15

 懐空かいあが病院に着いたのは、手術が終わった直後だった。手術室の前のベンチに座っていたのは尚弥なおやの母親で、もうすぐ手術室から出てくるって、と懐空に教えてくれた。


「良かった、もう少し遅かったら危なかったそうよ。由紀恵ゆきえさん、すぐまんするから」

「母ちゃん、医者は病名とか言ってなかった? それ、懐空に教えてやんなきゃ」


 尚弥によく似た母親 ―― 尚弥が母親に似ているのか ―― は、尚弥と同じ優しい目をしていると懐空は思った。人の良さがにじみ出ている。


 ストレッチャーに乗せられて手術室から出てきた母の顔を見て、心なしかせた、と懐空は感じた。4人部屋の病室でベッドに移すと、『麻酔はすぐ覚めますよ』と言って看護師はどこかへ行ってしまう。


 仕方ないので、尚弥と尚弥の母親と懐空の3人で、丸い椅子に座って待っていると、すぐに看護師が戻ってきて、医者から話がある、と言う。ご家族、と言われ、懐空がひとりで行った。


虫垂炎ちゅうすいえんですね。もう少しで腹膜炎ふくまくえんを起こすところだったけど、綺麗にしましたから。もう安心ですよ」


 担当医は明るい人柄で、気象予報士がかさを持っていた方が安心ですよ、と言っているように懐空には見えた。お陰で、重篤じゅうとくでないことはよく判って安心したけれど、母を軽んじられているように感じて懐空の心境は複雑だ。


「4日もあれば普通は退院なんだけど、お母さんの場合はちょっと過労もあるからねぇ……6日の予定で見ておきましょう。回復が早ければ5日かな。それじゃ、お大事に」


 過労……母はやっぱり無理しているのか。さらに複雑な心境の懐空だったが、担当医に頭を下げて礼を言い、病室に戻った。


 病室では母も目を覚ましていて、懐空を見て小さな声で「ごめん」と言った。


「母さん、過労だって……無理しないんじゃなかったのかよ?」

「過労で手術?」

懐空の言葉に尚弥が驚く。

「あ、虫垂炎で、過労もある、って。6日で退院できるって言われたから。お騒がせして申し訳ありません。坂下さんにはすっかり母がお世話になって……ありがとうございます」


 尚弥と尚弥の母に懐空が頭を下げる。

「ホント、由紀恵さんによく似てるわね」

尚弥の母が目を細める。

「それにしっかりしてる。うちの尚弥はそんな挨拶できないわよ、きっと」

母親の後ろで尚弥が懐空にだけ見えるようにペロッと舌を出す。


「いいえ、先輩にはすっごくお世話になってるんです。頼りになる先輩です」

 あらそう、と尚弥の母は息子をめられて、満更まんざらでもなさそうな顔をした。


 話を聞くと、年末で忙しく休日出勤だった今日、由紀恵は職場で腹痛を訴え、そのまま動けなくなったらしい。慌てて救急車が呼ばれ、懐空たちが到着する少し前まで、由紀恵の上司もいたらしい。明日、由紀恵の職場にも挨拶に行かなくちゃ、と懐空は思った。


「それじゃ、由紀恵さん、お大事にね」

 完全看護で家族も帰らないといけないと言われ、懐空も尚弥たちと一緒に実家に帰る事にした。いろいろな手続きは明日でいいという。

「尚弥、あんた暇でしょ? 明日も車、出してあげなさいよ」


 懐空が遠慮して辞退するのに尚弥の母親は聞かず、尚弥にも気にするなと言われて、懐空は甘えるしかなかった。


 実家まで送って貰う車の中で、尚弥が懐空を揶揄からかってくる。

「こいつ、今日、アパートに彼女、れ込んでたみたいだよ」

「え?」

「あらま。由紀恵さん、喜ぶかも。うちの息子は晩熟おくてで心配って言ってたから」

尚弥の母親が真に受けて、わがことのように喜ぶ。


「彼女をアパートになんか呼んでませんって」

「だって、あのサンドイッチは? ありゃ、コンビニのじゃない。手作りだろう?」

「あぁ……あれは隣の部屋の人の差入れです。帰ったとき廊下で出くわして、で、気をかせてくれたんです」

「へぇ……女だろ? 懐空に気があったりしてね」

「ないですって、大人の女の人だし」

「あら、大人の女もいいもんよ。わたしみたいに」

尚弥の母親が茶々ちゃちゃを入れる。そうですね、とも、そんな事ないです、とも言えず、懐空が口籠くちごもると

「母ちゃん、懐空が困ってるだろ ―― まぁさ、懐空は同じ大学の可愛いコと付き合ってるから」

「やっぱり彼女、いるんじゃない。わたしじゃダメか。懐空くん、わたし好みのイケメンなのにな、ざぁーんねん」

「母ちゃん、少しは黙ってろ!」

尚弥が笑い、懐空もつられて笑った。自分の母親と尚弥の母親が仲がいいのも判る気がした懐空だった。


 久しぶりの実家は、何も変わっていないのに、懐空には馴染のない家のように落ち着かなかった。

(そうだ、母さんがいないんだ)


 この家を出て、アパートで独り暮らしを始めた頃の寂しさと、まったく違う寂しさだった。

(母さんがいない ―― それでこんなにこの家が、別の家に見えるものなんだ)


 部屋が寒々しいのは暖房がまだいていないからじゃない。部屋を暗く感じるのは、電灯が古いわけじゃない。母さんがいないからだ……


 なんだか涙が滲んできて、子どもじゃあるまいし、と懐空は苦笑いした。


 スマホを見ると麗奈れなからメッセージが届いていた。心配しているはずだ、連絡しなきゃ、と慌ててSNSを開く。


 麗奈からのメッセージは一言、『大丈夫?』とだけだった。時間を見ると21時だ。まだ電話してもいいはず、電話のほうが麗奈も喜ぶ、と思ったが、麗奈は出なかった。


 きっと入浴中だと思い、懐空もメッセージを送った。


『心配させたね。母は虫垂炎で6日で退院できるって。過労もあるって医者は言ってた』


 そこまで打ち込んで、あと、何を伝えればいいんだろう、と懐空の指が止まる。


(あ、そうだ。すっかり忘れてた……)

今日はありがとう。マフラー、大切に使うよ。途中で帰ってしまってごめんね。


そして少し迷ってから、

「麗奈、大好きだよ」

と打ち込んだ。麗奈が目の前にいる訳でもないのに、懐空は顔が熱くなるのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る