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 翌日、尚弥なおやに送ってもらって懐空かいあは、由紀恵ゆきえが入院している病院に行った。手続き書類は煩雑はんざつで何度も懐空は住所と母の名前、自分の名前を書かされた。生年月日も書いた。母の誕生日を覚えておいてよかった、と懐空は思っていた。


 保証人、と言われ、懐空をドキリとさせる。頼めるような親戚はいない。そう言えば、母の親、つまり懐空にとって祖父母の話を由紀恵から聞いた事もない。兄弟の話を由紀恵がすることもなかった。もちろん、年賀状なんかも来たためしがない。


 保証人の条件を聞くと、成人で本人の承諾がある事、と言われホッとした。ならば自分でもいいはずだ。ただ、印鑑が由紀恵と一緒はまずいと言われ、いったん病院を出て、あとでまた提出に来ることにした。


 受付を離れる前に、保証金を納め、すべての書類をチェックし、不明点がない様にいろいろ質問した懐空だった。保証金は昨日、由紀恵に言われた場所から、必要な金額を持ってきていた。


 面会は午後のみだったが、入院に必要な物を持ってきたと言ったら、ナースステーションにことわってから病室に行くように言われる。


「懐空、ありがとう。手間を掛けるわね」

 病室に行くと、昨日と比べると、かなり顔色がよくなった由紀恵の笑顔に迎えられる。

「えっと……」

備え付きのロッカーに細々こまごました物を仕舞いながら、言いにくそうに懐空が母親に言った。


「着替え、母さん、言わなかったから、持ってこなかったんだけど、よかったの?」

 すると、由紀恵がニヤッとする。

「いいよぉ、どうせ前開きのパジャマなんか持ってないし、病院で貸してくれるのを着とくよ」

「だって、下着は?」

「売店で買えるよ……年頃の息子に頼めないって」

そうだよね、っと、内心懐空はホッとしている。洗濯はいつも由紀恵がやっていて、母親の下着なんか懐空は、洗濯干し場にしているサンルームに干してあるのを見たことがあるだけだ。それもバスタオルでかこんでるから、隙間から、なんとなく見えたってだけだ。

「退院の時に着る服は指定するから、母さんのクローゼットから持ってきてね」

うん、と懐空はうなずいた。


 懐空が帰ろうとすると、そう言えば、と由紀恵が引き止める。

「カイ、アンタ、どれくらいかせいだ?」

「バイトで、ってこと?」

「今年、1年間で」

「なんで? 小遣こづかいなら困ってないよ」

「んっとね、世の中、複雑なんだ」


 母の扶養家族の懐空が稼ぎ過ぎると、扶養家族でいられなくなる、と由紀恵が言った。

「そうすると、母さんの税金が高くなるし、カイはカイの名前で保険とか入らなきゃならなくなるの」


 詳しい事はネットで調べて、と由紀恵は言った。


 そのあと、駐車場で待っててくれた尚弥に、ハンコが欲しいというと、海沿いは渋滞してるだろうから、と、モノレールの下の道を通ってJR幹線の駅から東に少しいったショッピングセンターに連れて行ってくれた。駅の向こう側には観音像かんのんぞうがそびえたっているはずだが、そこからは見えそうもなかった。


 どうせなら、書いて持って行った方がいい、と尚弥に勧められ、ドーナツショップに入る。なるほど、病院だと立ったままだけど、ここなら座って掛ける。それだけで、随分 書きやすい。


 途中で思いついてバイト先のフェリイチェに、事情を説明したうえで、今日は休む、とメールを送った。今日休めば正月明けまで休むことになる。本当に申し訳ありません、そんな懐空のメッセージに、マンマは、今はバイトよりお母さんを優先しなきゃね、気にしてはダメだよ、と答えてくれた。


 病院の手続きが終わった後、由紀恵の職場に菓子折りを持って挨拶に行った。同じ菓子折りを尚弥にも用意し、帰りに持って帰ってもらった。せめてもの礼だ。その程度なら尚弥も受け取ってくれるだろう。


 由紀恵の上司は由紀恵の容態を聞くと、重篤なことにならなくてよかった、ゆっくり静養してください、と胸を撫で下ろす。由紀恵さんを頼りにしている、待っていると伝えて欲しい、と懐空の手を握った。


 その夕方、懐空は自宅のベランダから、眼下に広がる海を見下ろしていた。


 自宅は古い戸建てで、懐空が生まれたころに母が購入したらしい。海を見下ろせる丘の上で、長い階段を昇らなければ辿り着けなかった。貯金をはたいて買ったから、無一文になったけどね、と由紀恵は笑っていた。


 波が静かで暖かい日だった。観光地のこの辺りは人出も車も多い。風も弱く天気のいい今日は、冬ではないようだ。大学のあるところは東京でも寒いほうで、きっと5℃くらいはこっちのほうが、気温が高いだろう。


 実家が海の近くだと麗奈れなに話した時、行ってみたいと言っていた。有名な観光地でもある。そんな場所が地元だなんてうらやましい、と麗奈は言ったが、住むといろいろ大変だよ、と懐空は答えた。


 交通は不便だし、海以外は小高い丘ばっかりだし、大学のあるところのほうが生活には数段、便利だ、と懐空は思っていた。でも、離れてみて、自分はあの地元が結構好きだったんだと思った。


『マンマにはメールした。今日から休む。フェリイチェが始まるまで、こっちにいようかな』

 麗奈にメッセージを送る。いつもなら、すぐ送られてくる返事が既読になったのにこない。時間は午後2時だ。


(怒っているのかな……初詣に行きたいとか言ってたっけ)

 懐空の家の最寄り駅から数駅で、初詣で有名な八幡宮がある。大学からだと電車を乗り継いで2時間、乗換を考えると2時間半はかかる。それに、メチャクチャ混む。


 それでも元旦を避ければ少しはマシか。いや、それとも元旦の早い時間にするか?

初日の出を見に行くのも悪くない、と懐空は思った。電車を乗り継げば、半島の南端の海岸に行ける。夜遅く待ち合わせ、どこかで時間を潰して初日の出を見てから、戻ってきて初詣、これなら……


 雨が降ったら、うちで一緒にテレビを見て、母さんにも紹介して、母さんはきっと大喜びで歓迎してくれるはずだ。眠くなったら、麗奈には僕のベッドで寝て貰って、僕はリビングのソファーベッドで寝ればいい。


『今、実家で海を眺めているんだ。麗奈にも見せたいな……都合がつくなら初日の出を見にいかないか? そのあと、八幡宮に初詣に行こう。それからこの家に来ないか? 一緒に海を見よう。雨が降ったら僕の家でテレビを見ようよ。母さんにも紹介したい』


 送信してから、やっぱり大晦日おおみそかは麗奈だって実家に戻りたいかもしれないな、と懐空は思った。それに、親に会うなんて嫌かも知れないな、とも思った。


 今度はすぐに返信が来た。

『うん、楽しみにしてる。約束だよ』

ハートの絵文字が一緒に送られてきたあとに、『チュッ』と書かれたスタンプが画面で踊った。

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