさげられると、むずがゆかった。

「本当にありがとう。あなたがいなかったら、あたし死んでたんじゃないかな……」

「ご、誤解。それ、わたしじゃないから……」

 明日華は事故のとき失神しており、病院で顔を見た程度だ。

 さすがに、あの場にいたのに誤解されているのはツラい。助けたのは和歌子ではなく、通りすがりの男性だ。

「あ、変な噂になってるけど、それは違うって病院でおまわりさんから聞いてるよ。でも、危なかったのに、あたしのために駆けつけてくれたのは、牛渕さんでしょ?」

 明日華は、にこりと笑みを浮かべた。「誤解されてなくてよかった」と安心すると同時に、この雰囲気にやされる。香りもしないのに、お花畑にいる気分だった。これが女子力……和歌子には、欠けている項目かもしれない。

「明日華って、呼んでね」

 明日華が右手を差し出した。

「あ、はい……よろしく」

 握手を求められていると気づいて、和歌子は思わず制服で自分の手をいた。汚れているわけではないが、こんな穏やかな女子に素手で触るのは、ちょっと緊張してしまったのだ。

「なんだか、男の子みたい。和歌子ちゃんって呼ぶね?」

「え……ああ、そう?」

 和歌子は苦笑いしながら、明日華の手をにぎり返す。

「和歌子ちゃんの席は、右前から三番目だってさ。あと、ロッカーは、こっち」

 こちらが聞く前に席とロッカーの場所を教えてくれた。気遣いが心に染みる。

「ありがとう……」

 和歌子はその優しさを受けとりながらも、周りが気になる。

 みんな、和歌子を避けているのに……。

「昨日、入学式出られなかったから不安だったけど、みんな優しいクラスで助かったよ。朝から、いっぱい話しかけられちゃった」

「そうなの?」

「うん。だから、トラックに轢かれそうになったあたしを、和歌子ちゃんが王子様みたいに抱きしめてくれたんだ~って、自慢しといたの。あたし、記憶飛んじゃって、そこまでしか覚えてないんだよね」

「いや、それ誤解に拍車かけてませんかね」

 和歌子はあくまでも冷静に、だが、言及せずにはいられなかった。

 そこまで説明するなら、トラックを受け止めた張本人についても吹聴してほしい。

「和歌子ちゃん、かっこよかったんだもん」

 しかし、夢見心地な表情で語る明日華を否定するのも心苦しかった。明日華の記憶では、和歌子は気を失う寸前に飛び出して、守ってくれた恩人のようだ。

「それに、こんな噂すぐに消えちゃうよ」

 明日華が言うには、現在の状況は、噂と噂が合体した結果らしい。「入学式を前に、トラック事故に遭った一年生がいる」という話と、「その一年生は無傷である」という話。そこに、「ブレーキが間に合わなかったトラックを受け止めたバケモノがいた」という話があわさって……なぜか「入学式を欠席した牛渕和歌子という一年生が、無傷で暴走トラックを受け止めた」との具合に、話が変化して広まっていた。

「話を盛るにしたって、そうはならないでしょ……普通」

 和歌子は頭を抱えた。いくら話がミックスされたからって、ピカピカの女子高生がトラックを受け止められるはずがない。

「みんな本気じゃなくて遊びだよ、大丈夫。和歌子ちゃんは、かっこいいから!」

 明日華の言うとおり、面白半分に話が盛りに盛られた結果だろう。

「遊びって……あんまりだ……かっこよくなくてもいい……普通がいい……」

「そうだね。でも、あんな事故でも無傷なんだから、ちょっとくらい盛りたくなったんだろうね」

 言わんとすることは、わかる。なんと言っても、トラックが悲惨だった。鉄の塊となったバイクのざんがいも、現場の激しさに拍車をかける。あの状況で、よく他に被害を出さなかったものだ。話を盛りたくなった生徒の気持ちも、理解できた。が、許しがたい。

「昨日、ぼうっとしててさぁ……あたし、なんで車道に飛び出しちゃったんだろう」

 明日華は、「うーん」と考えはじめる。

「なにかの病気だったら、怖いよね……」

 たしかに、病気の影響でぼんやりしてしまう話は聞く。そういう交通事故は多いのだ。明日華が心配するのも無理はなかった。

 しかし、明日華の場合は――。

「和歌子ちゃん、顔怖いよ?」

 明日華の肩を見据えて、つい和歌子のけんにしわが寄っていたようだ。明日華が不思議そうにしていたので、和歌子は誤魔化した。

「ああ、ううん。危ないなぁって……よかったら、今日は一緒に帰らない? うち、神社だから……そ、そうだ。お守りとか、どう? 交通安全もあるんだけど……」

 ちょっと苦しい誘い方かもしれない。

 それでも、和歌子は明日華をこのままにはできなかった。

 悪い癖だ。

 やめてしまいたいのに。

「神頼みかぁ……でも、和歌子ちゃんのおうちには興味あるかも。新しいお友達だし」

 友達と言われて、今度は和歌子がポカンと口を開く。

 入学初日から、変な噂を立てられて、かんぺきに高校デビュー失敗だと落胆していたけれど……友達かぁ。

「そういえば、助けてもらったのに、あたしお礼言えてないんだよね。本当にトラックを止めてくれた人」

 明日華が残念そうに息をつく。

「病院でおまわりさんから聞いたんだけど、仕事あるからって、すぐ帰っちゃったんだってさ……和歌子ちゃんは、会ったんでしょ? どんな人だった?」

 問われて、和歌子は目をそらす。

 あのイケメン、結局、正体がわかっていない。通りすがりのヒーローって、なにそれ。

 ゆがんだトラックを背にして笑っていたのが思い出される。目鼻立ちが整った華のある顔、スラリと伸びた四肢は均整がとれていて……太陽光がトラックのボディに反射するのがなんだか後光のようだったけれど、和歌子はだまされない。

 昔のジャンプ漫画みたいに筋骨隆々のお兄さんなら百歩譲って信じたが、あれは――あの力は、異常だ。普通の人間では、ありえない。

 和歌子は無意識のうちに、自分のてのひらを見おろしていた。

「おはよう!」

「――――ッ」

 元気よく教室へ入ってきた存在に、和歌子は肩を震わせる。

 低く、異様に耳心地のいい声は、最近聞いた覚えがあった。

 なんで?

「あ……」

「お……」

 不本意に目があって、相手の表情がパッと明るくなる。

 整ったびりようや唇は、テレビの俳優みたいだ。切れ長の目は、笑うと親しみやすそうだった。濃い灰色のスーツに、赤いネクタイがよく映える。身体つきは全体的に細くて縦に長く、マッチョというよりはモデルだった。

「あ、あ、ああー!」

 和歌子は、つい声をあげてしまった。急いで両手で口をふさぐが、もう遅い。

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