一幕目 再会はトラックと共に①

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 真新しい制服はいい。中学校から高校へと、制服が変わると、大人への階段をのぼっていくような心地がする。

「いってきます」

 ローフアーのつま先で、地面をトントンたたく。

 靴にかかとまですっぽりと入る瞬間が気持ちいい。しかし、新品はちょっぴり窮屈で、前が詰まる。革は使い込むと伸びるので、これからサイズがちょうどよくなっていくのだと説明されていた。

 古い玄関戸を後ろ手で閉めると、ガラガラッと音が響く。家の奥から「気をつけてね、」と、母の声がした。

「うん、わかってるよ」

 うしぶち和歌子は、大きめの返事をする。

 歩調にあわせて揺れるスカートのひだが、踊っているみたいだった。

 最初はセーラー服に戸惑ったが、そでを通すとなかなか似合う気もするから不思議だ。私服でも制服でも、新品には気持ちを上向きにする効果があるのかもしれない。

 ぴょんっぴょんっと、ポニーテールの毛先が左右に揺れた。

 和歌子は銀縁の眼鏡を、指で押しあげる。

 自宅の敷地を出ると、すぐに神社の境内だ。

 牛渕神社は、鎌倉の世から続く神社である。本殿には代々げんが受け継いできたという太刀、うすみどりまつられていた。おおやまの鬼退治で有名なみなもとのよりみつや、源平合戦で活躍した源よしつねが所持したという逸話が残されている。

 義経がはこごんげんに奉納した太刀は、その後、鎌倉に移された――それを祀ったのが牛渕神社の成り立ちだと、和歌子は聞いていた。

 しかしながら、京都のだいかくや、箱根神社にも同じ逸話の太刀が所蔵されている。個人所蔵も含めると、牛渕の太刀が本物かどうか怪しいところ。というのが、世間や学者様の評価だった。全国にはあまのいわととされる場所がいくつもあるし、たいこく、イエス・キリストの聖遺物などなど、それらと似たような話だろう。

 神社自体もしちはまの高台にあり、史跡として人気の寺社等と距離があるためか、観光客もあまり訪れない。良い言い方をすれば閑静な、悪い言い方をすれば寂れている。

 和歌子は本殿の前に立つ。二礼二拍手一礼で、朝のごあいさつだ。普段は改めて手をあわせないが、今日は特別だった。

 なんと言っても、入学式。高校デビューの日である。

 わくわくとする反面、不安も強い。そんな迷いをふつしよくしたかった。

「じゃあ、いってきます」

 誰に対する言葉なのか。和歌子は一言つぶやいて、足元に置いたかわかばんを持ちあげる。そして、境内をあとにした。


 相模さがみ湾に臨む海岸線。江ノ島電鉄の車両が、ガタゴトと揺れるたびに、和歌子の身体もゆったりと左右する。革靴で歩くと、木目の床がコツコツと音を立てた。

 今日は天気がいいため、さんれいだ。朝陽に煌めく砂浜に打ち寄せる波が美しかった。車内には、同じ高校の制服も確認できる。

 ゆきした大学附属高等学校というのが、和歌子がこれから通う学校だ。大学附属の私立高校で、同じ敷地内に、小学校、中学校もあった。

 和歌子は小学校、中学校を県外で過ごしているので、アウェーだ。高校には受験して入学したが、気分は転入生である。

「桜……」

 鎌倉駅で降車し、わかみやおおへ出ると和歌子は、思わず感嘆の声をあげた。

 若宮大路はつるがおかはちまんぐうへと続く参道だ。二車線の車道が走っているが、その中央には一段高いみちが延びている。

 だんかずらだ。鎌倉幕府を開いた源よりともによって作られた石積みの参道。土地の性質上、雨がふるたびに、水や土砂が流れ込み泥濘ぬかるんでいたため、石を積んで道を建設したという。

「入学式って感じ」

 段葛の左右に植樹された桜が、美しいアーチになっていた。淡い雪にも似た薄紅色の花びらが、ひらひらと舞う。和歌子もたまらず、両手を広げてくるくる回った。

「あ……」

 しかし、あまり浮かれるのもよくない。平日の朝で観光客は少ないとはいえ、人目があるのだ。

 数メートル離れた先にも、和歌子と同じ制服を着た女の子が立っている。急に恥ずかしくなって、和歌子は背筋を伸ばして愛想笑いした。変な人だと、思われていなかったらいいけれど。

「…………」

 だが、様子が変だった。

 女の子は、ずっと車道を見つめている。桜並木を進まず、立ち尽くしたままだ。

 ピシッとプレスされたプリーツを見るに、和歌子と同じく入学式へ向かう新入生だろう。目を大きく見せる二重まぶたと、三つ編みが愛らしい。

 でも――。

「危ない!」

 女の子が段葛から車道へおりていったので、和歌子は反射的に叫んだ。

 運悪く、ちょうど大型のトラックが走ってくる。

 急に飛び出す歩行者に、クラクションとブレーキ音が鳴り響いた。

「…………!」

 和歌子は足を前に出していた。なにかを思考する暇も、余裕もない。

 ツツジの生け垣をものともせず飛び越える。勢いを殺さぬまま、和歌子は車道へおりた。段葛の高低差を感じさせない軽やかさだ。

 次の瞬間には、猫のように女の子との距離を詰めている。

 人がトラックの前に飛び出したこの状況。

 和歌子の瞬発力が人並み外れていることを、誰も気に留めていなかった――。

「え?」

 和歌子の手が、女の子の制服に届いたせつ、風が通り過ぎた。そのせいで、足が止まってしまった。

 バイク?

 和歌子の眼前を、大きめのオートバイが逆走していった。誰も乗っておらず、道路を滑るように横倒しとなりながら、トラックのタイヤに絡んだ。

 突如、バイクに衝突され、トラックが速度を緩めていく。金属が曲がって引きずられる悲鳴のような音が、不協和音を奏でた。

 しかし、まだトラックは前進している。

「くそ、止まってない!」

 立ちすくむ和歌子の横を過ぎ、誰かがトラックに向かって走っていく。

 フルフェイスのヘルメットのせいで顔が確認できないけれど……男の人?

 和歌子は思わず、女の子をかばって抱きしめる。トラックが迫り、もう回避が間に合いそうになかった。

 時間にすると、数秒も経っていない。なのに、嫌に長い時間に感じられた。

「…………?」

 しばらく待っても、衝撃はなかった。

「止まっ、た……?」

 和歌子が確認すると、トラックは止まっていた。

 バイクを踏みつぶしたせいで、周りに部品が散乱し、悲惨な有様だ。けれども、左側車線の車や、段葛を巻き込むことなく、綺麗に停止していた。和歌子たちとの距離は、まさにすれすれ。数十センチの位置である。

 和歌子は、ほっと胸をなでおろす。

「大丈夫か」

 声をかけられ、肩がビクリと跳ねる。

 慌てて視線をあげると、男性が立っていた。黒いライダースジャケットのせいか、手足の長さがスラリと強調されている。

「あれ、二人?」

 すっと通ったびりようや、血色のいい唇はよく見れば整っている。眼光が鋭いのは、げんそうにまゆを寄せているせいかもしれない。額から頬に一筋流れた汗が、きらめいていた。

「いつの間に、もう一人……とにかく、お前ら大丈夫か? 怪我は?」

 男性は、和歌子の前に手を差し出す。

 こちらに向けられたひとみの色は黒いが、淡い茶も含んでいる。朝の陽射しがまぶしいせいで、顔にかかる茶色の前髪がキラキラしていた。

 和歌子は男性に視線がくぎけになってしまう。

 これは……目の毒だ。

「その制服、雪ノ下の生徒だよな。立てるか?」

「は、はい……」

 耳を打つ声音は低く、唇が動くたびにドキリとさせられる。和歌子は視線のやり場に困って、目を泳がせた。

「ん……?」

 男性が小脇に抱えているのは、フルフェイスのヘルメットだった。

 そういえば、さっきトラックに、誰か真正面から突っ込んでいかなかった……?

「ま、まさか、ねぇ?」

 男性のうしろで、トラックは停止していた。道路に濃いブレーキこんを残し、前面から白い煙を吐いている。

 止まったの……バイクのせい、だよね?

「間に合ってよかった」

 男性がさわやかな笑みを浮かべながら、左手でトラックをバシッとたたいた。

「バイクで止まらなかったときは、焦ったよ」

 和歌子の顔が、サァッと青くなっていく。

「あ、あの。トラック、止めたんですか? 素手で?」

「緊急事態だったからな」

 この人、トラックを受け止めた……? 和歌子はぜんとしながら、男性を見あげる。

 目の前の男は、トラックを、受け止めた。

 そもそも、隣車線の歩行者に気づき、即座にバイクのみを逆走させてトラックのタイヤに滑り込ませている時点で……どれだけ動体視力と運動能力が高いのだろう。そこで止まらなくて、自分も突っ込んでいくのは、さらにあり得ない。

 とても人間の業とは思えなかった。大丈夫か、なんて聞かれたが、こちらのセリフだ。

「人間じゃ……ない……なんなの、これ」

 ぼうぜんとつぶやくと、男性が誇らしげに胸を張る。

「人間離れは、言われ慣れてるよ。通りすがりのヒーローとでも呼んでくれ」

「は、はあ……?」

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