18

 一見、今までと変わりのない日々が続いた。朝起きて、大学に行き、バイトに行き、そして帰って眠る。その合間あいま麗奈れなや、忠司ただしたちと交流を持って……でも、何かが変わった、と懐空かいあには思えてならない。


 何か、は判っている。麗奈だ。麗奈との間の何か ―― どこかが以前とは違う。


 相変わらず麗奈は懐空に向ける好意を隠すことなく、バイト先以外では、どこであろうと、懐空を見付けると駆け寄ってきて、腕にしがみ付き笑顔を見せて甘えてくる。少なくとも学内で、懐空と麗奈を知っている人は皆、二人が付き合っている事に気が付いているだろう。


 バイト先に知られるのはまずいよね、と麗奈が言い、懐空も周囲の目を気にし、バイト先では麗奈にあまり関わらないようにしていた。


 麗奈じゃなく、僕が変わったのだろうか? 懐空はそう考えてもみたが、それも違う気がする。


 フェリイチェのマンマに、由紀恵から言われた扶養家族ふようかぞくの件を話すと、

「あぁ……そうね、去年は大丈夫だけど、今年は危ないかな。えぇとね、今までいた学生さんは ――」


 マンマの話だと、一日の時間を減らすか、日数を減らすか、年末にまとめて減らす―― 超過しそうになったら、年内は働かないようにするか、大学の休みの期間はバイトも休む、だという。もっとも、夏休みいっぱい休むとかなりの余裕ができるらしい。

「今のままだと、扶養をはずれることになって、超過分以上に税金や社会保険料を負担することになるから、扶養のままでいられるように調整した方が懐空にもお母さんにもいいと思うよ」

相談には乗るからよく考えてどうするか決めるようにと、マンマは言った。


 お店としてはどうですか、と懐空が質問すると、そうねぇ、とニッコリし、出勤時間を1時間遅らせる、が助かるかな、と言った。

「懐空ぐらいだと、自分を優先する子が多いし、まだ、それがなんだよ。今の内なんだから、自分の都合をよく考えてね」

と、マンマは言った。


 判りました、よく考えてまた相談します、と懐空が退席しようとしたとき、

「そう言えば、懐空と麗奈は付き合っていると思ったんだけど、気のせいだったのかしら?」

とマンマが言った。

「懐空も麗奈も判り易いからね。麗奈が懐空を追いかけ回してるように最初は見えたんだけど、懐空は落城したなって、夏が終わるころには思ったの。でも、正月に何かあった? なんか、しっくりしてない気がする。わたしの勘違いだったかな?」

「いや、その……」

「まぁ、恋愛なんて個人的なことに口出ししないけど、仕事に支障をきたすようだと困るからね」


 麗奈はバイト先には知られたくないと言っていた。何と答えていいか判らず口籠くちごもる懐空に、

「そっかぁ、麗奈はフラれたか」

と、マンマは笑った。


 やっぱり僕の思い違いじゃない……懐空の疑念は確信へと変わる。でも、やっぱりどこが違うのかが判らない。


 違和感が懐空をあせらせていたのかもしれない。いつものようにバイトの帰り、こっそり待ち合わせた公園で、薄闇のベンチでキスをした。

「麗奈……」

ただ、その日の懐空はいつもと違っていた。キスして見詰めあって微笑みあう。それで満足していたのに、それだけじゃ満足できないと感じていた。だから抱き締めて、もう一度キスをした。しつこいくらいに、いつもよりずっと濃厚なキスを繰り返した。そして。


「あ……」

 麗奈の唇が懐空から離れ、溜息ためいきをもらす。そして懐空の瞳をのぞき込む。その麗奈の唇を懐空の唇が追って、再び2人の唇が重ねられる。


 麗奈の手が、自分の胸をでる懐空の手を撫でる。


 しばらくして再び懐空が麗奈を抱きしめ、首筋に口づけささやいた。

「麗奈の部屋に行っていいか?」

「……嬉しい ――」

麗奈が懐空を抱き締め返す。


「懐空、好き。どうしようもなく好き」

「麗奈……」

そして再び繰り返されるキスの中で、懐空は思う。思い違いだ、麗奈は少しも変わっていない。何を僕は神経質になっていたのだろう……


 もう、これ以上ここに居られない、そう感じた懐空が、そろそろ帰ろう、と言った時だった。

「ごめん、懐空」

と、麗奈が謝ってきた。


「え?」

「今日はだめなの」

「え?」

だめって、今さら? 言葉を亡くした懐空に、

「今日はね……女の子の日なの」

消え入りそうな麗奈の声が聞こえた。


 ―― そう言う事か。そうか、そう言うことか……

「判った。部屋まで送っていくよ。少しでも長く一緒にいたい」

「うん……」

懐空に麗奈が涙ぐんでいるように見えた。だけど薄闇でよく見えなかった。


 麗奈をマンションのエントランスまで送り、アパートに帰ると、桜の木の下で愛実あいみたたずんでいた。

「こんばんは」

「……あぁ、カイア。今日は遅いのね」

確かにいつもより公園で時間を過ごしたうえ、麗奈をマンションまで送った分、遅い事は遅い。


「わたし、ここのところ残業もないし、まっすぐ帰ってきてるから、カイアが帰ってくる時間が判っちゃった」

「そうだったんですね」

「ごめん、うそ。残業どころか、仕事、クビになったのよね。ずっと家にいるから、判っちゃったの」

「え?」


 つい懐空の声が大きくなる。すると愛実が笑う。まさか、冗談? 懐空が戸惑っていると、何でもないことのように愛実が言った。

「クビになったってのは、ちょっと違うかな。自分でめたから」

「職場で嫌なことでもあったんですか?」

「うん……多分、父に見つかっちゃった」

「チチ? お父さん?」


 愛実が溜息をいた。

「職場の近くでヤツを見かけたの。ヤツがあんな場所にいるなんて考えられない。私を探していたんだわ」

「……」

「わたしね、自分の親から逃げているの」

どうして? と訊きたい懐空だったが、訊いていいものか迷う。


「酷い父親でね……わたしをだと思ってる。以前は住んでる場所とか付き止めて、いきなり押しかけてきたり ―― でも、このアパートに越してからは見つからなくなった。それでも職場は見つかっちゃう。なぜだろうね。ここは、桜の木が守ってくれているのかもね」


 愛実が桜の木を見上げる。つられて懐空も桜を見上げた。その懐空を、愛実が見た。

「ねぇ、カイア。あなた、彼女と別れてから、明るい場所、通った?」

「え? 彼女と会ってたって判るんですか?」

「うん……口の周りに口紅ついてる」

クスッと愛実が笑った。


「え!? えぇ!?」

 慌てて手で口の周りをこする懐空を置き去りに、

「おやすみ、またね」

と愛実がトントンと階段を昇っていく。


 懐空が自分の手を見ると、確かに薄いピンク色に染まっている。なんで麗奈は教えてくれなかったんだ? そう思ったけれど、送っていくときは電車の中でも、抱き合ってキスしてたし、マンションまでの道では前しか見ていなかったかもしれない。麗奈はきっと気付かなかったんだ。


 そう懐空が思った時、愛実の部屋のドアが閉まる音がした。

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