転生義経は静かに暮らしたい

田井ノエル/角川文庫 キャラクター文芸

幕開け 普通になりたかった


 幕開け 普通になりたかった



 ふつうになりたい。


 ふと、昔を思い出した。

 将来の夢は、なんですか?

 小学生の時分。担任教師からの何気ない問いかけだった。きっと、ありふれていて、特別な意味もない。周りの生徒は「看護師さん!」とか「パティシエ!」とか、無邪気に答えていた。みんな夢と希望に満ちあふれた様子だ。

 それなのに、一人だけ小声で「ふつうになりたい」と言ったものだから、担任から心配されてしまった。

 しかし、本人にとっては、真面目な夢である。

 普通に学校へ通って、目立たない職業に就いて、素敵な男の人と結婚して、幸せな家庭を築いて……そんな想像をしていた。

 それが当人の希望であり、夢だったのだ。

 少なくとも、

「はあ……はあ……!」

 こんなふうに、真夜中の線路を駆けているはずではなかった。

 懸けにしているのは、竹刀袋だ。その重みをずっと感じながら走っていると、肩が馬鹿になりそうだった。

 耳元で風がうなる。まるで、全力で自転車をいでいるみたい。自分の身体が風を裂いている感覚だった。いや、文字通り、風を裂くような速度で走っている。

 昼間は観光客でにぎわうかまくらの地も、夜間はすっかり静まり返ってしまう。しま電鉄も終電を迎え、夜のとばりになにもかもが沈んでいた。

 民家と民家の間を通り抜ける江ノ電の線路上を駆けていくと、やがて浜へ出る。ずいぶんと、遠くまで走ってしまった。そう実感した途端に、息が切れて苦しくなってくる。

「まだ……」

 少女は肩越しに確認した。

 まだ追ってくる。

 ごくりとつばみ込んで、決意を固めた。

 少女はふり返りながら急停止。いきなり止まろうとしたものだから、身体ではなく、安物のスニーカーが線路の砂利に引っかかる。確認すると、靴底が外れかかっていた。負荷をかけすぎたようだ。

 お母さんに、なんて言い訳しようかな……使いものにならないスニーカーを脱ぎ捨てながら、しかし、思考は冷静だった。

 少女の五感が研ぎ澄まされていく。

 集中するにつれて、あらゆる感覚がせていった。遠くの波音も、星のきらめきも、潮をはらんだ風の匂い、唇に伝う汗の味、なにもかもが消えてしまう。

「――――」

 代わりに耳がとらえるのは、地獄の底から響くようなうめき声だけだ。

 久しぶりで……懐かしい感覚だった。

『……゛し゛い……゛苦……』

 線路を、なにかがっている。

 せ細った手首は、骨と皮だけとなっていた。がんは大きく落ちくぼみ、血のごとくあかひとみの色だけが浮かびあがっている。歯は、さながら動物のきばだ。

 それでも、ぼんやりと人相だけは確認できる。


 ――ふつうになりたい。


 そう答えたときの自分は、正しいと思う。

「普通か……」

 少女は竹刀袋を捨て、中に入っていた得物を露出させる。

 黒いつやを放つさや。おさまっているのは、つかつばのついた太刀である。金の細工が施してあるが、決して華美ではなかった。

 少女が刃を鞘から抜くと、こんじきの光が辺りを照らす。

 月明かりは、ない。

 反射ではなく、刃そのものが光を発しているのだ。

「ごめんなさい」

 少女は一言つぶやいた。

 しかし、目の前のソレは、少女の謝罪にこたえてくれない。人の言葉を忘れているのか、それとも、話せぬのか。少女には、わからぬことであった。

 普通になりたかったはずなのに……。

 柄をにぎりながら、考える事柄ではない。集中力を欠いては、身の危険だ。けれども、少女は嘆かずにはいられなかった。

 吹き抜ける海風が、高く結ったポニーテールの黒髪をさらう。


 なんで、わたし夜中に鬼退治してるのかな――。

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