12

 桜の葉も紅葉こうようするのだと、その秋、懐空かいあは知った。今までだって見ているはずなのに、桜とは認識していなかった。アパートの桜の木を意識して見るようになって、初めて気が付いたのだ。『桜もみじ』と言う言葉を教えてくれたのは愛実あいみだった。


 苦しい胸の内を愛実に吐露とろして以来、愛実は懐空を『カイア』と呼び捨てにした。そして愛実の事を名前で呼ぶよう懐空に言った。苗字じゃ堅苦しいと言う。仕方なく『愛実さん』と、懐空は愛実を呼んだが、気恥ずかしいのも初めの内だけだった。


「夏休みにさ、千佳ちか、鹿児島に帰って来なかったんだよ。宮崎のアパートで暮らしているんだって」

 忠司ただしが懐空にそう打ち分けたのは、桜の葉が色付き始めた頃だった。

「大学で、他に好きな人ができたって、俺に会えば言わなくちゃならない。だから帰って来なかった」

「忠司……」

「俺、向こうにいる時、千佳の家に行ったんだ。そしたらお袋さんが、千佳は大学の近くにアパート借りたのよ、って。ヘンだと思った。家から通えるところ、って言って宮崎の大学にしたのに。それに俺、家を出たなんて千佳から聞いてなかった」

「うん……」

「お袋さんは、便利だから友達とルームシェアするんだって、って言ったけどさ……新しい彼と一緒に ――」


 忠司はしばらく黙ったままだった。何かをこらえていると懐空は思った。涙か、それとも怒りか?


「せめてさ、直接、顔を見て言って欲しかった。SNSで『ごめん』ってそりゃないだろう? たった3ヶ月なのに、寂しさにえられなかった、って、寂しいのは俺も同じだ、って、SNSじゃ言い返せもしない。そうメッセージ送るなんて、みじめで俺にはできない」

「うん……」

「判った、って返事するしかないじゃないか。今さらだよ。そうなる前に一言ひとことあれば、会いに行くことだってできたのに」

「そうだよね……」

「でもさ、そんなのも、今さら、なんだよな。判った、って言ってしかないよな。そうだよな?」

「うん、忠司の言う通りだ」


 忠司は夏休みが終わってから彼女の話を懐空にしたことがなかった。彼女は元気だったか、と聞く懐空に口籠くちごもって答えなかった。別れのメッセージは最近来たようだけど、きっと忠司には予感があっただろう。


 夏には会いに行っても会えなかった、しかも家を出た事を聞いていないのに彼女は家にいなかった。忠司じゃなくても気が付くはずだ。


 でも、それでも、忠司は修復できる時を待っていたのじゃないか。何とか修復しようとしたのじゃないのか。


 彼女も、どこかで迷っていたのじゃないのか。心のどこかで忠司のもとに帰りたいって思ってたんじゃないのか。


 そして彼女は決断した。忠司とはもう会えない。


「懐空、麗奈ちゃんを逃がすなよ。あの子はいいコだ、手を離すな」

「うん、大事にしてるよ」

「大事にしてる、か。懐空らしいや……でもさ、大事にする方法を間違えるなよ、懐空」

「え?」


 次の授業に行くと、忠司は言いたいことだけ言うと行ってしまった。


 尚弥なおやとはタコパの後、ますます親しくなり、と言うか、尚弥のほうから懐空をかまう事が増えた。懐空の勉強に役立つような参考書を貸してくれたり、考査が近くなると教授の傾向と対策や、過去問題のプリントをくれた。


 だから尚弥に借りた本を返そうと学内の居場所を聞くためにSNSを使ったら、

『昨夜から扁桃腺へんとうせんれて発熱中。家で寝てる』

と返信が来た時、懐空は迷わず見舞いに行くことにした。


 懐空の母も扁桃腺をよく腫らしていた。痛いし腫れた扁桃腺が邪魔をして、食べ物が喉を通り辛い。母はそんな時、プリンとかゼリーしか口にしなかった。熱があれば、尚弥はコンビニにも行けないだろう。


 プリンを買って今から行く、とメッセージを送ると、『悪いな、助かるよ。甘えさせてもらう』と尚弥から返信があった。

『部屋の鍵は掛けてないから、勝手に入ってくれ。起きて玄関まで行くのも辛いんだ』

と続いていた。


 コンビニに寄り、プリン5個と果物が入っていないゼリーとヨーグルトをいくつか選んだ。熱があれば消化の悪い果物は避けたほうがいい。ひたいに貼る熱冷ねつさましのシートも目についたので、尚弥の家にも有るかな、と思いつつ一緒に買った。そうだ、脱水にもなりやすいはずだ、と、会計の途中で待ってもらって、スポーツ飲料も追加した。


 尚弥が住んでいるのはマンションとは名ばかりの、それでもコンクリートの3階建てだ。もちろんセキュリティなんてない。敷地内の駐車場にきがあったからここにした、と尚弥は言っていた。


 メッセージにあったとおり、玄関ドアは施錠されていなかった。


「坂下先輩、大野です、入りますよ」

 声をかけ奥の部屋に行くと、尚弥が布団の上に起き上がろうとしていた。

「あ、無理しないで、寝ててください」

「いや、プリン、買ってきてくれたんだろう?」

と、しわがれた声で言って尚弥が苦笑する。扁桃腺のせいで声も出にくいのだろう。

「薬、飲もうと思って。でも、食べられそうなのがなくて困ってたんだ」


 尚弥はプリンとゼリーとヨーグルト、それぞれ1つずつ食べると、市販の解熱剤をスポーツ飲料で飲んだ。


「ゼリーとヨーグルトだけど、果物入りじゃないのはわざとですからね。消化、悪いらしいんですよ、果物って。ケチったわけじゃないですから」

 懐空の言い訳に尚弥が吹きだす。

「ホント、懐空、可愛いよな、素直で。俺、懐空が好きだ。今日、よくしてくれたからじゃなくって」

「先輩、声、ガラガラ……無理に喋んないでください。それに、熱が原因とはいえ―― そんなに潤んだ目で好きだってコクられたらボク……」

懐空の冗談は、尚弥を大笑いさせ、更に咳込ませてしまった。

「これでしばらく眠れば良くなる。本当にありがとう」

「玄関、鍵かけた方がいいです。鍵を貸してくれれば、外から掛けて新聞受けから放り込んでおきますよ」


 懐空の申し出を、うちはいつも鍵はしないんだよ、と尚弥は断った。


 桜もみじが夕日に映えるのを懐空が眺めているときだった。

「カイア、柿、好き?」

声をかけてきたのはもちろん愛実あいみだ。いまだアパートの空室は埋まっていない。

「スーパーで買ってきたんだけど、一人じゃ食べきれない。お裾分すそわけ、もらってくれると助かるな」

「柿、好きなんですか?」

「ううん、それがそうでもないの。なんだけど、なぜか無性むしょうに食べたくなって、つい買っちゃった。で、いつも食べて後悔する。カイア、そんな事ない?」

「今のところはないかなぁ……柿、好きですよ。ありがとう」


 懐空にレジ袋を渡すと愛実も懐空に並んで桜を見上げる。渡されたレジ袋はずっしり重い。きっと愛実は1つ食べただけなんだ、と懐空は思った。


「友達の彼女がね、大学で知り合った人と同棲してるんだそうです」

「おや……カイアの友達、フラれちゃったんだ」

 なぜだか愛実の意見を聞いてみたいと思った。愛実ならなんと言うだろう。

「うん、友達は遠く離れてこっちの大学に来て、彼女は親元から通える大学に行った」

懐空は忠司に聞いた話をできるだけ忠実に愛実に話して聞かせた。


「ふうん……友達はSNSじゃなく、直接話したかった」

「うん。でも、僕はSNSで良かったんじゃないかって思うんです」

「カイア、男と女の間に……いや、人間関係に、かな、正解はないと思うよ」

「正解?」

「もっと言えば、人生に正解はない。そして人の数ほど正解がある」

「やっぱり愛実さんって大人ですよね」


 すると吹きだした愛実が

「わたしだって迷ってばかりで、こんなこと言えた義理じゃないけどね」

と言う。

「友達も彼女も、答えを先延ばしすることを選んで、でも、きっちり答えを出した。互いにダメージはあるはずだから、カイアは友達のそばに居ればいいんじゃない? カイアじゃ彼女の変わりにはなれないけど、いないよりは少しはマシだと思うよ」

「少しはマシ、そうかもね」

つい懐空も笑う。


「僕、彼女いるんです」

「だろうね。そんな気がしてた。引っ越してきたときと雰囲気、変わったもん、カイア」

「……で、その友達に、彼女を大事にする方法を間違えないように、って言われて。大事にするって、なんだろうって考えちゃったんです」

「うん……」

「友達だって彼女を大事にしてなかったはずはないと思うんですよ。でも、彼女は近くにいる人に心移りした。近くにいればそうならなかったのかな?」

「うーーん、それは判らないよね」

「やっぱり?」

「近くにいれば別れが来ないなら、離婚する夫婦もいない訳だよね」

「そうですよね」

「カイアはさ、その友達が『大事にする方法を間違えるな』って言った意味、心当たりあるの?」

「いや、判るような、判らないような」


 忠司は多分、麗奈を焦らしすぎるな、と言ったんだと思った。麗奈は懐空を求めている。与える事に何を躊躇ためらう、そう忠司は言いたいんだと思った。


「実は判っていると、顔に書いてあるぞ、カイア」

 愛実が笑う。

「その……彼女が何ですか、うーーん、家に泊まってくれって言うんだけど、僕、なんか、違う気がして踏み切れなくって」

愛実がまじまじと懐空の顔を見る。

「ほんと、絶滅危惧種ぜつめつきぐしゅみたいだね、カイアは。今時いまどきいるんだね、こんな男も」

「愛実さん、あきれてますよね。やっぱり僕、ヘンですか? 間違ってますか?」

「間違っちゃいないけど……理解はしてないと思う」

「理解?」

「したくもないのにする必要はない、強要するのもダメ」

「うん」

「カイア、性欲あるでしょ? 自分でしたりするでしょ?」

「そりゃあ……」

嘘はけないと思った。急激に顔が熱くなる。

「恥ずかしがらない。それが普通。健康な証拠」

「はあ……」

「それはカイアだけじゃないってこと。男だけじゃないってこと。頭では判っているよね?」

「……はい」

「心だけじゃなく体も満たす、それが恋人同士が愛しあい、愛を確かめる手段にもなるとわたしは思うよ。経験のないカイアには実感 かないかもしれないけど……でもまあ、彼女にこたえてあげたいと思うまで、無理することもない。義務や責任感でする事じゃないもん。まだ、カイアは彼女を愛していないのかもしれないね。でないとしたら愛し過ぎてる ―― あっ、サクラちゃん!」


 どこからか姿を現したサクラ猫のサクラに、愛実はすっかり気を取られたようだ。途中で話を打ち切ってしまった。しゃがみ込んだ愛実を見るともなく懐空は見る。


 僕は、まだ麗奈を愛していないのだろうか。それとも愛し過ぎているのだろうか……

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